第七話
夜は何事もなく更けてゆき、なおもハイテンションのシオとベルはノリノリで見張りを続けた。東の空がほの明るくなった頃、ごそごそと人間たちが起き出す。
サルナイが朝食の支度に掛かり、ルークとマイクが最終的な打ち合わせを始める。朝食のメニューは、ミルク粥だった。といっても、よくある甘いやつではなく、塩とバターで味付けするタイプである。
朝食を済ませたルークが、一足先にアパートメントを出てゆく。十分ほど待ってから、シオとベルはマイクを手伝って、外に停めてあるハイエースに『商品』の詰まった段ボール箱を運び入れた。本来ならば、目立たない夜間にやっておくべきなのだが、横行する車上荒らしを避けるためには仕方がない。
二往復ですべてを運び入れると、すかさずマイクがエンジンを掛けた。マスクで顔を隠したズーメン……モンゴル都市部は大気汚染が深刻なので、マスク姿は珍しくない……が私物を入れた肩掛けバッグを手に階段を降りてきて、ハイエースに乗り込む。
「よし、行くぞ」
一足先に後部に乗り込んでいたシオとベルに一声かけると、マイクがハイエースを発進させた。幹線道路に乗り入れ、北西のウランバートルを目指す。
途中、道路左手にあった小さな『エブリディ』というスーパーマーケットの駐車場から、ラーダ・カリーナが出てくるとハイエースの後ろに付けた。
「ルークさんの車ですぅ~」
後部ウィンドから見て、運転者を確認したベルが、そうマイクに報告する。
マイクがハイエースの速度を落とした。すかさず、ルークが追い抜く。ルークが先行し、露払いとなり、警察による臨時の検問などがあれば、即座にスマホでマイクに連絡し、これを回避する、という段取りである。
ワン・ズーハオが動きそうだという報告が入ったのは、アリシアがウランバートル市内のホテルで朝食を採っている最中だっだ。
アリシアは慌てずに、スマホで部下に指示を与えながら、朝食を続けた。こちらの読みが正しければ、ズーハオはウランバートルを経由してアルタンブラグを目指すはずだ。こちらはウランバートルに居るのだから、焦る必要はない。念のため、次席のコンに連絡し、待機中の全員に呼集を掛けるように命じておく。
ポリャコフ元曹長がアパートメントを出たという報告を聞いたアリシアは、食後の紅茶を飲む手を止めてしばし考えた。追尾するべきだろうか? いや、部下の数は限られているし、本命は言うまでもなくズーハオである。ここは自重すべきだろう。それに、ポリャコフ……ルークはかなり優秀な人物らしい。尾行に気付かれるおそれもある。
中国人らしい男と、小柄な二体のロボット……遠方からの監視なので、型式などは判然としなかった……が車に荷物を積み込み始めた、との報告が届いた時点で、アリシアはワン・ズーハオがアルタンブラグへ向かうことを確信した。部下全員に、所定の作戦行動に移るように命ずる。
アリシアが連れてきた部下は全部で八名。カオ部長いわく『楽な任務』ということなので、経験不足の若手中心のメンバーである。そのうち、モーはすでにアルタンブラグで待機中だ。次席のコンを含む五人は、ナライフでアパートメントを見張っている。アリシアを別にすれば唯一の女性であるツァオが連絡係としてウランバートルに待機。今回が初任務のジンが、予備要員としてアリシアと同じホテルに居る。
アリシアの命令に従い、部下たちが一斉に行動を起こした。ナライフで待機していた二人が、トヨタ・カローラに乗ってウランバートル市街へと向かう。コンともう一人の部下も、トヨタ・マークⅡに乗り込み、尾行の準備を整える。残る一人は、ズーハオが立ち去った後も念のためアパートメントを張り続ける。
ツァオがジンを呼び寄せ、連絡役を引き継がせると、トヨタ・カムリに乗ってアリシアが泊るホテルへ急行する。……ハイエースを始め、なんだかトヨタ車ばかりになってしまったが、現実にモンゴルの路上はトヨタ車で溢れかえっているのだから、リアリティ重視のためには仕方がない。
支度を始めたアリシアのスマホに、コンから着信があった。中国系男性が運転し、ワン・ズーハオと思われる女性と小型ロボット二体が乗ったトヨタ・ハイエースが、走り出したという報せだった。ハイエースが幹線道路に乗り、ウランバートル市街へ向かったと聞いたところで、アリシアは追尾続行を指示した。コンとの通話を切り、メールでカオ部長に短い報告を送る。
直後に、スマホに着信があった。発信先は、カオ部長が使うスマホのひとつである。
「はい」
「わたしだ」
カオ部長の声が聞こえた。秘話回線ではないので、お互い名乗ったりはしない。
「報告は受け取った。実は、その少し前に公安部にたれ込みがあった。『WZ』が本日午後に、アルタンブラグで国境を越え、ロシア入りするという情報だ」
『WZ』は、ワン・ズーハオを表す隠語である。アリシアの顔にわずかに驚きの色が浮かんだ。
「……正確な情報のようですわね」
「『WZ』がモンゴル入りしていることはもちろん未公表だ。『ZT』関係者からのリークかもしれん」
「とすると、今ウランバートルに向かっているのは囮の可能性が……」
アリシアはそう口にした。囮とそれを補強する偽情報により、こちらをアルタンブラグへと誘導する。そのあいだに、本物のズーハオが別ルートで脱出を図る。古典的だが、それだけに有効な手段である。
「いや、それはないだろう。君は『WZ』を追い、国境を超える寸前で逮捕しろ。国境に近付かなかった場合は、継続監視だ。モンゴル法務省を通じて、警察と国境警備隊には話を通しておく」
「了解しました」
訝りながら、アリシアは通話を終えた。
……どうも腑に落ちない。
ホテルのエレベーターで一階に降りながら、アリシアは内心で首を捻った。『自由天使』内の抗争で、誰かがワン・ズーハオの追い落としを図っているのであれば、潜伏しているアパートメントの住所を伝えれば事足りる。いかにも『国境越えする前に押さえろ』と言わんばかりのたれ込みは、囮にこちらが喰らい付くことを期待しているかのようだ。だが、カオ部長は囮の可能性はないと言う。
……ロシアの陰謀か?
アリシアの脳裏に、そんな疑いが浮かんだ。
冷戦時代は、ソビエト連邦の忠実な衛星国家だったモンゴル……当時は人民共和国だった……も、いまや中国の経済植民地となりつつある。モンゴル軍はいまだロシアの影響力下にあるが、政府の方はすでに北京の願いならばなんでも聞き入れてくれるレベルだ。
その中蒙関係に、楔を打ち込もうとする陰謀ではないのか。モンゴルの主権を無視し、中国当局が反革命分子……連中の自称によれば民主化革命化の闘士……をモンゴル国内で逮捕する。素人でも、ネット環境が整えば、全世界に向けて映像を生中継できる時代である。その模様が、西側諸国にリアルタイム中継されれば、中華人民共和国は面子を失うだろう。共産党に打撃を与えようとした自由天使が、モンゴルにおける優位を取り戻そうと企むロシア共和国と手を結んだ、というのは、荒唐無稽な話ではあるまい。
……踊らされているのは、間違いないな。
ホテルのロビーを横切りながら……半ば無意識のうちに、怪しい人物がいないかどうかチェックしつつ……アリシアはそう思った。問題は、誰に踊らされているかだ。その相手が、自由天使や外国の情報機関ではなく、カオ部長であることを、アリシアは切に願った。
ウランバートルから北方向へ向かうルートはふたつある。バヤンチャンドマニを経由する西寄りの道か、バッツンバーを経由する東寄りの道である。道路状況は西寄りの方が良好であり、交通量も多いので、ワン・ズーハオらもそちらを利用するとアリシアは踏んでいた。
二台の車……カムリとカローラは、幹線道路を低速で流した。やがて、ズーハオらの乗ったハイエースが西寄りの幹線道路に入り、北上を開始したとの連絡がコンから入る。
アリシアは安堵した。カローラに先行するように命ずると、カムリのハンドルを握るツァオにさらに速度を落とすように命ずる。後部座席に移ったアリシアは、双眼鏡を取り出して後ろを走る車両を探り始めた。
『跡をつける』だけが『尾行』ではない。対象の目的地がある程度判明していれば、先行して尾行することも可能なのだ。そしてこの方法は、後方からつけるよりもばれにくいという利点がある。
いた。
白いトヨタ・ハイエースが走っている。一台のヒュンダイ・ソナタを挟んで、コンの乗るマークⅡも見えた。アリシアは、双眼鏡をのぞいたままスマホを操作し、コンに尾行を引き継ぐことを連絡した。マークⅡが、ごく自然に減速し、道路脇に現れたガソリンスタンドに入っていった。
アリシアは、時折眼を休めながら、充分に距離を置いてハイエースの監視を続けた。一時間半ほどその状態を続けてからスピードを上げて車間距離を開き、監視をカローラの部下に引き継ぐ。
カムリを運転するツァオは、前方を走るラーダ・カリーナとの車間を詰めた。カムリの接近に気付いたらしいカリーナが、車体を右に寄せて減速し、『追い抜いてくれ』という意思表示をする。ツァオは反対車線の安全を確認してからさらにアクセルを踏み込み、カリーナを追い抜きに掛かった。
この時、アリシアはスマホでコンと連絡を取っており、追い抜かれてゆくカリーナに注意を払っていなかった。まだ若手で余裕のないツァオも、安全運転に集中しており、カリーナのハンドルを握る人物がポリャコフ元曹長……ルークであることに気付かなかった。
「変な塔があるのですぅ~」
ハイエースの窓外を見ていたベルが、指差す。
道路からかなり離れたところに、石を積んで作られた低い塚のような物があった。そこに木製らしき棒が何本か叉銃のように組み合わされて建てられ、さらにそれに白や青い布が巻き付けられ、風に煽られてはたはたとはためいている。
「オボーだ」
ハンドルを握るマイクが、言う。
「モンゴルの土着信仰に基づく石塚だな。精霊が降りてくる場所、とも言われている。チベット仏教が入ってからは、そちらとも結びついて祭事が行われたりもしているそうだ」
「シャーマニズムにおける宗教シンボルなわけね。素朴な宗教観が残っているところなら、世界中に似たような物があるわ」
ズーメンが、言う。
反対車線に車がいないことを確認してから、ルークはアクセルを踏み込んで、のろのろと走るカローラを追い抜こうとした。
真横に付けた時、カローラの後部座席になぜか後ろ向きに座っている男の手に、黒い物体が握られているのが見えた。……双眼鏡だ。
ルークは何食わぬ顔で追い越しを終えると、バックミラーで後ろに付いたカローラを観察し続けた。運転している男は、中国人風の顔立ちだった。なおも低速で走り続けており、ルークのラーダ・カリーナとの車間は開いてゆくばかりだ。
まるで、後ろから走ってくる車が近付くのを待っているかのような……。
ルークは驚いた。朝早くに人を介して、北京の中国公安局にズーメンの国境越えに関する情報は流した。中国側がそれ以前に知っていたのは、ズーメンがナライフに潜伏していることだけのはずだ。どのような車両を使い、いつナライフを出るかまでは掴んでいなかったはず。
それなのに、中国公安当局者らしい車両が、ズーメンをすでに監視している……。
まずい状況であった。このあたりなら、モンゴル側の妨害を受けることなく、中国公安当局者は無茶ができるだろう。いつ車を強制的に止められ、逮捕が行われても不思議ではない。それにルークが巻き込まれるわけにはいかないし、ロボットたちが捕まるのも避けねばならない。
……追っ手をいったん撒くか。いや、中国公安当局者の車両が一台だけ、というのは考え辛いだろう。最低でも、二台はいるはずだ。
一瞬ルークの脳裏に、このままズーメンを逮捕させてしまえ、というアイデアが浮かんだが、彼はそれをすぐに打ち消した。この作戦の目的は、『日本側』がズーメンの亡命成功に尽力した、と自由天使側に思い込ませることにあるのだ。無抵抗でズーメンを引き渡せば、作戦は失敗と言える。
……どうせ公安と一戦交えるのであれば、追い払った方がましだな。
ルークは複雑な笑みを漏らした。契約によれば、荒事を首尾よく始末すればボーナスが出ることになっている。だが、中国公安当局に睨まれることになるのは、正直避けたいところである。
……まあ、今回の一件で日本の情報当局にいいコネができるのは、あとあとおいしいだろう。アメリカ人と同様、日本人も金払いはいいはずだからな。
ルークはアクセルを踏み込みつつ、スマホを操作した。
「アリョー」
ロボットの一体が受けたのだろう、子供っぽいロシア語で応答がある。
ルークは手短に状況を説明した。通話しながらも周囲に目を配り、公安当局者が乗っていそうな車を探す。
……一刻も早く『武器』を手に入れる必要がある。
ルークはアクセルを踏み込んだ。中国公安当局者の車両を待ち伏せるには、先行して距離と時間を稼がねばならない。
「なんですとー!」
ルークからの電話を受けたベルの説明を聞いたシオは、飛び上がって驚き……ハイエースの天井に頭をぶつけた。
「くそっ。気付かなかったな」
マイクが口走って、前後を走る車両に目を配り始める。
交通量が少ないのはありがたいが、実質的に一本道であり、しかも幹線道路なので、長時間同じ車が前後に付けていてもおかしくはない状況である。こうなると、どの車も怪しく見えてくる。シオも後方を注視し、怪しい車を探した。
前方に見えたトヨタ・カムリに見覚えがあることに、ルークは気付いた。
先ほど高速で追い抜いて行った、女性ドライバーの車だ。てっきり急いでいるものと思い、わざと速度を落として追い越させてやったが、今はルークよりも低速で走っている。
公安当局者らしいカローラを追い抜く少し前のこと。
……ひょっとして、こいつも中国公安か?
ルークは反対車線の安全を確認すると、アクセルを踏み込んで追い越しを掛けた。先ほどは関係ない車と判断して見逃したが、今回は視線を固定してじっくりと観察する。
運転席に若い女性が一人。後部座席に、もう少し年上の女性の姿があった。どちらも、中国人風だ。ふたりの視線が、ルークを捉える。
後部座席の女性が、わずかにたじろいだように見えた。運転している女性は、明白に驚きの表情を浮かべる。
……こいつら、わたしを知っているな。
とっさに、ルークはそう判断した。間違いない。中国公安当局者だ。
カムリを追い抜くと、ルークはそのままラーダ・カリーナを飛ばし続けた。
「主任!」
ツァオが、喘ぐように言う。
「ポリャコフ元曹長ね。ズーハオに先行していたんだわ」
遠ざかってゆくラーダ・カリーナを見送りながら……一応ナンバーは記憶したが……アリシアは臍をかんだ。これくらいは、予想しておくべきだった。
ちなみに、中国語の主任は、ほとんどの場合日本における主任よりも高い地位を示す肩書きである。
「こちらに気付いたでしょうか?」
ツァオが、遠慮がちに訊く。
「気付かれたという前提で対処しましょう」
スマホを取り出したアリシアは、コンとウェイ……カローラの部下……に連絡し、カリーナの特徴とナンバーを告げ、警戒するように命じた。
「ツァオ。あなたも気を付けて。ルークは工作員として経験を積んでいるわ。何か妨害工作を仕掛けてくるかもしれない」
「はい、主任」
ツァオが、緊張した表情でうなずく。
第七話をお届けします。




