第一話
お待たせいたしました。Mission11を始めさせていただきます。
中国語で、麻薬……覚醒剤や向精神薬を含む……は『毒品』という。……あまりにもストレートな表現である。ちなみに、『麻薬』と書くと、麻酔薬や麻痺薬の意味となる。
現在の中国は、その『毒品』が広く蔓延する深刻な環境にあると言われている。一時期流行していた『自家製麻薬』の撲滅にはほぼ成功したものの、開放政策による国境越えの物流の増加、経済発展による庶民の富裕化、合成麻薬製造に関する技術の普及などによって、都市部を中心に麻薬禍が猛威を振るっているのだ。
もちろん、当局は麻薬取り締まりに努めている。中国には、中華人民共和国禁毒法という法律があり、最高刑は死刑という厳罰を以って臨んでいる。中国国内で麻薬類密輸の罪状で逮捕された日本人が処刑されたケースなどもあるので、ご存知の方も多いだろう。ちなみに、日本において薬物犯罪に対する最高刑は無期懲役であり、それも適用されるのは極めてまれである。
しかしながら、『禁毒法』で厳しい処罰が規定されているのは、密造、密輸、密売などの製造販売者に対してだけである。麻薬の単純所持や使用に関しては、驚くほど処罰が甘いのだ。たとえば、日本の覚せい剤取締法では、覚醒剤の使用には十年以下の懲役刑が科せられるが、中国においては短期間の拘留と罰金、それに更生施設への送致が行われる程度である。日本で芸能人が麻薬使用を暴かれ、警察沙汰になったらよほどの軽罪でない限り引退を余儀なくされるが、中国では反省の色さえ見せたうえに再犯しなければ、問題なく芸能活動を続けることができるし、人気もそれほど落ちない。
麻薬使用に関する罰則が甘いのは、常用者もまた被害者である、という考え方に基づくものである。これは中国当局が人道的だからではなく、歴史的経緯が理由となっている。かつて清朝後期に、イギリスが貿易収支の不均衡を是正するために、インド産アヘンを中国に大量に輸出したことがあった。多くの中国人が、これによりアヘン中毒となり、これが様々な経緯を経て、後のアヘン戦争へと繋がる。
現在の中華人民共和国の公的な歴史観では、このアヘンの流入と流行は『イギリスによる麻薬を用いた侵略行為』であると定義されている。従って、アヘン中毒者は『侵略の犠牲者』となるのである。現在の中国で、麻薬常習者に厳罰を科すのは、この公的歴史観を否定することになりかねないのだ。……自らが『書いた』過去の歴史に縛られて、現在の政治方針や法律、外交政策などを『曲げる』のは、共産主義国家では珍しいことではない。
また、中国人の『薬』に対する依存ぶりも、中毒者への甘い姿勢の原因のひとつとして挙げられるだろう。言うまでもなく、世界に冠たる『中国伝統医学』を古くから編み出してきた中国人は、実に多種多様の『中葯』(葯は藥の簡体字)を生み出し、服用してきた。麻薬ではないが、強壮剤や精力剤、興奮剤なども、日常的に摂取されている。『よく効く』薬という感覚で、安易に麻薬に手を出している人々が多いことも、否めない事実である。
連雲港市。中華人民共和国江蘇省北部に位置し、黄海に面している都市である。
その名の通り港町で、貿易港としては中国十大港湾都市のひとつとして挙げられている。市内には、かの孫悟空が『生まれた』とされる花果山があり、観光地となっている。
海州区を東西に貫く省道323沿いにある包庄(庄は集落を意味する)は、都市郊外ならばごくありきたりに見られる住宅密集地である。0.4平方キロメートルほどの土地に、ぎっしりと住居が立ち並び、その周辺には水田や畑が広がっている。住宅のほとんどはタウンハウスで、伝統的な中庭や裏庭の付随した古い建物と、それらを取り壊して新たに作られた西洋風のモダンな建物が混在している。
この日の朝、その包庄の裏通りに、連雲港市公安局の車両が続々と集結した。フォルクスワーゲン・パサートやサンタナ、あるいはフォード・トランジットから降りてきた警察官たちが、きびきびとした動きで配置につき、一軒のタウンハウスを取り囲む。
世界中のありとあらゆる都市で毎日のように行われている、麻薬犯罪に対する手入れである。
指揮を執る二級警督……ほぼ警部に相当する人民警察の階級である……は、ポケットに入れてあった捜査証(捜索令状)を検めた。それを手に、タウンハウス右端の扉に向かう。05式リボルバーが収まっているホルスターに手を掛けた部下が数名、あとに続いた。
捜索容疑は、メタンフェタミン(覚醒剤の一種)隠匿と密売である。『冰毒』という通称で呼ばれているこの『毒品』は、原料さえ手に入れることができれば比較的容易に製造できるので、中国では流通量が多い麻薬である。
「人民警察だ。開けろ」
ドアを音高くノックしつつ、二級警督は告げた。二回呼びかけ、反応が無いことを確認すると、一歩下がって部下にドア前を譲る。
すぐに、バッティング・ラムを持った警員(平巡査)二人が、ドアに突進した。中国も、他の外国と同様、玄関ドアは内開きが普通である。
ドアが開くと、二級警督の部下たちが屋内になだれ込んだ。隠滅を図られる前に、証拠を押さえねばならない。
二級警督が悠然と屋内に入った頃には、すでに制圧は終わっていた。屋内にいた男三人と若い女一人は、床に並んで座らされていた。二級警督は、公安の印が押されている捜査証……薄っぺらな紙一枚……を四人に明示し、家宅捜索開始を……すでに二級警督の部下たちは精力的に開始していたが……通告した。
わずか三分の捜索で、部下の一人が奥の部屋で怪しい小さな段ボール箱を見つけ、二級警督を呼んだ。手袋をはめた二級警督は、箱を開けてみた。中には、ジップロックに小分けされた色とりどりの錠剤が詰まっていた。
MDMA(合成麻薬の一種)だ。
「冰毒じゃないが、しょっ引くには充分だ。連れていけ」
二級警督は、見守っていた一級警司に命じた。
正式に逮捕された四人の男女は、手錠を掛けられるとすぐにフォード・トランジットに押し込まれ、同じ海州区にある連雲港市公安局に連行された。
スター・フェリーは、香港島と九龍半島を結ぶ連絡船である。
創業は古く、1888年。海底トンネルの開通により、連絡船としての重要性は薄れたが、格安の運賃(日本円に換算すると四十円程度)と、短い運行間隔、地下鉄や路面電車、バスへの乗り換えの利便性から、いまだに香港市民の手軽な足として重宝されている。また九龍半島先端と、香港島北岸という香港でもっとも発展した地域を結んでいるので、世界一の密度を誇る香港の高層ビル群を眺めるのにも適しており、観光客にも人気がある。夜十一時まで運航しているので、夜景を堪能するのも可能だ。
「どうも不安だな」
苦笑しつつ、越川一尉は財布から取り出した二十香港ドル紙幣を券売機に押し込んだ。香港ドル紙幣は、三つの銀行が発行しており、同じ額面でもそれぞれデザインが異なるのだ。色味だけは揃えてあるので……二十香港ドルは青である……額面を間違えることはないが、始めて香港を訪れる観光客は紙幣のデザインを覚えるのが困難であり、偽札を掴まされてもすぐには気付けないことになる。
この二十ドル紙幣は、真正だったらしく、券売機は無事受け付けてくれた。下部の取り出し口に出てきたお釣りとトークンを、越川一尉は回収した。お釣りは財布に戻し、安っぽいプラスチックのコイン状トークンを手に、改札に向かう。
古めかしい回転アーム式の自動改札機にトークンを入れて入場した越川一尉は、腕時計で時刻を確かめた。十時二十八分ちょうどに尖沙咀埠頭の待合室に入り、次に来た便に乗るという手筈になっているのだ。
待合室にいる人々は実に国際色豊かであった。地元のビジネスマン、若者のグループ、英領時代から住んでいるらしい英国系の老紳士、インド系のビジネスウーマン。一目で観光客と判る連中も、北京語で声高に喋っている本土の中国人グループ、ラフなスタイルの若いアメリカ人カップル、東南アジア系……越川一尉の見立てではタイ人……の家族連れ、北欧系らしいバックパッカーの女性と多種多様であった。大人の男性ばかりの物静かな観光客の小グループが二組いたが、越川一尉はそのひとつを日本人グループ、べつのひとつを韓国人グループと識別した。前者は三人が腕組みしていたし、後者は過半数がズボンのポケットに手を突っ込んでいたからだ。
越川一尉は『装備品』をチェックした。腕にスーパーマーケット『ウェルカム』のレジ袋。左手に、『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』を持つ、というのが接触対象者との識別方法である。……安っぽいスパイ映画のようだが、仕方がない。
……苦手なんだがなぁ。こういうのは。
越川一尉は内心でため息をついた。所属は情報本部で、長浜一佐の部下ではあるが、本来は野戦指揮官タイプである。畑中二尉のような、生粋の情報屋ではないのだ。おまけに、中国語は北京語も広東語もまったく話せない。
ほどなく、乗船用ゲートのひとつが開いた。待っていた人々が、続々と乗り込んでゆく。越川一尉も、フェリーに乗り込んだ。船体はほぼ全長に渡って二階建て構造となっており、船腹と一階部分が緑、二階部分が白に塗り分けられている。ほぼ中央部に太い煙突が一本突っ立った、外輪でも付いていたら似合いそうな古色蒼然たる船である。席数は、五百席程度か。
越川一尉は、一階のベンチに座った。二階は眺めが良く、観光客はみなそちらへ座りたがるので、混むのである。一階は地元客が多く、座るとすぐに新聞を取り出したりスマホをいじり出したりするので、密会が目立たなくて済む。
あの男か……。
マイクは、一目で接触対象の男を見分けた。まあ、手筈通りのレジ袋と新聞を持っているのだから、当然であるが。
マイクはさりげないふりを装って、船室内を見渡した。接触対象の近くには、地元民らしい中国系が数名座っているだけで、怪しい者はいないようだ。接触対象に注意を払っている者も、いない。
安心したマイクは、サングラス越しに接触対象者をじっくりと観察した。やや浅黒い肌なので、一見しただけで外国人と知れる。年齢は、三十代前半か。背はさほど高くはないが、筋肉質の体つきで、軍人臭い雰囲気を漂わせている。
得心したマイクは、接触対象者と同じベンチに腰を下ろした。
「ミスター・ササキですな」
英語で、ささやくように訊く。
「ミスター・スンですね」
接触対象者……ササキが訊き返す。
「時間がありません。手短に行きましょう」
マイクは続けた。乗船時間は十分ちょっとしかないのだ。
「ご提案の仕事、受けましょう。問題は、報酬ですが……」
「一万USドルと必要経費では、不足ですか?」
ササキが、不満げな視線をちらりと投げてくる。
「はっきり言って、不足ですな。二万はいただきたい」
「国境越えのお膳立てはこちらで整えます。あなたのような経験豊富な傭兵には、簡単な仕事でしょう?」
ササキが、言う。
「経験豊富だからこそ、安い金額では働きたくないのですよ」
「こちらとしても、レベルの低い傭兵に依頼して失敗したくはないのですが、予算が充分にあるというわけではないのです。報酬を引き上げるとなると、わたしの一存ではもちろん無理ですし、依頼人も他の協力者を説得する必要があります」
ササキが、くどくどと言い訳を始める。
……押せば折れるな。
マイクは確信した。作戦決行日は今更動かせないはずだ。新しく傭兵を雇っている時間はないし、探すコネもあるまい。
「判りました。二万出しましょう」
三分間の押し問答の末、ササキが折れた。
「ですが、前金は五千しか出せませんよ。残りは、成功報酬として支払わせてもらいます」
きっぱりと、ササキが言う。マイクは、この条件を呑んだ。
……二万USドルだって? 冗談じゃない。あいつなら、二万香港ドルでも雇うのはごめんだ。
湾仔埠頭のフェリーターミナルから外へ歩みながら、越川一尉は内心で呆れていた。
声を掛けられるずっと以前に、越川一尉は『スン』に気付いていた。サングラスを掛け、怪しい素振りで辺りを窺っていた痩せた若い男……。さながら、香港黒社会の下っ端構成員といった雰囲気であった。
交渉の最中も、どう見ても『スン』は周囲に気を配っていなかった。金の話に、熱中していたのだ。本人は、歴戦の傭兵を気取ってはいるが、経験が浅いことは一目瞭然だった。見栄ばかり張って、実力の無さをごまかし、失敗は他人のせいにして、成功すれば手柄を独り占めしようとするタイプ、と越川一尉は見抜いた。……絶対に、部下にはしたくない男だ。
まあ、いいか。
どうせ、使い捨てにする『駒』である。報酬も、後金は受け取れないはずなのだ。情報本部の機密費も、本を正せば国民の皆さんから頂いた貴重な税金である。節約するに越したことはない。
「せっかく香港まで来たんだから、美味い物でも喰って帰るか……」
近くにあったショッピングモールに入った越川一尉は……これは、万が一尾行されていた場合に、撒くための用心でもある……広東料理の店を探した。もちろん、支払いは自腹でするつもりであった。




