第十二話
午後二時四十三分。二回目のテロがロンドン・スタジアムで発生した。
タイマーセットされたメタンチオールのボンベが、ハンバーガーショップのすぐそばで悪臭芬々たるガスを撒き散らす。
生じた被害は、一回目よりも少なかった。悪臭に気付いた観客や従業員はすぐに逃げ出したし、『ガスだ!』という叫びを聞いた周囲の人々も、慌てずに騒動の元から距離を置くように速やかに離れたからである。……予期さえしていれば、災害の被害は極限できる、という実証例であろう。
警戒していたロンドン警視庁のロボット、シルフィードが何体も駆けつけ、メタンチオールのボンベを回収し、ガスの噴出を止める。何人かが耐え切れずに嘔吐してしまったが、負傷者は皆無であった。
負傷者なし、との報告を受けて、リカルド・セルパ会長とフレデリック・ワイズ社長が安堵する。
警護を口実に貴賓席に張り付いていたメアリー・ウッドハウスは、横目でじっとソニア・セルパを観察していた。二回目のテロ発生の第一報を受けた時のソニアの反応は、純然たる驚きに見えた。そして、いま負傷者なし、との報せを聞いたソニアの顔には、父親同様の安堵の色が見える。
……この娘がWHSと通じているとすれば、テロに関する詳細は知らされていなのか、あるいは知っていても感情を隠し通せるだけの演技力の持ち主なのか。
たぶん後者ではないのか、とメアリーは推測した。ソニアの職業はモデルである。『ヴォーグ』の表紙を飾り、パリ・プレタポルテ・コレクションの舞台に立ったこともあるほどのプロなのだ。表情をコントロールすることなど、朝飯前であろう。
「グレンジャー警部!」
怒りの形相で、シャーロット・ワイズが立ち上がり、ロンドン警視庁の警部を睨む。
「警察官の増員をお願いしますわ! このままでは、テロとの戦いを宣言したわたくしたちはもちろん、ロンドン警視庁までもが世間の笑い者になってしまいます!」
「ご、ごもっともなご意見ですが……」
美少女に懇請され、中年警部がたじろぐ。
「わたしからもお願いしますぞ、警部」
リカルド・セルパ会長が、グレンジャー警部を見る。
「もう後へは引けません。我々が勝つか、テロリストどもが勝つか。決勝戦の試合終了の長い笛が吹かれるまで、なんとしても観客の皆さんを守らねばなりません。シャーロットの言うとおりです。警察官の増員を!」
フレデリック・ワイズ社長を含む、その場にいたほとんどの人々に期待の視線を向けられ、グレンジャー警部が慌ててスマートフォンを取り出した。
ロンドン警視庁のトップは、『コミッショナー』と呼ばれる階級であり、通常は日本のそれに倣い警視総監、と訳される。
このコミッショナーと、ロボット・サッカー・ワールドカップの警備責任者である『コマンダー』……こちらは通常警視監、と訳される……が慌ただしく電話でやり取りする。
警視総監は、すぐに警備戦力増強を承認した。天下のスコットランドヤードが、女王陛下の名を冠した公園……正式名称はクイーン・エリザベス二世オリンピック・パークである……の中のスタジアムにおけるテロ……しかも下品極まりない悪臭テロ!……を防げなかった、となれば名折れである。
この時刻、新参組を含むフィッシュミンツの面々は、ロッカールームで待機していた。グループA準決勝は、午後三時二十分キックオフ予定なのだ。少なくとも試合開始三十分前には、ここに集合しているように定められている。
「とりあえず朗報だぞー、おまいらー。ロンドン警視庁が警備の増員を決定したそうだー」
ロッカールームに入ってきた畑中二尉が、あまり嬉しそうに見えない顔でそう告げる。
「しかし……判りませんわね。WHSの狙いが」
スカディが、戸惑いの表情で首を振る。
「そーだなー。二回の悪臭テロで、得られた成果と言えばロンドン警視庁の警備増員だけだからなー」
畑中二尉が、同意してうなずく。
「悪臭テロ。もしかして、犯人は近所のハンバーガー屋かホットドッグ屋じゃないですか?」
冗談とはっきり判る口調で、三鬼士長が言う。
「なるほど。商売敵の嫌がらせってわけね」
聞いていた石野二曹が、笑う。
「はっと! これは実はWHSの犯行に偽装した、他の犯罪組織による巧妙な罠では?」
シオは座っていた椅子から飛び降りると、思いつきを口にした。
「出た。シオ吉お得意の妄想や」
雛菊が、笑う。
「罠というと?」
亞唯が、訊く。
「ロンドン警視庁の人員をロンドン・スタジアムに集中させ、その隙に他の場所で犯罪を行うという作戦では? つまりこれはすなわち、イギリス王室の危機!」
「……中々に興味深い妄想ね。007映画なら、導入部に使えそうだわね」
スカディが、辛辣に評す。
「いや、狙うならイングランド銀行だろ。あそこの地下には三百トンを優に超える金の延べ棒が保管されているらしいぞ」
亞唯が、眼を輝かせて言う。
「大英博物館ちゃうか。文字通り、お宝ぎっしりやで」
雛菊が、乗っかる。
「ナショナル・ギャラリーも捨てがたいですぅ~。ダ・ヴィンチもラファエロもターナーもルノワールもゴッホもモネもありますですぅ~。より取り見取りですぅ~」
ベルが、嬉しそうに言う。
「ハリウッド映画ならあり得ん話じゃないが、どこも警戒厳重だからなー。ここにロンドン中の警察官全員集めても、無理だろー」
畑中二尉が、AI‐10たちの妄想に突っ込みを入れる。
ロンドン・スタジアムへの警備増強を決定したロンドン警視庁。だが、その増勢手配は難航した。
すでに、通常業務に支障を来しかねないほど、ロンドン・スタジアムとその周辺には人員をつぎ込んでいるのである。しかもその上、管内では他に三件のテロ予告があり……これはWHSの陽動作戦であったが、もちろんロンドン警視庁側はそのことに気付いていない……にも人員を取られている。近隣の警察署から人員を借りる、という手もあるが、他の世界中の警察と同様、ロンドン警視庁も自分たちの縄張りに他所の警官を入れることを嫌っていた。これが地方の警察ならば、首都警察であると同時に広域公安警察としての機能も有するロンドン警視庁……この点では、日本の警視庁と機能的には似ている……に支援を要請するところだが、それも当然無理である。深刻なテロ被害が出ていない以上、軍の出動を求めるわけにもいかない。
万策尽きたロンドン警視庁上層部は、仕方なく『慣らし』中の新型ヒューマノイド警察用ロボット、PARKERの投入を決定した。まだ通常勤務には不安が残るが、他に選択肢はない。導入予定で慣らし中のPARKERは、全部で三十五体。ロンドン市内の警察署で見習い勤務中の五体なら、三十分程度で投入できるし、郊外の訓練施設に居る残り三十体も、一時間以内に任務に就けるだろう。
すぐに、数本の電話が掛かられ、指示が伝えられる。こうして、ロンドン警視庁が保有するすべてのPARKERに対し、テロ対策装備のうえでロンドン・スタジアムに速やかに出動するように警視総監命令が下った。
三十五体のPARKERが投入される……。
スタジアム警備本部から電話連絡を受けたデニス・シップマンは、安堵すると同時に、奇妙な違和感を覚えて戸惑った。
……なにか引っ掛かる。
切れたスマホの画面を見つめながら、デニスは自問した。長年SISに勤めているので、このような感覚を覚えた時は、必ずその原因を突き止めねばならない、と決めていた。無視すると、大抵の場合あとで悔やむことになる。
推定WHSによる二回の悪臭テロの結果、PARKER投入が決まった。WHSの意図は、いまのところテロには屈しないという姿勢を見せた大会運営と、それを全面的にサポートしているロンドン警視庁によって、完全に挫かれた状態にある。
……いや、本当にそうなのか?
そう言えば、PARKERもヒューマノイド・ロボットだ。WHSが蛇蝎のごとく嫌う、人間もどきのロボット。これは、偶然なのか。
偶然でも、なにもおかしくない。警察用ロボットの半数は、ヒューマノイド・タイプなのだ。だが、これが偶然ではなかったら?
……WHSのシナリオ通りだとしたら?
シナリオ通りだとしても、PARKER投入によってWHSに何のメリットがある?
なぜメタンチオールを使った? 爆弾ではなく? 爆弾にないメリットは? 死人が出ない? たしかに、悪臭ならめったに死人は出ないだろう。だが、今までに何度もWHSは各種爆弾を使って主にヨーロッパ各地でテロを行い、遠慮なく一般市民にまで死傷者を出している。今回だけ、自粛するのは解せない。
WHSではないのか。他の組織が、WHSに偽装している可能性は?
いや、その可能性は少ない。今までに収集された情報のほとんどが、本大会を狙ってテロを仕掛けてくる組織が、WHSであることを告げている。
とすると、PARKERが鍵なのか。レッドフィールド・システムズの新型警察用ヒューマノイド・ロボット。本来なら、本大会の警備には参加しないはずだったロボット。
レッドフィールド。
フレデリック・ワイズ社長の会社。セルパと共に、本大会のホストである企業。
大会に関わるはずがなかったロボット。
サッカーボールを小脇に抱えているシャーロット・ワイズ。フレデリックの愛娘。
「まさか!」
デニスの脳裏で、一本の糸が繋がった。……極めて細いが、まっすぐな糸が。
デニスの指がスマホの上で踊り、本大会警備責任者のロンドン警視庁警視監へ通じる短縮ダイヤルを呼び出す。
デニス・シップマンの推測を聞いた警視監は、半信半疑であった。それでもとりあえず、関係各所に注意を促すことは確約してくれる。しかし、PARKERの投入をいったん中止すべし、という進言は拒否された。現場責任者でも、警視総監命令を取り消すのは難しいのだ。
上司に短く報告を入れたデニスは、メアリー・ウッドハウスの携帯に掛けた。
「ウッドハウスです」
「メアリー、ソニアはいい。彼女はまず間違いなく無実だ。シャーロットを張れ」
デニスは早口で告げた。
「シャーロットですか?」
メアリーが、戸惑いの声を上げる。
「そうだ。彼女がWHSに通じている可能性がある」
「え。すぐに、追いかけます」
メアリーの言葉に、デニスの心臓がどくんと跳ねた。
「消えたのか?」
「つい先ほどです。トイレだと思いましたが。追いかけます」
「注意しろ。テロからの保護だと称して見張れ。嫌がられても構うな。責任はわたしが取る」
「了解」
スマホを切ったデニスは、時刻を確認した。先陣のPARKERが、そろそろ到着するはずだ。デニスの推理が間違っていれば、何も起こらないはず。もし当たっていれば……。
「外れていることを願うしかないな」
デニスはショルダー・ホルスターをチェックした。スピットファイアMkⅡが突っ込んである。
「PARKER相手に9ミリが通用するとは思えんがな……」
VIP用トイレに、シャーロット・ワイズの姿は無かった。
立哨警備していた民間警備員に外務省のIDカードを突き付け、シャーロットがどうやら出入り用のゲートへと向かったと知ったメアリーは、通路を走った。
……いた。
シャーロットは、すでにゲートまでたどり着いていた。小脇に、小さな布包みのような物を抱えている。
「ミス・ワイズ!」
シャーロットは、走りながら叫んだ。シャーロットがぎょっとしたように振り向き、足を止める。
「どこへ行かれるのです? 危険ですよ?」
追いついたメアリーは、荒い息をつきながら問うた。
「ここにいる方が危険ですわ。帰ります」
不機嫌そうな表情で、シャーロットが言う。
「お父様を置いて、ですか?」
メアリーの言葉に、シャーロットの顔にわずかだが怒りの色が浮かぶ。
「いずれにしても、危険です。ご自宅まで護衛させていただきますわ」
メアリーはそう提案した。
「結構です。迎えを呼んでありますから」
シャーロットが、断る。ゲートを警備する警察官と民間の警備員数名が、このやり取りを不思議そうに眺めているのを意識しながら、メアリーは警戒を強めた。
……行動が不自然で、どうにも怪しい。デニスが告げた通り、この娘はWHSに通じているのではないか……。
銃声。
小さいがはっきりと、複数の自動火器の連射音が聞こえた。メアリーは反射的にショルダー・ホルスターに手を伸ばした。9ミリ×19タイプの、SIG P250コンパクトが収まっている。
警察官と警備員も銃声を聞いて動いていた。三人ほどが、シャーロットを保護しようと近付いてくる。
シャーロットも動いていた。布包みの中から、黒い物体を取り出す。
メアリーは目を剥いた。予想だにしなかった物が出てきたからだ。
全面マスクタイプのガスマスク。
メアリーが、布包みから出したもう一つの物体を地面に投げる。そこから、猛烈に白煙が噴き出した。その直前に手慣れた様子でマスクを装着したシャーロットの姿が、白煙に包み隠されて消える。
メアリーは腕で眼を覆い、息を止めて走り出した。シャーロットがガスマスクだけで対処したということは、彼女が投げたのはおそらくCS (クロロベンジリデンマロノニトリル)かCN (クロロアセトフェノン)手榴弾だろう。どちらも一般的な催涙剤で、眼に入れずに、かつ吸い込まなければ、大事には至らない。
……もちろん、眼をきつく閉じたうえに覆っている限り何も見えず、したがって手も足も出せないわけだが。
不意打ちを受けて、ガス……正確にはエアロゾルだが……を吸い込んだり目に入れたりしてしまった警察官や警備員の悲鳴や悪罵が聞こえる。充分に離れたと確信したメアリーは、そっと息を吸ってみた。きれいな空気であることを確認してから、眼を開ける。
眼のまわりに猛烈にかゆみを感じていたが、メアリーは掻くのを我慢した。皮膚にも服にも、催涙剤が付着しているのだ。不用意に眼に手をやったりしたら、とんでもないことになる。
シャーロットの姿は、例のロボット馬……テンペスト……の馬上にあった。ガスマスク姿のまま、金色の髪をなびかせて馬を駆っている。すでに、距離は二百メートルほど離れていた。追いつくのは、無理だ。
自動火器の銃声は、いまだ聞こえていた。悪態をつきながらスマホを取り出したメアリーは、デニスの短縮番号を入力した。
第十二話をお届けします。




