第五話
バイカル湖。千六百メートルを超える世界最深を誇る湖である。
巨大なユーラシアプレートと、西日本、朝鮮半島、中国東北部、ロシア沿海州などを載せているアムールプレートの境目にある地溝帯にあり、今もわずかではあるが幅と深さを増しているという。面積は約三万千七百平方キロメートル。これは日本の中国地方全域とほぼ同じくらいである。深さがあるので、貯水量は湖としては世界最大。ユニークな生態系を持ち、かつ美しい自然に囲まれており、世界遺産に指定されている。
そのバイカル湖畔を走るロシア連邦道路R258……ロシア語だと、『P258』になる……を、濃い緑色に塗られた一台の古臭いZiL‐130トラックが走っていた。幌付きの荷台には、小さなコンテナがいくつも積み込まれている。
その中の三つには、スカディ、亞唯、雛菊が押し込まれていた。イルクーツク国際空港でこのトラックに積み込まれ、陸路ウラン・ウデに向かっているところである。
七時間余りを費やし、ウラン・ウデ市内へ入ったZiLトラックは、送り状に記載されている北部のステクロザヴォド地区を目指した。指定されたザオヴラシュナヤ通りの貸倉庫の前で、トラックを停める。
「わたしがヴァラノヴァです」
近くに停めてあったシルバーのアウディQ5……5ドアのSUV……から降りてきた小柄なアジア系の女性が、トラックに歩み寄って来た。トラックのドライバーは送り状を確かめた。受取人の欄には、マルカ・ヴァラノヴァと記載されている。
「荷物をお届けに来ました」
ヴァラノヴァの身なりがよく、金を持っていそうだと見当を付けたドライバーは、愛想よく言ってトラックを降りた。ヴァラノヴァの指示に従い、助手と共に三つのコンテナを貸倉庫内へと運び入れる。
ヴァラノヴァに受け取りのサインを貰い、チップとして千ルーブル紙幣を受け取ったドライバーは、上機嫌で次の送り先へとトラックを走らせた。
「お疲れー」
ロシア人っぽいコート姿の畑中二尉が、コンテナから這い出して来たAI‐10三体を労う。
「二尉殿はどうやってここまで来たんや?」
雛菊が訊く。
「成田からインコみたいな塗装のS7(エスセブン ロシアの格安航空会社)のA320でハバロフスクへ。そこからイルクーツク航空のスホーイ・スーパージェット100でここまで。全部エコノミーだぞー。おまいらと大して変わらん扱いだー」
「ドリンクサービスがあっただけましだろ」
亞唯が苦笑する。
「まあとにかく乗れー。ここからキャフタまでドライブだー。飛ばせば三時間、暗くなる前に着けるぞー」
あたりに人目が無いことを畑中二尉が確認してから、三体は素早くレンタカーのアウディに乗り込んだ。畑中二尉がエンジンを掛け、アウディを発進させて、線路沿いの通りに乗り入れる。
セレンガ川に架かる橋を渡ったアウディは、R258に入って南下した。すぐにA340に入り、西進する。
しばらく走り、進行方向が南西になると、周囲から人家が消えた。遠くに山並みが見え、道路の両側には荒涼たる平原が広がっている。森林はどこにもなく、天然ものなのか人為的に植えられたものなのか、たまに一本だけの立木がぽつんと道路脇に寂しげに突っ立っているだけだ。もう少し南下すると、樹木は多くなったが、それでも狭い疎林がわずかに見受けられる程度で、緑豊かな日本の自然を見慣れた目からは、物寂しい風景が続く。
道路は空いており、予定通り三時間ほどで、畑中二尉運転のアウディQ5はモンゴル国境の都市、キャフタに到着した。
キャフタは大きい都市ではない。人口は二万人程度。本来ならば、無名の田舎町なのだが、ロシア帝国と清帝国が1727年にこの地でキャフタ条約を締結しているので、世界史を学んだ人であれば聞き覚えのある地名であろう。かつては、ロシアと清のあいだで行われた交易により栄えた、歴史ある都市でもある。
南北に細長く伸びているキャフタ市街地の南東部にあるスーパーマーケットの駐車場に、畑中二尉はアウディQ5を乗り入れた。看板には、『アブソリュート』(絶対)とある。
「トイレに行ってくるー。あ、スカディ、これを読んでいてくれー。接触相手への合図だからー」
アウディを降り掛けた畑中二尉が、スカディに新聞を手渡す。
「アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ。論拠と事実ですわね」
スカディが、受け取った新聞を広げた。写真とイラストを多用した派手なカラー印刷の週刊新聞で、いかにも大衆向けの馬鹿っぽい紙面造りである。
畑中二尉が、いそいそとスーパーに入ってゆく。ほどなく戻って来た畑中二尉は、ピロシキとヨーグルトのパックが入った白いスーパーのロゴ入りレジ袋、それにペプシコーラのペットボトルを抱えていた。畑中二尉が三つ目のピロシキにかぶりついたあたりで、アウディのサイドウィンドウにノックがある。中を覗き込んできたロシア人らしい男が、左の手を開いて見せつつ、その手のひらに右手の小指で大きく円を描いた。
うなずいた畑中二尉が、亞唯にドアを開けるように合図する。
ドアが開くと、男が素早く乗り込んだ。
「ルークだ。よろしく頼む」
ロシア語で自己紹介した男の身長は百八十センチ程度。年齢は、四十にはぎりぎり届いていない感じだ。灰色の髪を短く刈り込んでおり、見た目はいかにも軍人臭いが、角ばった顔できらめいている水色の眼は、意外と穏やかだ。
「マルカ・ヴァラノヴァ。こっちがスカディ、亞唯、雛菊」
畑中二尉が、得意のロシア語でメンバーを簡単に紹介する。
「ホテルは取ってある。とりあえず、わたしの借りている拠点へ行こう」
折り畳んだメモを畑中二尉に渡したルークが、アウディを降り、近くに停めてあったラーダ・カリーナに乗り込んだ。アウディのエンジンが掛かったのを確認してから、ルークがカリーナを発進させる。畑中二尉が、それを追った。
カリーナは市街北西部に向かい、さらに未舗装路を走って数件の山荘が立ち並んでいる緑の多い区画に入った。そのうちの一軒の庭に、バックで乗り入れる。畑中二尉が、その隣にアウディを停めた。
ルークが、一同を山荘内に招き入れた。碌に調度が見当たらない簡素な室内だったが、まだ新しい建物らしく、中はきれいだった。AI‐10には感じ取れなかったが、艶出し用のワックスの臭いが漂っている。
「一杯やるかね?」
唯一の調度といえる食器棚から、ルークがウォッカの瓶を取り出す。
「仕事中はあまり飲まないので」
畑中二尉が、断った。
「『あまり』かよ」
亞唯が、小声で突っ込む。
「では、わたしもやめておこう」
ルークが、あっさりと瓶を食器棚に戻す。
「では、仕事の話に入ろう。明日さっそく、ウランバートルまで行って対象者に接触する。偽造パスポートを作らねばならん」
「どの国籍にするんや?」
雛菊が、訊く。
「ワンもスンも、モンゴル国籍にする。キャフタとアルタンブラグのあいだを往復して商売するモンゴル人……いわゆる『担ぎ屋』は多いから、その一組に偽装させる」
「個人国境貿易商人ですわね」
スカディが、うなずく。
「で、どうやってワンを逮捕させる計画ですか?」
畑中二尉が、訊いた。
「その1。ワンとスンが越境する時刻に、あやしい中国人がロシア入りするという噂を流しておく。ワンを追っている中国当局は、アルタンブラグで張っているはずだから、ワンに気付くはずだ。その2。こいつを使う」
ルークが、隅の方に置いてあった段ボール箱から、厳重にビニール袋に密封された赤い物を取り出した。
「……ブラジャーですわね」
スカディが、中に入っている物を識別して首を傾げる。
「女装でもするんか?」
雛菊が、首をひねりつつ突っ込んだ。ルークが、わずかに微笑む。
「女性用下着は、担ぎ屋が扱う主力商品のひとつなんだ。これに、ヘロインの臭いを付けているところだ。これを、ワンとスンに持たせる」
ブラの入ったビニール袋をゆっくりと振りながら、ルークが説明する。
「ロシア側の税関では、麻薬探知犬を使っている。絶対に、反応するはずだ。当然、ワンもスンも拘束される。だが、探しても麻薬は出てこない。臭いを付けただけだからな。だが、複数の麻薬探知犬が反応したとすれば、入国はできない。追い返されることになる。追い返されれば、当然目立つだろう。どんな間抜けでも、怪しいと気付くはずだ。そこで中国当局につかまる、という寸法だ」
「なるほど。中国側とモンゴル側の調整はどうなっているのですか?」
畑中二尉が、訊いた。
「ナライフの警察は、中国側の動きを黙認しているらしい。アルタンブラグへの根回しはしていないようだが、最近の中国とモンゴルの力関係を見れば、よほどモンゴルの主権を侵さない限り、モンゴル側は中国当局の動きを阻止することはないだろうな。中国と対立し、本気で経済制裁されたら、半年でこの国は破綻国家になりかねないからな」
「PRC(中華人民共和国)のGDPが十二兆ドル。モンゴルのGDPが百十億ドル。経済力は天と地ほども開きがありますからね」
スカディが、言う。
「まあ、中国ってやつはデカいのをいいことに紀元前から周辺諸国をいいように利用してきた国だからなー。地政学的状況が大きく変わっていない以上、それは今も変わらんー。日本がいい位置と海洋状況あったのは幸運だったなー。モンゴルや朝鮮ほど近いと干渉が激しくて属国化されてしまうー。フィリピンほど離れていると碌に情報が入らないから発展できないー。先進的な文化や技術を受容できるほど近く、侵略する気が起きない程度には距離があるー。まさに天の配剤だなー」
畑中二尉が、日本語でしみじみと言った。
「その状況が、徐々に変わりつつあるような気もしますけれども」
スカディが、控えめに突っ込みを入れる。
「世界は狭くなりつつあるからなー。地政学的にも海洋の意味合いと位置付けが変質してしまったー。今や太平洋すら、でかいだけの内海と考えた方がいいのかもしれんー。いやはや、めんどくさい時代だなー」
畑中二尉が、苦笑する。
北京市東城区黄寺大街にある、中国人民解放軍参謀部第二部の本部。
第二部部長のカオ少将の紫煙立ち込める執務室に、アリシア・ウー中校は緊急の呼び出しを受けて赴いていた。
「急で悪いが、モンゴルに行ってもらうぞ」
『中華』を燻らしながら、カオ少将が言った。
アリシアは黙ってわずかにうなずいた。わざわざ相槌など打つ必要はない。カオ少将は、無駄や虚飾を嫌う極めて実務的な効率重視の上司である。
「ワン・ズーハオという名前には聞き覚えがあるだろう。『自由天使』の幹部だ。彼女は、今モンゴルのウランバートル市ナライフ地区に潜伏中だ」
「彼女?」
アリシアは思わず首を傾げつつ言葉を挟んだ。『ズーハオ』は男性の名前である。
「性別を偽って反政府、反共産党活動をしていたのだ。反恐怖主義法(中国の対テロリズム法)を始め、様々な罪状により、彼女は逮捕されなければならない。君は部下を率いてウランバートルに赴き、ズーハオを監視するのだ」
アリシアは問いかけるような視線を上司に投げかけた。参謀部第二部は、基本的には軍情報部である。諜報活動と工作活動、情報収集とその分析が主な任務であり、反体制派の取り締まりは共和国公安部や国家安全部の仕事のはずだ。
「これに関しては少し事情があってな。公安部がズーハオを追っていたが、うちが引き継ぐことになったのだ」
カオ少将が、短くなった『中華』を瑪瑙の灰皿でもみ消した。
……事情、ですか。
アリシアは内心でため息をついた。『事情』とは、また便利な言葉である。
「ズーハオが潜伏している建物は判っている。支援者も特定済みだ。君はそこを監視するだけでいい。当面、逮捕する必要はない。まず間違いなく、ズーハオは国境を越えてロシア入りを図るだろう。その際には、支援者ないし関係者もろとも拘束しろ。モンゴル側への根回しはしておく」
「承知しました」
内心では疑問が渦巻いていたが、アリシアはそれをおくびにも出さずに指示を了承した。上司の有能さは十二分に心得ている。この作戦では、アリシアも駒に過ぎないのだ。ズーハオを泳がすことには、なにか重要な意味があるに違いない。現場で動くアリシアが、それを知る必要はない。
「もちろんズーハオにこちらの行動を悟られてはいけないが、なるべく派手に動いてくれ。モンゴル当局はもちろん、ウランバートルに駐在する西側情報機関の眼にも止まるようにな。下手糞な変装でもして、動き回れ。君は、有名人だからな」
次の『中華』に火を点けながら、カオ少将が微笑んだ。
……ある種の囮か。
アリシアはそう悟った。これは、単に反体制派幹部の逮捕劇ではない。ズーハオは、詰めるべき帥でも将でもない。アリシアと同じく、兵か卒なのだ。
(帥・将は中国将棋の王・玉にあたる駒。兵・卒は同じく歩にあたる駒)
「ズーハオは、最終的には日本への亡命を目論んでいると思われる。日本の工作員がモンゴル入りするとは思えんが、何らかの関係者がズーハオの亡命を支援する可能性は高い。そいつも一緒に拘束することを期待する」
一服目の紫煙を吐き出しつつ、カオ少将が言う。
「荒事に備え、必要であれば警衛局から要員を借り出せるように命じておく。ズーハオが、モンゴル国内で逃亡した場合には、モンゴル軍の協力を得られるようにも手配しておく。なに、難しい任務ではない。休暇と思って、きれいな空気でも吸って、のんびりしてくるといい」
旨そうに『中華』を吹かしながら、カオ少将が笑顔を見せた。
「羊でも撫でて癒されてきますわ」
真顔で、アリシアは返した。
第五話をお届けします。




