第五話
ニッサン・グランドリヴィナは混雑する空港通りから、さらに混雑している海岸通りへと乗り入れた。
「自動車やオートバイの保有率上昇に、交通インフラ整備が追いついていないんですよ」
渋滞にはまり込んで動けなくなった車内で、熊野三等書記官が言い訳がましく説明する。
「やっぱり海はきれいやな」
開きっぱなしの窓から半ば顔を突き出すようにしながら、雛菊が海を眺める。道路際に生えている海岸低木とその向こう側に広がる黒っぽく狭い砂浜。そこに打ち寄せている低い白波を生み出している海は、透明感のある緑がかった青だ。たまに数本ずつ固まって生えているヤシの木は、いずれも海側に向かって傾いており、強い日差しを受けて砂浜にくっきりとした影を投げかけている。
気温は高く、シオの外皮センサーは三十度近くを記録していた。湿度も高く、八十パーセントはある。これで順調に走っていれば、開け放たれた窓からさわやかな潮風が入ってきてそれなり快適なのだろうが、渋滞で動けないのでは話にならない。車内の温度が、じりじりと上昇してゆく。
その動かない車の間を、オートバイや自転車がすいすいと追い抜いてゆく。渋滞した道路、といっても、日本のそれのようにきちんと車線を守った車が、それなりに安全な車間距離を保って整然と止まっているというわけではない。さながら幼児が並べた積み木のごとく、乱雑に止められた車が形作っているまるで迷路のような曲がりくねった隙間を、二輪車に乗った人々が熟練したハンドルさばきで通り抜ける。しかもそのうえ、二人乗り三人乗りは当たり前である。
「神業ですねぇ~」
ベルが、感心した。
「この国も、かなり豊かになりましたよ」
ノーヘルで真横を爆走していった若いカップルのスクーターを見送りながら、熊野三等書記官がしみじみと言った。
「十年前なら、こんな渋滞の時には必ず子供たちが新聞や菓子や花を売り付けに窓を叩いたものですが、そんな姿はまったく見られなくなりました。失業率は驚くほど低くなりましたし、児童の就学率も先進国並みになりました。メイアルーア国民同盟の経済政策は、それなりに効果をあげているんですね」
「では、熊野さんは今回の大統領選挙、青鳩が勝てばいいと思ってるのかい?」
亞唯が、無遠慮に訊いた。
「個人的な意見を申し上げれば、そうですね。現状維持が、メイアルーアにとって最善の選択だと思います。与党候補のスウ経済産業大臣は、有能な政治家です。親日的な人物ですし、親密な対米関係も継続するはずです。ここだけの話、本省もそれを期待していますし。正直、野党候補は全員情報不足でよくわからない人物たちなんですよ。当選した場合、どのような対日政策を取るか予測できないのです」
ちょっと歯切れ悪く、熊野三等書記官が答えた。
「野党候補は政治家としての実績が足りていないのですか?」
スカディが、訊いた。
「全員がそうではありませんが、日本側がマークしていなかった人物なので、情報が不足しているのです。最大野党メイアルーア民主社会党のエルネスト・セパグは、昨年行われた党首選挙では泡沫候補だと思われていた若手でしたが、派閥抗争の波をうまく乗り切って、主要派閥の相乗り候補として党首選挙を制したやり手です。党内の役職は歴任していますが、議会では無名の人物でした」
「黄鹿の党ですね!」
シオはそう言った。
「黄鹿……そうです。カンチル(豆鹿)の党ですね。マレー系のメイアルーア人民民主党……その言い方で言えば緑の馬の政党候補、ナジブ・アルシャッド党首は、すでに議員歴二十年、党首就任五年目ですが、同党の支持基盤がマレー系住民に限られているという事情から政権を担うことはないと考えられていたので、これまた情報不足です。ピンクの猿……メイアルーア自由民主党のアントニオ・ワルアに至っては、詳しい経歴すら不明です。まあ、メイアルーア生まれで、インドネシアで高等教育を受け、香港で実業家として成功したのは、事実なんですが」
「で、メイアルーアに凱旋帰国して政界入り、新党を立ち上げたわけですねぇ~」
ベルが、資料ROM内の情報を検索して補足する。熊野三等書記官がうなずいた。
「その通りです。白いアホウドリ……ネーヴェ独立党のジョアン・レンサマは、ネーヴェ島を支持基盤とする議員で、長年ネーヴェ独立党代表を務めていますが、独立運動自体が本島の政界で無視されている状態ですから、当然情報も集めていません」
「では日本大使館も、スウ経済産業大臣が当選すると予想していらっしゃるのですか?」
スカディが、訊いた。
「議会勢力、国民の支持、マスコミの動き。すべてを勘案しても、与党候補の優位は動かないでしょう」
「最近、謎の組織による選挙妨害の噂がありますけど……」
さりげない調子で、スカディが訊く。熊野三等書記官がうなずいた。
「はい。耳にしています。いったい何者でしょうね」
「もし選挙妨害が激化し、選挙が延期や中止になったら、大統領選びにどのような影響が出ると評価されますか?」
「……延期になっても、スウ経済産業大臣の優位は揺るがないでしょう。いずれにせよ、本当に選挙妨害が行われれば、実行者によるそれに伴う政治声明が出されるでしょう。選挙妨害はあくまで、政治目的達成のための手段でしょうから」
いかにも外交官らしく、熊野三等書記官が常識的な判断を述べる。
フォルテ地区に入ると、ようやく渋滞が解消され、車がスムーズに動くようになった。
「あれが、フォルテ・コルウォ。直訳すれば『鴉要塞』です。この要塞がサン・ジュアン港を守っていたから、オランダ艦隊も入って来れずに、この島がポルトガル領のままでいられたのです」
前方に見えてきた巨大な建造物を指さしつつ、熊野三等書記官が説明する。
火山質の黒っぽい岩を切り出して積み上げた要塞だった。湾口を守る腕のように伸びている小さな半島をそっくり占めており、その造りは火砲の運用と避弾性に優れた低い構造だ。黒々としたその姿は、なるほど鴉が蹲っているようにも見える。
ニッサン・グランドリヴィナが海岸通りを外れ、住宅地に入った。緩い坂を上り、広い邸宅が立ち並ぶ通りに入る。そのうちの一軒が、日本大使館だった。どうやら、中古の邸宅を買い取った物のようだ。旗竿にへんぽんと翻っている日の丸が、高級住宅地で異彩を放っている。
熊野三等書記官の案内で日本大使への挨拶を済ませたAI‐10たちは、大使の許可を得てから外出した。住宅街を抜け、繁華街を目指す。
大統領選挙はまだ公示前だが、街中には各候補の顔をでかでかと乗せた大小のポスターが大量に張られていた。板塀、民家の壁、ガードレール、看板。街路樹にも、ポスターを張り付けた板が何枚も打ち付けられている。
「発展途上国やなぁ」
雛菊が、嘆息気味に言った。
「これなんて、重ね張りしてあるぞ」
ひときわ目立つ交差点に面したコンクリート塀に張られているポスターを、亞唯が指さした。他の候補のポスターの上に、自分たちの候補のポスターを張る、という行為が繰り返されたせいで、重ねられたポスターが日曜日の朝刊くらいの十分な厚みを持っている。
「カオスですねぇ~」
ベルが、笑った。
繁華街に入ると、さらにポスターの密度が増した。
「やっぱり発展途上国なのです! 通りが汚いのであります!」
シオは歩きながら言った。歩道のあちこちに、紙くずが落ちている。
「単なる紙くずとちゃうで、これ。チラシか何かやで」
雛菊がしゃがむと、紙の一枚を拾い上げた。
「おっと。これは……」
雛菊の手元を覗き込んでいた亞唯が、顔をしかめる。
「どうしたのかしら?」
スカディが、訊く。
「怪文書の類やな」
雛菊が、紙をスカディに差し出す。シオとベルも、紙を受け取って読み出したスカディの手元を覗き込んだ。
紙には、青鳩と黄鹿、緑馬と桃猿の四人の大統領候補に関する醜聞が書かれていた。メイアルーア国民同盟候補バジーリオ・スウの公金横領疑惑。メイアルーア民主社会党候補エルネスト・セパグの麻薬常用疑惑。メイアルーア人民民主党候補ナジブ・アルシャッドの女性スキャンダル。そして、メイアルーア自由民主党候補アントニオ・ワルアの脱税疑惑。これらが簡潔にまとめられ、ポルトガル語、インドネシア語、英語の三つの言語で印刷されている。
「ネーヴェ独立党だけないのです!」
シオはそう指摘した。
「ということは、この怪文書の出どころはPIN……のわけはないわね」
スカディが、ひとり突っ込みをする。
「泡沫候補過ぎて、怪文書に載せる必要性を感じなかったんだろうな」
亞唯が、言った。
「落ちてるのは、みんな同じ物みたいやね」
他にも数枚拾い上げて確かめた雛菊が、そう報告した。
「いい紙ですねぇ~。印刷も上質ですぅ~。街中にばらまいたとすると、そうとうお金掛かってますですぅ~」
ベルが、指で紙質を確かめながら言った。
「英語併記というのがポイントね。有権者だけが標的ならば、ポルトガル語とインドネシア語だけで十分なはず。推定だけれども、英語は外国のマスコミ向けなのだわ」
「なるほど! ということは、この怪文書は選挙妨害の一環に違いないのです!」
シオはそう断定した。
「とにかく、これは証拠品としていただいておきましょう。長浜一佐に報告したいわね」
スカディが、毅然たる口調で言う。
「大使館の通信室を使えりゃ早いんだけどな」
亞唯が、首を振りつつ言う。大使以下日本大使館員は、AHOの子たちの正体も、真の任務も知らないのだ。通信機器を使わせてもらえるとは思えない。
「どこかのホテルでインターネットを使わせてもらうのですぅ~。この怪文書だけなら機密事項ではないので一般回線で送れるのですぅ~」
ベルが、そう提案する。
「そうね。その手で行きましょう」
スカディが同意した。今回の任務、支援が得られない分充分な資金……現地通貨で二百万エスクードと、USドルで一万五千ドルを支給されている。適当に見つけたホテルでインターネットを使わせてもらうことなど、造作もない。
「ではホテルを探しましょう」
歩き出しながら、スカディが支給されたイリジウム衛星携帯電話を取り出した。イリジウム携帯でもデータ通信は可能だが、いずれにせよパソコンに接続する必要があるし、転送速度も遅いのでここは素直にホテルでパソコンを借り、怪文書をスキャンしてインターネット経由で送る方がいい。
スカディが番号を入力し、板橋の長浜一佐に掛けた。電波がメイアルーアの路上から七百八十キロメートル上空のイリジウム衛星に届き、それが他のイリジウム衛星にリレーされ、合衆国アリゾナ州にある地上局に到達。そこからランドラインでカリフォルニア海岸へ。太平洋を横断する光ファイバーケーブルに入って日本に送られ、そこで一般のNTT回線を通じ岡本ビルの一室で待つ長浜一佐が座っている机上の電話が鳴る、というひどく回りくどい過程を経て、ようやく一佐が通話に出る。
スカディが、隠語を交えて手短に状況を報告した。
「よろしい。資料は速やかに送ってくれ。こちらから、越川君たちにも渡しておく」
「越川さんの現況はいかがでしょうか」
「出発準備中だ。今夕までには予定通り現地入りする」
スカディの問いに、長浜一佐がそう答える。
手ごろなホテルはすぐに見つかった。亞唯と雛菊がフロントで交渉し、宿泊客なら無料で使えるインターネットコーナーを有料で貸してもらうことにする。
「うーむ。よくわからないぞー」
首都高速湾岸線を西進するホンダ・フィットの後部座先で、畑中二尉は首をひねっていた。
出発直前に長浜一佐から渡された、メイアルーア大統領選挙に絡む怪文書のコピー。畑中二尉はこれをすでに何度も読み返していた。もっとも、さしもの畑中二尉もポルトガル語とインドネシア語は読めなかったから、英語のパートだけだったが。
「どのあたりがよく判らないんだ?」
ハンドルを握る越川一尉が訊いた。ちなみに、一尉は派手な色合いのアロハシャツにサングラスという、リゾート気分満々の格好である。もうひとつ付け加えると、車は越川一尉の愛車である。
「この英語が、外国のマスコミ向けだというスカディの推測は、あってると思うんですよー」
一応上官なので、畑中二尉がいつもよりは丁寧な口調で答える。
「ですが、この程度の噂レベルの醜聞では、先進国はともかく発展途上国では選挙妨害にはなりませんしー。結構金と手間が掛かっている割には、選挙妨害の効果が薄いー。なにか、ちぐはぐなものを感じるんですよー」
「ちぐはぐ、ですか?」
助手席に座る三鬼士長が、首を傾げる。彼女も越川一尉に合わせた、カラフルなサマードレス姿だ。……この三人を傍から見れば、若夫婦の海外旅行に小姑がむりやりくっ付いてきたように見えることだろう。
「そうだー。あたしの見るところ、この英語はかなり高尚な文章だー。ポルトガル語やインドネシア語を単純に英訳したものじゃないだろー。教養ある人物が、書き下ろしたものだと思うー。それと、語調が怪文書らしくないー。もっと、各候補を貶してもいいはずなのに、なんだか大人しいぞー。お役所の事務屋が書いた文書みたいだー」
「ああ、それは俺も思ったな」
越川一尉が、うなずいた。
「なんか固いんだよな。発展途上国の有権者に読ませる砕けた文章じゃない。外国のマスコミ向けに、わざと固くしているのかとも思ったが」
「まあ、その辺は長浜一佐が情報本部の専門家を使って分析してくれるでしょうがー」
手にしたコピー用紙をぴらぴらと振りながら、畑中二尉が言う。
ホンダ・フィットは旧江戸川を渡った。右前方に、ディズニーリゾートのホテル群が見え出す。三鬼士長が、そちらを物欲しげに眺め始めた。
「まあ、この怪文書が例の選挙妨害テロと関係ない可能性もあるしな」
越川一尉が、続けた。
「単に特定候補の票を減らしたい勢力による工作に過ぎないかも知れん」
「あたしの勘は、違うと言ってますー」
畑中二尉が、異議を唱えた。
「こいつら、金持ってますよー。これは第一弾です。すぐに、もっとえぐいのが来ますよー」
「二尉の勘は当たるからなぁ」
越川一尉が、ぼやき気味に言った。
第五話をお届けします。




