第一話
Mission09を始めさせていただきます。時系列的には、Mission08終了直後からになります。
東アフリカ アマニア共和国 オー・ジーワ州 ヴィラール市
白いボディにアフリカの陽光を煌めかせながら、レクサスLSが砕石舗装の二車線道路を低速で走ってゆく。
運転しているのは、明るいキャラメル色の髪を短く刈ったヨーロッパ系の男性だ。目元をサングラスで隠し、慎重なハンドルさばきでレクサスを操っている。
隣に座るのは、地元民らしい黒い肌の若い女性であった。やや地味な青いチューブドレスを纏った、なかなかの美人だ。セミロングのまっすぐな髪は、もちろんウィッグである。
一見すると、ムボロ独裁政権にすり寄って甘い汁を吸っている富裕なベルギー系ビジネスマンと、その現地愛人といったカップルだったが、車内で交わされている会話はまことに物騒なものであった。
「それで? 頼んでおいた毒物は手に入ったの?」
女性が、訊いた。
「ああ。ラッセルが入手してくれた。シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)を十グラムほどだ」
運転している男が答える。女性が、微笑んだ。
「何でも手に入れてくるわね、あのイギリス人は」
「色々と顔の広い奴だからな。仲間に入れて正解だったろ?」
路肩を牛が歩いているのに出くわし、ゆっくりとブレーキを踏みながら、男が言った。
二人はいずれも、アマニア共和国で独裁権力を揮うネイサン・ムボロ大統領の打倒を最終目的に掲げるFPA……アマニア人民戦線軍事部門の幹部であった。男の名はダーク・セルキュ。元傭兵で、生粋のベルギー人だが、訳あってFPAに参加している。女性の方はエリザといい、まだ若いが軍事部門では五指に入るほどの指導的立場にある。
「まあね」
女性……エリザはダークの問いかけに曖昧な返答をした。
シアン化ナトリウムを手に入れてきたラッセルというイギリス人傭兵が、FPAに加わったのは半年前のことだった。いったんベルギーに帰っていたダークが、ブリュッセルのとあるビアカフェで知り合って友人となり、連れて戻ってきたのだ。よそ者に信頼をおけないと考えていたエリザは、ラッセルを仲間に加えることを渋ったが、彼が示した傭兵としての力量と、ダークによる『保障』が他の同志を納得させ、FPA軍事部門の一員となったのである。それ以降、ラッセルはその童顔から繰り出す人当たりの良い笑みと、優れた射撃の腕前、それに広いコネを活かした情報収集能力や希少物資調達能力によって、みるみるうちに皆の信頼を勝ち取って現在に至っている。
「それで、毒物をどうやって長官に盛るんだ?」
ダークが、訊いた。
「もちろん、イザベルを使うのよ」
両親を政府軍兵士に……正確には、南部軍管区のヘミ族兵士に殺されたイザベルという名の少女が、復讐の念に燃えてFPAに参加を申し出てきたのは、五か月ほど前のことであった。本人は銃を取って南部軍管区と戦うことを志願したが、中流家庭育ちで物腰に品があり、顔立ちも美しいイザベルを一介の戦士として使うのは勿体ないと考えたエリザは、彼女に特殊な任務を与えることにした。基礎的な訓練を施したうえで、身分を偽装し、地方都市であるヴィラール市にあるイタリアン・レストランに給仕として潜り込ませたのである。
目的は、ムボロ政権を支える主柱の一本といえる情報省の女性長官、マリナ・ジズカカの暗殺であった。イタリア料理に目がないマリナがこの地方都市に来ることがあれば、当市唯一の本格的イタリアン・レストランに食事に訪れるはず。そう読んでの、『先行投資』である。
そしてその投資は、充分な見返りをもたらしそうな雲行きであった。政治部門の情報班が、情報省内に潜り込ませてあるシンパから、来週この都市を情報省長官が視察に訪れる、という極秘情報を入手したのだ。
エリザはさっそく暗殺計画をまとめ上げ、軍事部門最高会議に諮った。計画は賛成多数で承認され、政治部門の同意も無事取り付け、実行の運びとなる。
そのような経緯を経て、エリザは自ら暗殺決行の舞台となるイタリアン・レストラン『リストランテ・フィーコ』への事前偵察を行うべく、レクサスのシートにめかし込んで収まっているのである。相棒にダークを選んだのは、極力目立たないように、との配慮であった。最貧国レベルのアマニア共和国で、本格的イタリアン・レストランで食事ができる階層など、ほんの一握りである。アマニア人同士のカップルなら、まず確実に有力者とその妻、あるいは愛人という取り合わせになるから、新顔が来れば店の支配人や給仕長に顔を覚えられてしまうだろう。しかし、ベルギー系ビジネスマンが肌の色が異なる愛人を連れてふらりとランチにやってきた、という体を装えば、一見の客だと思って気に留めることもないはずだ。一応、エリザは警察局によって『賞金首』として手配されている身である。ウィッグと濃い化粧で人相は変えてあるとはいえ、用心に越したことはない。
「いやいやいや無理だろ。相手はあの『マダム・フーシェ』だぞ。新米の給仕が接客できるはずがない。マリナが食べる料理には、触ることすらできないはずだ」
イザベルを使う、というエリザの言葉を、ダークが即座に否定した。
マダム・フーシェとは、フランスの近代秘密警察の祖とも言われ、腹黒い政治家の代名詞となったジョセフ・フーシェになぞらえられて畏怖の念と共に付与された、マリナ・ジズカカ長官の綽名だ。それと同様に、『フーシェ・ノワール(黒いフーシェ)』という綽名も、欧州方面ではささやかれているという。
「そう。まともなやり方じゃ、暗殺は不可能よ。でも、わたしはあの女のことは詳しいの。ひとつ、アイデアがあるのよ。今日の偵察は、そのための下見よ」
「……アイデアねえ」
ダークが、懐疑的な表情で首を傾げる。
『リストランテ・フィーコ』は、植民地時代に建てられたベルギー人の邸宅を店舗に改装したもので、レンガ造りの平屋建てだった。いい感じに古びた壁や天井が、のどかで落ち着いた雰囲気を醸し出している。
予約はしていなかったが、席には余裕があり、二人はすぐにテーブルに案内された。コース料理とワインを注文し終わったところで、エリザはイザベルの姿を見つけた。黒い半袖に白いエプロンの給仕姿は、すでに板についている感じだ。
店内の様子をさりげなく観察しながら、二人は料理を楽しんだ。
「さすがにおいしいわね。これなら、絶対にマリナが食べにくるわ」
デザートの、いちじくのジェラート……『フィーコ』とは、イタリア語でいちじくのことであり、このデザートは店の看板商品でもある……を食べつつ、エリザは言った。
食後のコーヒーは、ダークは定番通りエスプレッソを注文したが、エリザが注文したのは、カフェ・シェケラートだった。アイスコーヒーの一種である。
給仕が去ると、ダークが意外だ、といった表情でエリザを見た。
「実は、これを飲みに来たようなものなのよ。実は、マリナの大好物なの。ここへ来たら、まず確実に食後にはこれを注文するわ」
声を潜めて、エリザが説明する。
やがて、注文の品が運ばれてきた。カフェ・シェケラートはエスプレッソに砂糖を加え、氷を入れたシェイカーによってシェイクすることによって冷たく冷やした飲み物である。氷そのものはコーヒーに入っていないので、エスプレッソ本来の濃い味わいが損なわれることはない。脚付きのグラスで供されることが多く、この店ではフルートグラスに入って出された。シェイクされたことにより泡立っており、見た目は黒ビールのようだ。
エリザはグラスを持ち上げて一口飲んだ。
「おいしい。これなら、マリナも満足するでしょう」
「これで……やろうというのか?」
ダークが、言葉をぼやかして訊く。
「そうよ。彼女はこれを変なやり方で飲むのが好きなの。そこを狙うのよ」
にやりと笑ったエリザが、もう一口カフェ・シェケラートを喉に流し込んだ。
それは、一本の電話から始まった。
ギャルソンの一人から受話器を受け取った支配人は、地元の警察署長から、店に重要人物が来るとの一方的な通告を受けた。その数分後、『リストランテ・フィーコ』は数台の警察車両と情報省の車両によって完全に囲まれた。
情報省第七局警備主任の肩書を持つ女性オデットは、黒塗りのBMW F30からさっそうと降り立った。面長の、鋭い顔立ちをした美人で、黒いパンツスーツ姿だ。トレードマークともいえる長い黒髪は、ウィッグである。
彼女は数名の部下を率いて店内へと乗り込んだ。驚いて食事を中断している客を無視し、支配人を探す。
「わたしがディレクトールです」
中年の男が、進み出た。……イタリア料理店なので、正式にはディレットーレになるが、ここではフランス風にそう名乗っているようだ。
「突然で申し訳ありません。約一時間後、こちらに情報省のマリナ・ジズカカ長官がお食事に来られます」
オデットは、低姿勢かつ丁寧に告げた。支配人の顔が、マリナ・ジズカカの名前を聞いたとたんにわずかに蒼ざめる。
「ジズカカ長官にご訪問いただくとは、光栄です。どのような準備を……」
それでも商売人である。動揺を押し隠し、支配人が笑顔を見せた。
「申し訳ありませんが、長官が食事を終えられるまで、原則的に出入り口を封鎖させていただきます。もちろん、勘定を済ませた客は別ですが。予約がない客は店内に入れないように。逆に、予約した客は帰らせずに必ず店内に入れて下さい。今居る客も、できるだけ長居をさせるように。必要なら、飲み物やデザートの追加サービスを行っても結構です。代金は、情報省が持ちますので」
VIP警護のためには、一般人をなるべく排除するのが通例である。オデットがあえてその逆の警護手法を取ったのは、爆発物による暗殺を予防するためであった。『大衆の味方』を自任するFPAなら、一般市民を巻き添えにするテロは起こせないだろう、との読みである。
オデットはてきぱきと準備を進めた。警察側の指揮を執る上級警視正と打ち合わせを行い、通信規則その他を取り決める。その間に部下が厨房を含む店内に散り、不審物や不審な客の有無を調べた。支配人には、ジズカカ長官に出す料理を調理する者、および給仕する者は雇用期間が長く信頼の置ける人物に限定し、しかもなるべく少人数に留めるように要請する。
一時間はあっというまに過ぎた。
防弾装甲仕様のメルセデス・ベンツW222が、車寄せにゆるゆると停車する。
降り立った女性は、かなりの肥満体であった。……長年のデスクワークと美食のつけである。髪はコーンロウ(三つ編み又は四つ編みにした髪を、頭皮に添うように這わせる髪型)で、ぽっちゃりとした丸顔はどこにでもいそうな穏やかな中年女性に見える。
むろん、穏やかなのは外見だけである。ムボロ独裁政権を支えるために、内外の情報収集、マスメディアに対する統制、対諜報、宣伝戦などに辣腕を揮っているのが、マリナ・ジズカカなのだ。ムボロ政権の暗部である拷問や政治的暗殺には関わっていないが、結局のところ『同類』と看做され、国内はもとより周辺諸国からも畏怖されている女性なのである。
オデットは長官の出迎えを部下に任せて、周囲の警戒に当たった。狙撃手が潜みそうなポイントには、警察側が人員を配置してあるが、さすがにすべての場所を警備するだけの人数はいない。したがって、長官が屋外にいる今がもっとも暗殺の企てに関して脆弱な時間帯となる。
支配人にエスコートされ、ジズカカ長官がレストラン内に入ると、オデットも肩の力を抜いて屋内に入った。長官が座るテーブル……もちろん、窓からもっとも離れた壁際の席である……を見張れる位置に陣取り、周囲に目を光らせる。
長官に給仕したのは、初老の給仕長であった。ソムリエ……規模が小さい店なので、一人しかいない……も、他所から引き抜いて最近働き出した者なのであえて近付けず、給仕長が自らワインを持ってくる。
食事は滞りなく進んでいった。パスタの皿が下げられ、仔羊のグリルが運ばれてくる。
デザートが終わると、給仕長がコーヒーの注文を取った。長官が所望したのは、カフェ・シェケラートだった。厨房へ戻る給仕長の姿を、オデットは目で追った。数名の若い女性給仕が、壁際に並んで控えている。そのうちの一人が、腹を手で押さえていることに、オデットは気付いた。……緊張して胃が痛むのだろうか。
給仕長が、銀盆にカフェ・シェケラートを注いだフルートグラスを載せて戻ってくる。長官のテーブルにグラスを恭しく置いた給仕長が、一礼して半歩下がった。ジズカカ長官が、給仕長を見上げる。
「すまないけど、ストローをいただけますか?」
ジズカカ長官の言葉に、給仕長が一瞬だけ戸惑いを見せた。カッフェ文化が極めて発達したイタリアの食文化においては、カッフェは直接器に口をつけて飲むものであり、たとえ冷やしたものであっても、ストローで飲む習慣はない。……日本人が、冷たい緑茶をストローで飲むことに抵抗を感じるのと同様であろう。
特に、カフェ・シェケラートは泡も味わいのうちであり、ストローを使ったらそれを楽しめなくなる。幼い子供ならともかく、ストローで飲むのは、不作法ではないにしても、ちょっと『変』だと思われても仕方がない。
「少々お待ちください、マダム」
給仕長が、足早にストローを取りに行った。それを見ていた壁際の女性給仕のひとりが、わずかな身振りで給仕長の気を引くと、そっとエプロンのポケットから白く細長いものを取り出して給仕長の手に押し付けた。安堵の表情を浮かべた給仕長が女性給仕に何事かささやき、すぐに戻ってきた。手にした紙包装のストローの包装を解き、恭しくジズカカ長官に差し出す。
「お待たせ致しました、マダム」
……オデットの脳内の警報器が、反応した。
「お待ちください、長官」
足早に長官のテーブルに近付きながら、固い声で呼びかける。
ストローを受け取ろうとしていたジズカカ長官の手が、止まった。驚いた給仕長が、首を捻ってオデットを見つめる。
オデットは脳内を整理した。なぜ、警報器が反応したのか。
……女性給仕の反応が早すぎた。不自然なくらいに。
……ストローを給仕長に渡した女性給仕は、腹を手で押さえていた人物だった。押さえていたのは腹ではない。エプロンの、ポケットを押さえていたのだ。……ストローが入っていたポケットを。
……女性給仕は知っていたのだ。長官が、ストローを所望することを。だから、事前にエプロンにストローを入れていたのだ。押さえていたのは、大事な物を守ろうとする、無意識の行為だろう。そして、タイミング良く給仕長に差し出した。用意したストローを、長官に使わせるために。
……なぜ? もちろん、ストローに細工がしてあるからだ。
「テーブルに置いて」
オデットは、身振りを含めて給仕長に命じつつ、眼で女性給仕を探した。壁際の、女性給仕のあいだに、ぽっかりと一人分の空間が開いていた。ストローをポケットから出した娘が、消え失せている。
「総員へ。出入り口完全封鎖。若い女性に注意。身長160センチ前後。短髪。部族不明。女性従業員の一人と思われる。不審人物は拘束を許可する」
オデットは、無線にそう呼びかけた。
「給仕長、このストローを渡した娘は?」
「ミシェルですが、なにか……」
戸惑いつつ、給仕長が答える。
「探して、わたしの部下に引き渡してください」
オデットにそう命じられ、給仕長が慌てて厨房に引っ込んだ。
「毒かしら?」
マリナ・ジズカカが、平然とした表情のままオデットの顔とテーブルの上のストローを見比べる。
「可能性は高いです」
オデットも平然とした表情で応じた。
「シェフ! 死体を発見しました!」
二分後、部下の一人が駆け寄ってきた。……レストラン内なので紛らわしいが、この場合の『シェフ』はリーダーを意味するフランス語であり、オデットが厨房で腕を揮ったりするわけではない。
「状況は?」
「厨房奥の倉庫内。身元は支配人が確認しました。ここの従業員で、ミシェル・カエヨヨ。給仕として働いていた、若い女性です。死因は不明ですが、外傷はありません。それと、死因と関係があるとは思えませんが……」
部下が、戸惑ったかのように言葉を濁した。
「どうしたの?」
「なぜか、ストローを咥えて死んでいました」
オデットは、ジズカカ長官と顔を見合わせた。
「あなたに命を救われたのは、何度目かしらね」
ヴィラール市市街のホテルの一室で、マリナ・ジズカカ長官がしみじみとした口調で言った。
「ともかく、未然に防げてなによりです」
オデットは、固い口調で応じた。あれから、地元警察がミシェル・カエヨヨに関して詳しく調べたが、碌な手掛かりは得られなかった。背後関係も、青酸化合物と鑑定された毒物の入手経路も不明のままだ。まあ、裏にFPAがいることは確実だろうが。
「今日はもう休みなさい。よくやってくれました」
マリナが、オデットを労いつつ任を解いた。
「はい、長官」
微笑んで答えたオデットが、ポケットに手を突っ込んだ。美麗なリボンで飾られた小箱を取り出し、マリナに差し出す。
「なに?」
マリナが、小首を傾げてオデットを見る。オデットが、ぷっと噴き出した。先ほどまでの固い表情はなく、穏やかな笑みを浮かべている。
「やだ。忘れちゃったの?」
「……そうだったわね。すっかり忘れてたわ」
こちらも穏やかな笑みを浮かべ、マリナが小箱を受け取った。オデットは歩み寄ると、マリナの頬に唇を寄せた。
「お誕生日おめでとう、母さん」
第一話をお届けします。




