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突撃!! AHOの子ロボ分隊!  作者: 高階 桂
Mission 09 東アフリカ独裁者打倒せよ!
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第二十三話

 アマニア共和国議会における二大民族政党とその友党を合わせた勢力は、実に全議員の八割近くを占めている。

 そのようなわけで、副大統領の罷免と新大統領の指名は、滞りなく進んだ。反対したのはヘミ族系政党ただ一党であり、他の弱小政党や無所属議員は棄権ないし賛成に回った。

 大統領に就任したマリナ・ジズカカがまず最初に行ったのは、軍政の停止であった。次いで彼女は、各省庁の長官人事に乗り出す。だがしかし、これは二大政党が協議の上提出した名簿をそのまま発表しただけである。すでにムボロを見限り、マリナを操って国政を牛耳りたいと考えている二大政党の思惑は、もちろんムボロ派の排除である。ムボロ大統領に忠誠を誓っていた長官連中は軒並み更迭され、主要ポストは二大政党の議員が就任した。いくつかの軽いポストは、新大統領指名に賛成してくれた各党に褒賞として与えられる。

 次いでマリナは、国民が仰天する大胆な対FPA政策を打ち出す。今まで国家に反旗を翻す犯罪者集団、としてしか扱っていなかった……便宜上、正規の交戦相手としては認めていたが……FPAを、ある種の地方政権として認定し、その軍事部門も民兵組織である、と規定したのである。

 これは大幅な譲歩を通り越して、部分的敗北宣言に等しい。だが、これも二大政党の賛成を取り付けたうえでの、アルフォンス・ナクララ将軍のシナリオ通りであった。この措置により、FPA支配地域はアマニア共和国の一部でありながら、行政権の及ばない地域、と法律上解釈されることになり、国防軍もその地域に対する防衛義務を解除された、と看做すことが可能だ。つまり、FPAが政府支配地域に侵入した場合、これを国防軍が迎撃しても、アマニア国内の政治に介入したことにならない……単なる自衛権の発動である……と言い訳できる状況となった。

 これにより、南部軍管区を構成する大統領警護隊の存在意義は消滅した。ヘミ族を主体とし、ムボロ前大統領に忠誠を誓っている武装集団たる大統領警護隊。今や反ムボロ政策を鮮明に打ち出した二大政党にとっては、無用どころか有害でしかない存在である。ムボロ派によるクーデターの可能性を排除するためにも、その牙は抜いておかねばならない。

 大統領命令により、南部軍管区は国防軍の管轄となり、中東部軍管区に吸収された。さらに、構成していた大統領警護隊の各部隊は解散を命じられる。大統領警護隊上層部は当然反発したが、末端の警護隊員たちはこの措置を歓迎した。すでに脱走兵が大量に生じるほど、その士気は落ちているのだ。このような状態で大統領命令に武力を以って逆らっても、国防軍に蹂躙されるのがオチである。数日後追い打ちを掛けるように、大統領警護隊自体の縮小も発表されたが、もはや逆らえるだけの覚悟も力も彼らには残されていなかった。

 ちなみに、ジズカカ大統領自身の警護は、警察局と情報省から引き抜かれた精鋭による小規模な『大統領護衛班』が編成され、すでに警護任務に当たっていた。指揮官は、元情報省のオデット・ジズカカである。

 情勢が落ち着いたところで、マリナはFPAに対し停戦交渉を呼び掛けた。すでに『エール・ブランシュ』によって政府側との交渉開始を承諾していたFPAは、わずか数時間の交渉で停戦に合意する。

 翌日から、FPA支配地域の公的な『処遇』に関する交渉が開始された。



 ネイサン・ムボロはしたたかであった。

 大量の醜聞の証拠……贈賄から未成年の男性との性行為まで……を突き付けられても、一切動じない。それどころか、不勉強なFPA幹部相手に政治談議を吹っ掛け、論破してしまう始末。これでは、人民裁判によって追い詰められ、虚飾をはぎ取られたムボロの姿をアマニア人民に見せつけて、カリスマ性を完膚なきまでに破壊する、というFPAの目論見は破綻する。

 困り果てたFPA側が、『エール・ブランシュ』の提案を入れて採用したのが、『ムボロ過去の人作戦』であった。ジズカカ新大統領の下で、順調にアマニア国内の改革……言い換えれば、『脱ムボロ化』が進んでいることを受け、ムボロに政界復帰を諦めさせよう、という計画である。

 それまでムボロに対しては、厳重な情報入手制限が行われていた。新聞・雑誌等はもちろん与えられず、テレビやラジオの視聴・聴取も禁止。これらはもちろん、人民裁判において少しでもムボロを不利な状態に追い込むための措置である。

 それが、一切撤廃されることになる。外国の放送も含め、テレビ・ラジオは自由に視聴・聴取可能(ちなみに、ムボロはフランス語、スワヒリ語、英語を自在に操れる)新聞も、国内発行各紙は当日のうちに届けられるようになる。雑誌類も、国内発行はもちろん、『タイム・ヨーロッパ』 『エコノミスト』 『ニューズウィーク』 『ル・エクスプレス』 『パリ・マッチ』などが数日遅れで手元に届けられた。ノートパソコンも持ち込まれ、インターネット接続も無制限となる。ただし、メールや掲示板への書き込みは禁じられた。

 久しぶりにアマニアの現状を知ったムボロは仰天した。あっさりと裏切った二大民族政党。国防軍にも見限られ、新政権はFPAに対し信じられないほどの弱腰姿勢を見せている。諸外国も、新政権を歓迎し、あの台湾でさえも歓迎の談話を発表し、外交部長訪問の日程の調整に入ったという。

 あれほどムボロを支持していた国民も、すでに新政権に慣れ、前大統領のことを忘れたかのように見える。唯一、ヘミ族だけはムボロの復活を期待して政治活動を続けているが、勢いには乏しく、とても世論を変えるだけの力はない。

 頼みの綱であった大統領警護隊も、規模を縮小され、重火器を取り上げられ、その力を失ってしまった。

 ……この情勢で政界に復帰しても、無駄か。

 ムボロは冷静に計算した。憲法に基づき、新大統領が就任したので、ムボロは公的に大統領の地位を喪失したことになっている。大統領として返り咲くには、選挙によらねばならない。だが、ジズカカ大統領の方がはるかに操りやすいから、二大政党の支持は受けられないだろう。一定の有権者の票は集められるだろうが、当選はあり得ない。

 新政党を立ち上げ、その党首に納まったとしても、立法府を牛耳れるだけの規模に育て上げるのは難しいだろう。

 ……とすると、残された道は、政治からの引退と……。

 亡命。

 アマニア国内には居られない。敵を作り過ぎたし、なまじカリスマに富んでいるだけに、政界復帰を警戒する敵対勢力による暗殺の危険性もある。ヘミ族社会に潜伏するのならば可能だろうが、こそこそ隠れ住むのはムボロの性に合わなかった。それに、国外に居れば密かに貯め込んだ隠し資産にも容易にアクセスできる。

 総合的に判断し、外国への亡命を決意したムボロは、FPA側に対し遠回しに亡命を持ち掛けた。今後アマニアには入国しないし、絶対に関わらない。政治的発言も行わないし、大統領在職中に知りえた機密事項を暴露することもない。FPAにとって不利になる言動は一切行わない。代わりに、妻子共々適切な国家に亡命できるように取り計らってくれ……。

 ムボロを殺すわけにいかない……ヘミ族の深い恨みを買うし、いまだ国民には人気のある人物を殺害したとなれば大きなイメージダウンにもなる……FPAとしては、ムボロが政界復帰を否定し、自ら『国外追放』の身となってくれるのは願ったり叶ったりである。

 FPA側は、前向きに検討すると答え、さっそくこの件を『エール・ブランシュ』に報告し、その情報はすぐにアルフォンス・ナクララ将軍の知るところとなった。



 新政権とFPAの交渉は、傍目には意外なほどすんなりと進んだ。

 FPAは元々寄り合い所帯である。究極の目的として、南部諸州の分離独立を掲げてはいるが、単にムボロ憎し、で参加している連中も多い。ムボロを捕らえ、政治的影響力を削いだうえに、新政権の大幅譲歩を勝ち取り、さらに交渉のテーブルに着かせたことで、目的は半ば達成された、と考える者も多かった。ここで強硬に出て、せっかく柔軟姿勢を見せている新政権を怒らせるのは得策ではない、という意見が主流となり、交渉にはソフトな姿勢で臨むことになる。

 一方の新政権でも、大幅譲歩自体は国民の批判に晒されたものの、停戦自体は歓迎されたことから、軍事衝突は極力回避し、交渉で事を収めようという姿勢を見せる。

 結局両者が選んだ妥協案は、新政権が実を、FPA側が名を取った形となった。

 南部の三州、すなわちシュドウェスト、シュデスト、プラトーは『南アマニア共和国』を名乗り、アマニア共和国と連邦国家を組む。これにより、従来のアマニア共和国は、アマニア連邦共和国へと国名を変更する。

 FPAは解散し、政治部門を母体として南アマニア共和国政府、軍事部門を母体として南アマニア防衛軍が発足する。

 南アマニア共和国政府は、独自の議会を持ち、行政、立法、司法その他広範な権限を有するが、外交権だけは持たない。最高法規はあくまでアマニア共和国憲法であり、いかなる形で決められたものであれ、あらゆる法律、法規、規則などは憲法に反する条項は認められず、無効となる。

 南アマニア防衛軍は南アマニア共和国政府に隷属する軍隊であるが、戦時にはアマニア共和国国防軍の指揮下に入ることを義務付けられる。その規模に関しても制限が加えられており、その総兵力は共和国国防軍の二分の一を超えないものとする。なお、空軍は有さず、戦闘用固定翼航空機は保有しない。

 注目の的であった南部諸州の鉱山に関しては、主要鉱山すべての開発経営を、連邦共和国の国営企業が行う、という形で合意を見た。これならば、南アマニア側は大量の雇用の創出を見込めるし、鉱物売却益も受け取ることができる。一方アマニア側は、税収と輸送などの付随産業で利益を上げ、なおかつ売却益の一部を得ることが可能だ。……南アマニアの『独立』により、得られるはずの利益は大幅に減ったが、ずるずると内戦を続け戦費を浪費することを考えれば、収支はプラスとなる。

 内戦に関する戦争犯罪の追及などは、不問にすることも同意される。南部軍管区の大統領警護隊により、数々の残虐行為が行われたのは事実だが、FPA側もテロ紛いの作戦などの犯罪行為は数多く行ってきている。泥仕合を避けるために、両者とも細かいところには目を瞑った形となった。戦時賠償なども、双方が放棄を宣言する。

 これら交渉が短期間で妥結したのは、『エール・ブランシュ』による根回しの成果であった。二大政党や財界の意向をまとめたナクララ将軍とそのスタッフが、その情報を事前にサカイワ大佐経由でFPA側に伝え、それを元にFPAが意見を集約し、譲れる点と譲れない点をサカイワ大佐に提示し……といったやり取りを、数回繰り返して妥協点を探った、という経緯が水面下で行われていたのだ。

 とにもかくにも、アマニアには再び平和が訪れた。交渉を主導し、平和をもたらしたマリナ・ジズカカの手腕は、国民に高く評価される。一部では、アシャーペ女王の再来、という声すら挙がる。

 ネイサン・ムボロ復活の余地は、ますます小さくなった。



 FPAの外交担当者が亡命先として挙げたのは、イフリーキヤ共和国であった。

 北アフリカ、地中海沿岸の国で、西側諸国とも友好的な穏健イスラム国家である。一時期フランス植民地だったこともあり、アラビア語と共にフランス語が公用語となっているので、言葉の問題もない。

「外交当局者との接触は済ませました。奥方とお子さん共々、受け入れるそうです。飛行機も手配するとのこと。ただし、費用はあとで支払っていただきたい、と言っていました」

 FPAの男が言う。ムボロは内心でにやりと笑った。ヨーロッパのリヒテンシュタインとヴァイセンベルク、それにカリブ海のアルバの三か所に、合計六億ドル相当の金と有価証券を貯め込んであるのだ。チャーター機の代金など、余裕で払える。

「イフリーキヤ側に、その条件を呑むと伝えてくれ」

 ムボロはそう返答した。

 亡命の準備は、着々と進んだ。一足先に、妻と子供が出国する。これは、FPA側が信頼できるかどうか、ムボロが試すという意味合いもあった。やがて届けられた妻が書いた手紙には、無事出国に成功し、外国で丁寧な扱いを受けていると書いてあった。その短い手紙の中に、あらかじめ取り決めておいた『自発的に書いた。決して強制されたものではない』ということを意味する単語が混じっていたことを見たムボロは安堵した。どうやら、FPA側は約束を守るようだ。

 亡命の前日、ムボロはFPA側の要請に応じてアマニア国民向けのビデオメッセージを録画した。亡命すること、政治活動を引退し、二度とアマニアには戻ってこないことを、国民に告げる内容である。

 翌日、ムボロは車でラヴィーヌヴィル空港へと送られた。護衛役兼荷物持ちとして、イギリス系の傭兵……ラッセルが付いてくる。

 エプロンに待っていた飛行機は、民間籍のビジネスジェット機、ガルフストリームG550だった。昇降ドア兼用のタラップの脇に、黒いスーツ姿のアラブ人三人が待っている。

「スリム・バドラと申します。お迎えに上がりました、閣下」

 中年のアラブ人が、一歩前に進み出る。

「ありがとう、ムッシュ・バドラ」

 ムボロは上機嫌で答えた。これに乗れば、もう自由の身である。政治権力と無縁となるのは悔しいが、負けたのだから仕方あるまい。もう若くはないのだし、これからは気持ちを切り替えて静かにかつ優雅に暮らすとしよう。……それに、北アフリカには美少年が多いと聞く。こちらも、楽しみだ。

 ムボロがはしゃいでいなければ、機体後部に付いているロールスロイス製ジェットエンジンの側面に書かれている機体記号レジスタが、Gから始まっている(イギリスで登録された機体であることを示す)ことに気付いたかもしれない。もっとも、気付いたところで気にも留めなかっただろうが。



 ネイサン・ムボロが軽やかな足取りでガルフストリームのタラップを登っている頃……。

 そこから八十キロメートルほど北西に離れたノルウェスト州の山中で、一人の男が緩い上り坂を登っていた。

 エクメト中佐である。FPAに対するサリン攻撃作戦、『ドラゴニ』の指揮官だった人物だ。

 突然の規模縮小により、大統領警護隊の隊員は巨大な人員整理の波に襲われていた。さらに、親ムボロ派の力を削ぐために、現役退役者を問わず、士官と下士官に対し在職中の不正行為を対象にして、警察局による摘発、逮捕投獄、処罰が相次いでいた。なにしろ、長年独裁者の元で活動してきた実質的私兵組織である。叩けば、いくらでも埃は出てくる。

 エクメト中佐は、その優秀な能力ゆえに退役を強いられることはなかったが、実のところかなり追い詰められた状態にあった。ムボロ大統領のお気に入りとして、幾度も秘密作戦の指揮を執ってきたからだ。その中にはもちろん、かなり『汚れた』ものも多い。

 新大統領就任が確実となってから、エクメト中佐は腹心の部下と共に、必死になって違法行為の証拠隠滅を図ったが、さすがにすべての証拠を葬り去ることはできなかった。関わった人員は多いし、エクメト中佐より上位者が作成した個人的な書類などになると、その所在を突き止めることすら困難である。さらに、大統領警護隊内部が突然の規模縮小と逮捕者の続出で混乱しており、事務記録関連部門がまともに機能していないことも足を引っ張った。この手のオフィスの記録類の完璧な目録は、担当者の頭の中にだけ存在する、というのが一般的である。担当者が辞めさせられたり警察に捕まっている現状では、目当ての文書や電磁記録は迷宮の中に埋もれているも同然だった。

 エクメト中佐は頭を抱えた。このままでは、逮捕は時間の問題である。殺人数件を始め、山ほどの罪状で裁かれることは目に見えている。さらに、サリンの問題がある。ムボロ大統領からの中止命令があと三十分遅ければ、ラヴィーヌヴィルに大量のサリンを散布する命令を下すところだったのだ。……新政権とFPAが和解の道を辿っている現状では、その準備行為だけで銃殺は確実だろう。

 救いの手を差し伸べたのは、部下の一人だった。外国への逃亡を勧めたのだ。

「無理だ。金もコネもない」

 エクメトは首を振った。ある意味、真面目な軍人だったので、公費をちょろまかして私財を貯め込むようなこともしていない。大統領の信頼を裏切ることに繋がりかねない外国人との個人的なコネも、築いてはいなかった。

「金なら何とかなります。『あれ』を売りましょう」

 部下が、アイデアを出す。

 『あれ』が何を意味するかは、エクメトにはすぐわかった。ラヴィーヌヴィルから持ち帰ったサリンは、大統領から次の命令を下されていないので、いまだエクメト中佐が隠匿場所に置いたままなのだ。

 ……これは、ありか。

 新政権にとって、サリンは無用の長物だろう。それどころか、アマニアに化学兵器があったことすら、対外的には認めたくないだろう。エクメト中佐がサリンを持ち逃げしても、怒るどころか却って感謝するに違いない。

 ……退職金代わりに、貰っておくか。

 決断したエクメト中佐の動きは速かった。信頼できる部下を集め、計画を説明する。数名の部下が、すぐに出国手続きに入った。外国人の買い手を見つけるためだ。

 だが、買い手はなかなか付かなかった。いくつかの軍事独裁国家に打診してみたが、いずれも断られたのだ。売り手が『新顔』のために信用されなかったこともあるが、やはり『ブツ』が危う過ぎて、安値で持ち掛けられてもそうそう買う気にはなれないのだろう。

 仕方なく、エクメトは売却対象を国家以外の組織に広げた。一応良心は持ち合わせているので、テロ組織には売りたくなかったが、贅沢は言っていられない。

 そんな中、ようやく『購入したい』との連絡が、モルジブにあるMTCなる貿易会社から寄せられる。

 どうせ転売目的の武器商人だろうが、エクメトにしてみればこちらの言い値で買い取ってくれるのであれば、文句はない。アマニア国内で引き渡すことを条件に、エクメトは売却を了承した。

 そんなわけで、エクメト中佐はMTCに指定された場所に向かっているのである。歩いているのは、徒歩でと指定されているからだ。

「止まれ」

 すぐそばにある茂みの中から、声が掛かる。エクメト中佐は歩みを止めた。

 声とは逆側の茂みが割れ、覆面姿の男がふたり出てくる。

「失礼」

 そう言いながら、二人がエクメト中佐のボディチェックを始めた。エクメトは黙ったまま自由に調べさせた。武器はもちろん、財布すらも置いてきている。怪しいものは見つからないはずだ。

 ようやく納得した二人が、身を引いた。一人がぱちんと指を鳴らす。

 それに応じて、林の中から男が一人出てきた。髭面の中年で、中東系の顔立ちだ。手には、ブリーフケースを下げている。

「前金だ」

 男が、ブリーフケースを地面に置いた。蓋を開け、中身をエクメトに見せる。

 エクメト中佐は詰まっている札束を検めた。百ドル札の束。本物に間違いない。

「結構。『ブツ』を移動させよう」

 エクメトは手を出した。その手に、男の一人が携帯電話を握らせる。

 部下に電話したエクメトは、隠語を数語つぶやいてサリンを積んだトラックに移動を命じた。近くの村で待っている武器商人の部下に、トラックごと引き渡す手筈になっている。

「では、これで失礼しよう」

 中東系の男が、エクメトに背中を見せ、歩み出した。二人の部下が、続く。

「……信用してくれるのは嬉しいが、不用心過ぎないか?」

 エクメトは呆れ気味に声を掛けた。普通帰るのは、部下がトラックを確保し、サリンが積んであることを確認してからだろうに。

「君のことは信用しているよ。エクメト中佐」

 足を止め、振り返った中東系の男が、微笑みながら言う。エクメトは内心でひやりとした。今回の取引では、名前も肩書きも一切明かしていないはずだ。それなのに、この男はこちらがどこの誰かを知っていやがる……。

「いやなに、通常の手続きだよ、これは。さすがに化学兵器となると、名も知らぬ奴から買う気にはなれないのでね」

 エクメトの当惑を悟り、中東系の男が言い訳する。

「……だろうな。そして俺は、正体不明の男にサリンを格安で売った間抜け、というわけか」

 自嘲気味に、エクメトは言った。

「わたしは、ケナン・エルテム。世界一信用のおける武器商人だ。後金は一ドルたりとも欠けずに振り込んでおくから、安心してくれ。売買したいものがあれば、いつでも声を掛けてくれ」

 中東系の男が、にこやかに言って背を向ける。

 ……こんな大物と、俺は取り引きしたのか。

 エクメト中佐は、血の気が引く思いで去ってゆく三人の背中を見送った。世界的に有名な死の商人と、顔を突き合わせる日がこようとは……。

 茂みの中から発せられていた人の気配が、すっと消えた。隠れていたケナン・エルテムの護衛が、引き上げたのだろう。

 はっと我に返ったエクメト中佐は、ブリーフケースを拾い上げると坂を降り始めた。ぼんやりしている暇はない。この金を使って出国し、自分と部下たちの落ち着き先を見つけなければならないのだ。……手遅れになる前に。


 第二十三話をお届けします。

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