第十一話
ヒュンダイ・ポニーを追跡したコンは、スフバートル市内で撒かれてしまった。セレンゲ警察が、直後に市外へと出る主要道路を監視し、通過したポニーをすべて調べたが、ズーハオらは発見できなかった。
敵が車を替えたと判断したアリシアは、セレンゲ警察に市内の捜索と中古車販売の状況調査、それに盗難車の確認を依頼した。セレンゲ警察はなかなかに有能であった。わずかな時間で、乗り捨てられたポニーを発見し、さらに近所でボルボCX60が盗まれたことを突き止める。
「どこへ逃げるつもりでしょうか」
警察署内で借りた一室で、ツァオが首を傾げる。
「ウランバートル方面へいったん逃げたか、別な場所で国境越えを目指して西へ向かったか……」
モンゴル中北部の地図を見つめながら、アリシアはつぶやいた。
「中校。重要な情報を入手しました」
北京語の達者なモンゴル人警官が、アリシアを呼ぶ。
「ツァガンヌールのガソリンスタンドで、ボルボCX60が給油したそうです。ボルボが盗まれたと推定される時刻の約二時間後のことです」
「ツァガンヌール?」
「ここです」
モンゴル人警官が、アリシアの地図の一点に指を置く。スフバートルから西南西に五十五キロメートルほどの処にある田舎町だ。
「間違いなく、ズーハオたちなのですか?」
語気鋭く、ツァオが訊く。
「運転していたのは男性、助手席に女性。それに、後部座席に小柄なロボットが二体いたとのことです」
「なら間違いないわね。この街の先は……」
アリシアは、地図を睨んだ。
「山岳地帯です。北にターシクという小さな村がありますが、今のところそこにボルボCX60が現れた形跡はありません」
モンゴル人警察官が地図を指す。ターシクは、ツァガンヌールから北西に三十五キロメートルほどの位置にあった。その数キロメートル北には、ロシアとの国境がある。
「付近の国境警備隊には連絡済みです。警戒強化を依頼してあります」
懸念を顔に表したアリシアを見て、モンゴル人警察官が告げる。
「西にも行けそうですね」
ツァオが口を出す。
「まともな道路はありませんが、ヒョーガナットへ抜けるルートはあります。そこから西へ行けばセレンゲ、南下すればエルデネトに行けます」
地図を示しつつ、モンゴル人警察官が説明する。
「エルデネト潜伏を狙っているのでは?」
ツァオが、言う。
エルデネトは銅鉱業で急成長中の都市である。外国人も多く、潜伏場所にはうってつけだろう。
「……その可能性は薄そうね」
アリシアはそう判断した。都市潜伏を狙うなら、幹線道路を逃げた方が有利である。ひょっとすると、無計画に逃げ回っているのかも知れないが、それよりも山岳地帯への潜伏を狙ったと考える方が自然だろう。それでも可能性がある以上、用心はすべきだ。アリシアはボルガン県とオルホン県の警察にも、ズーハオらの手配を依頼した。
「この辺り人は住んでいるのかしら?」
手配が終わったところで、アリシアはモンゴル人警察官に、ツァガンヌールの西方を曖昧に手で指し示しながら訊いた。
「放牧には適していませんが、山間で細々と家畜を飼い、農業も行って生活している者はいます。もちろん、数は多くありませんが」
「そう。いずれにしても、この辺り警察力は薄いわね」
「残念ですが、そうですね」
モンゴル人警察官が、素直に認める。
アリシアはスマホを取り出すと、カオ部長に教えてもらった番号に掛けた。モンゴル国防省戦略政策企画部の将軍に、話を通してあると聞かされている。
電話に出た将軍は愛想が良かった。通訳を介して、捜索のための人員と車両の派遣を即座に確約してくれる。ダメもとで提案したヘリコプターによる空中からの捜索も、あっさりと承認してくれた。アリシアは連絡要員として、ウランバートルに残っていたジンを送ると申し出てから、重ねて礼を言って通話を切った。
どうやら、カオ部長はかなりの圧力をモンゴル国軍に掛けてくれたようだ。
「これからどうします?」
ツァオが、訊く。
「モンゴル軍が来てくれるまで動けないわね。……食事にでも行きましょうか」
アリシアはハンドバッグを取り上げた。ここスフバートルにも、美味い中華を喰わせる店くらいあるだろう。
ゲルの中は中々に快適であった。
広さはそれほどでもないが、ベッドや箪笥、テーブルなどの調度類は一通り揃っている。中央部には炊事用かまど兼用のストーブが据えられてあり、そこから煙突がゲルの屋根を貫いて伸びている。
テムレーンの妻が、一行を座らせた。すぐに、茶の準備を始める。
「はっと! ここは電気が通じているのでありますか?」
いかにもモンゴル調のオレンジの地に複雑でカラフルな文様が描かれたローボードの上に、液晶テレビが載せてあったのを見つけたシオは、上座に座ったテムレーンにそう尋ねた。
「自家発電じゃよ。太陽電池パネルがある」
にこにこしながら、テムレーンが答える。
「充電させて欲しいのですぅ~」
ベルが、身を乗り出して懇願する。
「もちろんいいとも。ロボットに茶を出しても仕方ないからな。これも歓迎の印じゃ」
テムレーンが破顔して、許可を出す。
シオとベルはさっそく充電を開始した。
テムレーンの妻が、マイクとズーメンにツァイを淹れる。お茶請けには、自家製ヨーグルトが出される。
お茶を飲みながら、マイクが事情をテムレーンに説明する。
「なるほどよく判った。わしも今の中国政府は嫌いじゃ。他ならぬお前の頼み。喜んで協力しよう」
聞き終えたテムレーンが、破顔して言う。
「ありがとうございます、師匠。まずは彼女たちに馬の乗り方を教えねばなりません。ご協力いただけますか?」
マイクが、いつもとは打って変わった低姿勢で、テムレーンに頭を下げる。
「いいとも。まだ陽はあるな。さっそく始めようか」
テムレーンが、腰を上げた。
一同は、テムレーンを先頭にぞろぞろとゲルを出た。放牧地へ行くために川の方へ向かい始めたところで、ベルがマイクの袖を引く。
「なんだ?」
「わたくし思いますに、車を隠した方がよろしいのではないでしょうかぁ~」
放置されているCX60を指差して、ベルが言う。
「そ、そうだったな」
マイクが、慌てたようにポケットから鍵を取り出す。ズーメンが、それを見て呆れたようにそっとため息をついた。
テムレーンが、車の隠し場所として小屋のひとつを快く貸してくれる。冬のあいだ家畜に与える干し草を保管する建物なので、今は何も入っていない。車一台入れる余裕は充分にある。かなり粗雑な造りの木造だが、冬場はほとんど雨が降らないモンゴルでは、これで充分に倉庫として通用する。
マイクが、バックでCX60を小屋に入れた。
モンゴル馬は、一般的な分類ではポニーの枠に入れられる馬種である。
競走馬として名高く、一般的にもなじみ深いサラブレッドの体高(肩までの高さ)は百六十から百七十センチメートルほど。これに対し、モンゴル馬の体高は百三十から百四十センチメートル程度である。
脚も短く、全体的にずんぐりしており、顔つきも馬特有の精悍さに欠ける。これを『不細工』と感じるか、あるいは『かわいい』と感じるかは、見る人の感性によるであろう。
AI‐10の基本的なプログラムでは、大抵のものを好意的に捉える仕様になっているので、シオもベルもモンゴル馬をすぐに『可愛い動物』と判定した。幼児向けの馬のぬいぐるみをそのまま大きくしたような感じで、なんとも愛らしく見えてしまう。
「うちで乗れるのはこれだけだ。ちょうど、五頭いるな」
テムレーンが、五頭の馬の手綱を引いてくる。
「すべて去勢馬だ。普通、乗用にするのは牡の去勢馬だけだ。牝馬は大事だからな。もう一頭牡が居るが、あいつはもっと大事な種馬だ」
テムレーンが、視線で他の馬よりも一回り大きなモンゴル馬を指し示す。牝馬たちを周りに引き連れた、堂々たる黒馬だ。
「なんという格差社会! 種付けに使えない牡馬は去勢されたうえにこき使われ、種馬は牝を独占のハーレム状態! 同情の涙を禁じ得ないのであります!」
シオは泣き顔を作って言った。
「お馬さんの世界も相当ブラックなのですぅ~」
ベルも困り顔で言う。
テムレーンとマイクが、馬に鞍を載せてゆく。フェルトや革で作った敷物の上に、独特な形の木製の座部が載っている、遊牧民が使う鞍だ。
「家型埴輪の屋根の部分のようですねぇ~」
ベルが、的確だが判りにくい例えを口にする。前後に反り上がったカヌーのような形状で、それぞれ前後に押さえ板のような物が付いている。材質は白樺で、使い込まれて古びているにも関わらず淡い色を保っている。
モンゴル語が判らないズーメンには、マイクが乗馬を教えることになった。シオとベルには、テムレーンが教えてくれる。
テムレーンが、まずは口頭で乗馬の際の注意事項を並べ立てる。馬の視野の外……特に後方からは近寄らないこと。むやみに触らないこと。そばや馬上で大きな音や奇声を発しないこと。馬が困惑するような動作を行わないこと……。
「慣れているとはいえ基本的に憶病な草食動物だからな。とにかく驚かせないことだ」
「……ロボットに驚いたりはしないのでしょうかぁ~」
ベルが言って、テムレーンに大人しく手綱を握られている三頭のモンゴル馬をしげしげと見る。毛色はそれぞれ茶褐色、淡い茶色と白のまだら、淡い黄褐色でたてがみと尻尾が黒、である。専門用語で言えば鹿毛、駁毛、河原毛になる。
「とりあえず大丈夫のようだな。では、乗ってみるか」
テムレーンが、丈夫な長い木の棒を持って来て、茶褐色の馬の左側に突き立ててくれる。普通、人が乗る場合は鞍を手掛かりに、馬の左側のあぶみに足を掛けて一気によじ登るようにして鞍に跨るのだが、AI‐10の低身長では鞍に手が届かないし、あぶみにも足が届かないのだ。シオはテムレーンが立ててくれた棒を手掛かり、足掛かりにしてようやく鞍に取りつき、足をあぶみに掛けた。じたばたしながら、なんとか鞍に跨ることに成功する。
慣れぬ感覚に戸惑っているのか、馬が鼻息を荒げた。胴をぶるぶると震わせ、前脚で落ち着きなく地面を蹴る。手綱を握るテムレーンが声を掛けると、ようやく馬が身じろぎをやめた。
「……あぶみに足が届かないのであります」
シオは困惑して言った。人間サイズに合わせてあるから、当然の話である。手綱は元から余裕を持たせてあるから、なんとか持つことは可能だが、あぶみは使わずに乗るしか無いようだ。
「よし。歩いてみようか」
テムレーンが手綱を握ったまま、馬に舌を鳴らすような声を掛け、前進を促す。馬が、ゆっくりと歩を進め出した。シオは、馬上でバランスを取ろうとした。
人間の成人の場合、重心の位置はへそのあたりにある。脚が短く、頭部が大きい幼児の場合は、重心はより高い位置となる。
脚が極端に短く、頭部が大きくて重いAI‐10の場合、重心位置は幼児よりもさらに高い位置にある。大人の人間が馬に跨った場合、長く重量のある足が適度なバランサーとなって上体を支える形になるが、短足で頭でっかちのシオはバランスを取るのに苦労した。ふらふらと揺れる上体を、腕を広げることによってなんとか安定させようとする。
三分も歩みを続けると、シオの運動機能を司っているプロセッサーが馬の動きを解析し、そのリズムに合わせてシオの動きを制御するようになり、シオは腕を広げなくてもバランスを保てるようになった。馬の方も、妙に重心の高い五十キログラムという重量の『異物』に慣れ、安定した動きを学習する。双方が慣れたことにより、乗馬姿勢はさらに滑らかなものになった。
「そろそろいいだろう。もう少し慣れたら、軽く走らせてみるのもいい。少し上体を前かがみにして、右手を挙げて一声かけてやれば、走り出す。ただし、あんまり調子に乗るなよ」
テムレーンが忠告してから、手綱をシオに預けてくれた。ベルのレッスンのために、小走りに引き返してゆく。
手綱を握ったシオは、慎重に馬を歩ませ続けた。手綱を引き、方向転換の合図を送ると、馬は素直に従ってくれた。
「お前とは友達になれそうなのです!」
シオは馬を刺激しないように小声で言ってみた。日本語で言ったのだが、まるで馬が言葉を理解したかのように、ひひんと小さく嘶く。
高緯度地方……日本周辺で言うと、北海道を通り越してサハリン中部あたりと同緯度となる……なので、モンゴルの夕暮れ時は長い。しかし、ここは山あいなので、太陽が西側の山陰に隠れるとあたりはあっさりと薄暗くなってしまった。
シオとベル、ズーメンの乗馬素人三人組は、騎乗したまま川を渡った。テムレーンは、牧羊犬たちと一緒に家畜をまとめる作業をしている。マイクが、乗馬のままそれを手伝っていた。
「ヘリコプターの音がしますですぅ~」
ゲルや小屋が並ぶあたりにたどり着いたところで、ベルがそう言って暗さを増した空を振り仰いだ。AI‐10の光学カメラならば通常モードでも星が見えるが、人間の肉眼ではシリウスでもまだ見えない、といった程度の夕暮れである。
「やばいのです! あたいたちを探しているかもしれないのです! 隠れるのです!」
シオは馬に速歩の合図を送った。近くの小屋の中に、無理やり馬を入らせる。ベルが続き、上体を折ったズーメン……そのままでは頭が天井につかえてしまう……が入った。
シオは馬を降りると、小屋の戸口から外を覗いた。ヘリのローター音は大きくなりつつあり、明らかに近付いている。エンジン音も、聞こえ出した。
いきなり、川の下流側から暗緑色に塗られた大きなヘリコプターが飛び出して来た。俵型の大きな胴体と、その両脇に取り付けられた特徴的な補助燃料タンクから、機種は容易に判別できた。
「ヒップですねぇ~」
ベルが嬉しそうに言う。ソビエト/ロシア製の大ベストセラー輸送ヘリコプター、Mi‐8/Mi‐17系である。おそらく、モンゴル空軍の機体だ。
高度は、わずかに二百メートルほど。通常の飛行とは思えない。明らかに、川沿いの平地を捜索しているのであろう。
「危ない危ない。ボルボを見られたら、怪しまれるところだったのです」
シオは額の汗を拭うふりをした。テムレーンとマイクなら、見られても家畜を集めている遊牧民と判断されるだろう。
轟音を残して、ヒップが飛び去って行った。
第十一話をお届けします。




