第十六話
レオニード・ショマ中尉は、愛機の主翼後退角を最大前進位置の十六度に合わせた。フラップを離陸位置までセットすると、見守っていた民兵に手まねで離陸すると告げる。
了解の合図をした民兵が、赤い小旗を大きく振った。そして腕をあげてショマの愛機を誘導し始める。ショマはブレーキを解除すると、スロットルをほんの少しだけ押し込んだ。可変後退翼戦闘機MiG‐23MLが、きーんというターボジェット特有の甲高いエンジン音を響かせながら、森の中に設けられた駐機場所からのっそりと動き出す。
民兵の誘導に従い、ショマは愛機を路上に出した。REA国内の各所にある、自動車道を利用した臨時滑走路のひとつである。昨日午後の哨戒飛行中にエンジントラブルを起こしたショマ中尉は、僚機と分かれると機嫌のよくないエンジンをなだめつつこの滑走路に緊急着陸した。エンジンを調べたところ、燃料ポンプの不調であることが判明したが、修理には部品交換が必要であった。すぐに最寄の空軍基地に連絡し、修理班と部品を送ってもらうように依頼したが、今祖国は日本に戦争を吹っかけられた(と一般のREA国民は信じ込んでいる)うえに日本の味方をするアメリカの脅威にも晒されている状態である。空軍は忙しく、たった一機の、それも最新鋭でもない戦闘機のために派遣できる整備班など、あるわけがない。結局交換部品とまだ髭も生えていないような新米整備員二名がおんぼろトラックで到着したのは、二十四時間以上経った今日の日没後であった。その二人を手伝って、低出力の発電機が生み出した頼りない照明の下で何とか修理を終えたのが、つい三十分前のこと。地元民兵に道路を封鎖してもらい……元からたいした交通量はなかったが……いまやっと飛び立とうとしているところである。
ショマ中尉は機首をセンターラインにぴたりと向け、スロットルをアイドルに戻し、ブレーキを掛けた。インテイク下に付けられた着陸灯が、真っ直ぐに伸びる二車線道路を照らし出す。
MiG‐23の全幅は、主翼を最大前進位置にしている今は、十四メートル近い。道路の両側は草地で、障害物は一切ないが、万が一主輪が道路から外れれば確実に事故になってしまう。
……行くか。
ショマ中尉は、古臭いSKSカービンを背負った民兵に対し離陸の合図を送った。慌てて路外に出た民兵が、堅苦しく敬礼する。ショマは、親しみのこもった丁寧な答礼を返した。ここの連中には、宿の世話までしてもらったのだ。
酸素マスクの装着具合を微調整してから、スロットルを押し込んで推力を最大にしたショマは、操縦桿前のブレーキ・レバーを解除した。間髪を入れず、スロットルをアフターバーナーの位置まで押し込む。
MiG‐23が、勢いよく滑走を開始した。すでに残燃料は一トン半を切って、機体はかなり軽くなっている。ショマは機速230キロメートルで操縦桿をわずかに引いた。ほどなく、機体がふわりと浮いた手ごたえを感じる。ショマは浅い上昇角を保ったまま、脚ハンドルを上げ位置に入れた。機速が十分なことを確認してから、アフターバーナーを切り、主翼後退角を巡航の四十五度にセットする。
「こちらヴィーク06、臨時滑走路47を離陸し、高度1500で真北へと飛行中。アヴローラ、ベレザイカへの針路を指示されたい」
高度を上げたショマは、すぐにこの地域の防空管制に呼びかけた。このご時勢で、不明機として処理されたら無事では済まない。良くて強制着陸、悪ければ地対空ミサイルの餌食である。
「こちらアヴローラ。ヴィーク06、当面針路そのまま、高度5000で飛行せよ」
「ヴィーク06、了解」
ショマは燃料計にちらりと目をやった。まだ余裕はあるが、安心できる残量ではない。
……けちけちせずに、臨時滑走路に蓄えてあったものを使わせてくれりゃいいものを。
ショマは愚痴った。一応使用許可を申請したのだが、『戦時備蓄』との理由で使わせてもらえなかったのだ。
まったく。大統領は日本と戦争していると言ってるのに、空軍の偉いさんは戦時ではないとぬかしやがる。どうなってるんだ。
ショマ中尉は、徐々に高度を上げていった。良く晴れた日だった。頭上は、満点の星空だ。
と、その星々が一瞬掻き消えた。
……なんだ?
ショマ中尉は、眼を凝らした。すると、視界に黒い影が飛び込んできた。十字架のような、黒い影が。
その影は、あっというまにショマの視界から消えた。
黒い航空機なのか?
もしあれが航空機だとしたら、翼長は二十メートルくらいあったのではないだろうか。
「アヴローラ。こちらヴィーク06。当機付近に、他に在空中の航空機はいるか?」
「こちらアヴローラ。二十二キロ南東に四機編隊が哨戒中のみだ」
……おかしい。
アヴローラの捜索レーダーに引っ掛かっていない航空機。まさか。
噂に聞く、アメリカのステルス機ではないのか。
この北方には、重要な工業都市であるパヴロザボーツクがある。さらに北にあるのは、首都ベロホルムスクだ。そこを、爆撃するのではないか。
だが、もし見間違いだとしたら。
エンジントラブルの直接的な責任は、ショマにはないが、今回の件で飛行隊長に白い目で見られるのは必至である。もしここで『アメリカのステルス機が来た!』と報告し、それが誤報であったとしたら、降格間違いなしだろう。ただでさえ、皆ぴりぴりしているのだから。
……自分で確かめるまで、報告しなければよいのだ。
ショマはすぐに都合のいい結論に達した。見間違いであれば、何食わぬ顔をして飛行を継続する。もし敵機であれば、手柄を独り占めする。
「アヴローラ、こちらヴィーク06。エンジンの調子がおかしい。しばらく当該空域で旋回し、様子を見る。よろしいか」
「アヴローラ、了解」
ショマ中尉は愛機をゆっくりと旋回させた。レーダーを、スタンバイに入れる。
「戦闘機のベクトルが消えたわ。旋回を始めたみたい。見つかったのかも」
AWACSからの情報を取得していたスカディが、やや上擦った声で言う。
「なんで飛行場もなんもないとこから、急に戦闘機が湧き出すねん。反則やで」
雛菊が、愚痴る。
「身体と装備を保持しろ。高度を変えて躱す」
お兄さん……コックピットのAM‐7が、告げる。
がくんと、ブラックアウルが揺れた。シオは、床に置いてあるバッテリー入りのバックパックを脚で押さえた。
錯覚じゃなかった!
わずかな星影に照らし出された黒い機体。ショマ中尉の鋭い眼は、夜空に半ば溶け込んでいる細長い主翼とずんぐりとした胴体、それに長く伸びるテール部分と、特徴的なV字尾翼を辛うじて見分けた。
……遅い。
ショマは目標機の速度が極端に遅いことに気付いた。慌てて主翼を最大前進位置に切り替え、エアブレーキを開いた。だが、ショマの機は目標機にぐんぐんと近付き、あっさりと追い抜いてしまう。
背後に廻られた!
ショマは急いで機をひねり、上昇した。だが、目標機は追随も攻撃もしてこない。
武装がないのか。いや、あの形状は普通の航空機ではない。速度も、遅すぎる。
……アメリカの無人偵察機か。
ショマは思い当たった。低速。ステルス性。中途半端な大きさ。非武装。間違いない、アメリカのステルス無人偵察機だ。
ショマは愛機を旋回させつつ、レーダーを作動させた。MiG‐23MLの搭載するレーダーは、サプフィール23ML。今となっては旧式だが、ある程度のルックダウン(自機下方目標捜索/追尾)能力も備えている。次いで、赤外線探査装置TP‐23MLも作動させる。目標は、闇に紛れてしまった。もう一度探さねばならない。
「アヴローラ。こちらヴィーク06。無人偵察機と思われる目標を発見した。現在パヴロザボーツクの南四十五キロ。高度4500。交戦許可を求める」
「ヴィーク06。間違いないか?」
「目標の国籍は不明。黒い小型機だ。無灯火で、北へ向かっている」
「ヴィーク06、交戦を許可する」
やった。
ショマは、時速四百キロメートル程度まで機速を落とした愛機を北に向けた。闇に眼を凝らし、目標を探す。光学サイトに映し出されているデータに、変化はない。レーダーはもちろん、赤外線探査装置にも、あの航空機は捉えられていないのだ。
やはりステルス機か。
ショマ中尉は主兵装スイッチを入れてから、兵装モードを機関砲に切り替えた。ショマの機体には、主翼固定翼部にセミアクティブレーダー誘導の中射程空対空ミサイルR‐23R一発、同型で赤外線誘導のR‐23T一発、胴体下に赤外線誘導の短射程空対空ミサイルR‐60二発の、合計四発のミサイルが搭載されている。だが、目標がレーダーに捉えられず、また顕著な赤外放射もしていないのでは、ミサイルを誘導させることは不可能だ。撃墜するには、胴体下にある二砲身式の二十三ミリ機関砲、GSh‐23‐Lを使うしかない。
いた。
目標は、こちらを避けようとしたのか、かなり低空に下りていた。ショマは操縦桿を押して機首を下げた。時速四百キロメートルを切っていた機速が、わずかに上がる。
黒塗りの目標は、その優美な長い主翼を傾けて旋回しようとしている。だが、その動きは無様なほどにのろかった。遠隔操縦なのか、それともコンピューターが自律操縦しているのか。
どちらでも、ショマには構わなかった。無人偵察機とは言え、アメリカ空軍機を撃墜すれば、英雄になれる。叙勲は間違いない。上手く行けば、ルフ大統領が手ずから勲章をこの胸につけてくれるかも知れない。少なくとも、大尉昇進は確実だろう。
エアブレーキを開いてさらに機速を落としたショマ中尉は、機体をわずかにひねって光学サイトの中に目標を入れた。レーダーが使えないから、測距できず、当然弾道計算機も役に立たない。勘で射角を決め、射弾を送り込まねばならない。
いまだ。
ショマは操縦桿のトリガーを押した。GSh‐23‐Lが吠え、半秒足らずのうちに三十発ほどの砲弾を吐き出す。
オレンジ色の曳光弾が、黒い機体に注ぎ込まれた。ショマは機首を上げ、目標の上を航過した。
背後で、眩い爆発が起こった。
その光に照らされ、ショマの左前方に黒い影が浮かび上がった。
もう一機、いたのだ。
「一番機が撃墜された」
感情のない声で、AM‐7が告げた。
「まずいわ。これはまずいわ」
スカディが、うろたえる。
「反撃するのです!」
シオはシートベルトを解いて勢いよく立ち上がった。
「反撃ってどうするの? 機関拳銃では、ジェット戦闘機は撃墜できないわよ」
エリアーヌが、反駁する。
「撃墜する必要はないよ。追い払えばいいんだ」
亞唯がシートベルトを外し、キャビン後部のハッチに取り付いた。すかさず、ライチが手伝い始める。
内開きのハッチを開けた亞唯が、機体外板のハッチも開いた。キャビンの中で、空気の流れが生じる。
いまや、AI‐10全員が立ち上がっていた。ハッチに駆け寄ったシオは、そこをよじ登った。気流に帽子を飛ばされないように左手で押さえながら、亞唯と一緒に外板の外へと頭を突き出す。
「あそこだ!」
亞唯が、指差す。
パッシブIRモードに切り替えたシオの目にも、ジェット戦闘機の高温排気はくっきりと映し出されていた。低空を、旋回中らしい。
「後ろに廻り込もうとしているのですね!」
戦争映画マニアだから、その程度の航空戦に関する知識はある。
と、ふたりのあいだにスカディが無理やり割り込んできた。
「スカディちゃん、狭いのです」
「文句言ってる場合じゃないわ。亞唯、これ借りるわよ」
スカディが、シオと亞唯の手に、手榴弾を押し付けた。Mk1照明手榴弾だ。
「シンクエンタのアイデアよ。こちらはステルス機。パイロットの目を眩ませて、いったん離脱してしまえば、二度と見つかることはないわ」
「シンクちゃん、頭いいのです!」
顕著な赤外線源……敵機は、すでにブラックアウルの背後に廻り込んでいた。低速なので、機首部や主翼前縁の赤外放射はかすかなものだ。
「よし、あたしの合図で投擲だ。こいつは遅延信管七秒。燃焼時間二十五秒。真上になるべく高く放り投げるんだ。光学感度を落とすことを忘れずに……投擲用意!」
亞唯が、説明しつつ叫んだ。
シオは照明手榴弾の安全ピンを抜き、安全レバーを解放した。
戦闘機が迫る。
「投げろ!」
亞唯の合図と同時に、シオは力いっぱい手榴弾を真上に放り投げた。
三つの明るい球が、生じた。
「うぉっ」
ショマ中尉の視力が、一瞬にして奪われた。
夜間に黒い機体を探していたので、もちろん遮光バイザーなど下ろしてはいない。Mk1照明手榴弾の明るさは、五万五千カンデラと言われている。これが三発、文字通り闇打ちで投擲されたのだからたまらない。
ショマ中尉はまぐれ当たりを願いながらトリガーを引きつつ、操縦桿を引いて高度を上げた。視力を奪われたのでは、計器飛行すらできない。死んでしまっては、叙勲どころではない。
オレンジ色の尾を引きながら、曳光弾がブラックアウルを襲った。
不運にも一発のHE(高性能爆薬)弾が命中し、左主翼の先端をもぎ取る。機体のバランスが崩れ、揺れが激しくなる。ハッチから頭を出していたシオたち三体は、慌ててお互いにしがみ付いた。
「中へ入りましょう」
スカディが、言った。敵機は高度を上げ、遠ざかってゆく。あの様子では、しばらくは追ってこられないだろう。ハッチを開けたままでは、ステルス性が損なわれてしまう。
三体はキャビンに戻った。外板ハッチと、キャビンのハッチを丁寧に閉める。
「みんな、シートについて」
エリアーヌが、急いた口調で言う。
シオらはすぐさまシートに座り、ベルトを締めた。
「主翼を損傷した。このまま飛行を継続するのは無理だ。墜落する前に、不時着する」
操縦席から、AM‐7が告げる。
低空の気流に揉まれて、機体ががくんがくんと揺れ始めた。
「あかん。乱気流やで、これは」
雛菊が、慌てる。
「お兄さんを信じるよ、みんな」
亞唯が、決然とした口調で言う。
「降りる」
AM‐7が言うと同時に、機体がすとんと降下する感覚がシオの動体センサーに伝わった。次いで、ふわりと浮くような感覚。地面すれすれで、地表効果によって機体が浮いてしまったのだ。
どん、という衝撃が走った。続いてそれが連続する。シートベルトを締めているにも関わらず、シオの身体はがくんがくんと揺さぶられた。
「ゆ~れ~が~は~げ~し~い~の~で~す~ぅ~」
揺れながら、ベルが喚く。AI‐10に舌はないから、幸いこの状況で喋っても舌を噛むことはない。
最後に一回、どしんと大きな衝撃が走る。ようやく、機体が停止した。
「着陸した。全員、装備をまとめて降りろ」
AM‐7が、命じた。
第十六話をお届けします。




