第一話
東南アジア東部 メイアルーア共和国 サン・ジュアン市
ジャマル・アドナンは慎重に変装を整えた。
トレードマークとも言える黒縁の眼鏡を外し、たまにしか使わないコンタクトレンズを入れる。服は、派手な柄の開襟シャツと、安物の作業ズボンにした。仕上げに、裏庭に出て花壇の土をズボンに擦り付ける。農園の労働者が、仕事上がりに首都の友人に会いに来た、という体を装うつもりなのだ。
家の中に戻ったジャマルは、泥に汚れた手をタオルでぞんざいに拭った。石鹸で丁寧に洗ったりしたら、変装が台無しになってしまう。
台湾製のICレコーダーと、日本製の小型デジタルカメラをポケットに突っ込んだジャマルは、鏡の前に立ってみた。マレー系としては標準的といえる百六十三センチの身長。小麦色の面長の顔は、色男とは言いがたいがそこそこ整っている。まっすぐな黒髪を手でわざと乱したジャマルは、変装の出来栄えに満足した。これならば、よほど親しい相手でなければ、彼のことに気付かないだろう。……国内で二番目の発行部数を誇る新聞、ハリアン・メイアルーアの名物記者である、ジャマル・アドナンだとは。
家を出たジャマルは、日没直後でまだ熱気がこもっている薄暗い裏通りをしばらく歩いてから表通りに出て、街路樹の下で暇そうに客待ちしていたベチャを拾った。
ベチャは、『三輪自転車タクシー』である。自転車の前輪を外し、代わりに日除け付きの車椅子を取り付けたようなところを想像していただければ、おおよその形状がご理解いただけるだろうか。『運転者を含む駆動部が前にあって、後ろに客が乗る』というスタイルに慣れた目からは奇異に見えるが、このあたりではこの『後輪駆動』方式が一般的である。
ジャマルは手早く料金の交渉を行ってから……今は高給取りの敏腕新聞記者ではなく、低収入の農場労働者を装っているのだ……ベチャの座席に座った。地元民であるアザリ族の青年が、長い脚をリズミカルに動かして大通りを走り出す。
まだ宵の口であり、比較的富裕な層が居住するエストレーラ地区の大通りの交通は多かった。中古の日本車やベモ(乗り合いタクシー)、インドネシア製のオートバイ、自転車、それにベチャが、無秩序な流れを作っている。かなり富裕とは言え、やはり発展途上国である。交通ルールは、無きに等しい。
カバッサ地区に入ると、途端に交通量が衰えた。道路も広い舗装路から、土がむき出しの狭い道となる。街灯の間隔も長くなり、物寂しい雰囲気となった。蝙蝠が、小鳥とは違う敏捷な動きで、低い所を飛び回っている。
目的地に着いたジャマルは、百エスクード札二枚で料金を払った。チップは渡さずに、さっさと歩き出す。二分ほど歩いて待ち合わせ場所の屋台を見つけたジャマルは、腕時計……これも変装に合わせて、安物の中国製をつけている……を見た。まだ七時前だ。ジャマルは歩いてそこを離れた。適当に一回りしてくれば、時間を潰せるだろう。
約束の時間午後七時十二分きっかりに……正時に待ち合わせするのは、待ち合わせしたと周囲に宣伝するようなものである……ジャマルは屋台に入った。
屋台と言っても、日本のラーメンやおでんの屋台とは違い、むしろオープン・カフェに近い形態である。差し掛け小屋のような厨房の前に、安っぽいテーブルとプラスチック製の腰掛が並んでいるだけだ。客は六人だけ。五人で盛り上がっているグループと、独りで食事している男。
その連れのいない男が、皿から視線を上げてジャマルを見た。約束の相手だと見定めたジャマルは、知り合いを装って気さくに手を振って挨拶しつつ、中年の店主に歩み寄って、ミー・ゴレン(焼きそば)とインドネシアからの輸入品であるペットボトル入りの甘いジャスミン茶『テボトル』を注文した。先に手渡されたテボトルだけを持って、男が座っているテーブルに向かう。隅で居眠りしていた薄茶色の痩せた犬が、頭をあげて期待した視線をジャマルに投げ掛けたが、ペットボトルしか手にしていないことに気付き、しょんぼりとして再びうたた寝の体勢に戻った。
「さて。電話では大統領選に絡んだ特ダネだという話だったが……」
腰掛けに尻を落としながら、ジャマルは他の客や店主に聞こえない程度の声で問いかけた。
メイアルーア共和国は大統領制であり、当然大統領選挙が定期的に行われる。憲法の規定では任期は五年。ゆえに、国民議会による弾劾または自主的な辞任、あるいは任期中の死去などが無ければ、五年ごとに大統領選挙が行われる。まだ公示前だが、すでに各政党は候補者を擁立済みで、選挙違反にならない範囲で激しい前哨戦を開始している段階にある。
今回の大統領選挙は、メイアルーア共和国建国以来始めての完全に民主的な選挙となる予定であった。軍部の全面的支持を受け、事実上の一党支配を続けていたメイアルーア国民同盟(PANM)が、選挙法の改正を受け入れ、様々な立候補制限……これがあったために、主要な野党政治家は大統領選に立候補することすら出来なかったのだ……を完全撤廃したのだ。軍部も、今回の選挙に関しては完全中立を宣言しているし、公正な選挙戦が行われるようにASEAN事務局から選挙監視団が派遣される予定である。ちなみに、メイアルーアはASEAN正式加盟国ではないが、オブザーバーの資格で参加している。
「特ダネなのは間違いない」
男が、食べかけのサテ・アヤム(焼き鳥)の串を置いて、これもインドネシアからの輸入品であるミネラルウォーター『アクア』のボトルに手を伸ばした。
「まずは、自己紹介して欲しいんだが」
生ぬるいテボトル……屋台の飲料は、冷やしていないことが普通である……を飲みながら、ジャマルは言った。
「その前に。録音はなしだ。メモは構わんが」
「判った」
男の要求に、ジャマルはうなずいた。だが、ポケットに入っている取材用のメモ帳は取り出さない。友人と食事中にメモを取る農場労働者など、いるわけがない。
……録音はしないよ、録音はね。
ジャマルは顔に出さずに心で微笑んだ。記者は正直であれ、というのがジャマルのモットーである。だが、抜け穴は最大限に利用せよ、というのも、ジャマルのモットーなのだ。
「名前は勘弁してくれ。俺は、ある野党候補者の選挙対策本部の運動員だ……」
そこまで言った男が、口をつぐんだ。店主が、出来上がったミー・ゴレンの皿を持ってきたからだ。両面を焼いた目玉焼きと、トマトやオニオンスライスが添えてある。ムスリムが人口の三割を占める国なので、豚肉はもちろん入っていないし、ラードの類も使っていない。具材は野菜数種と鶏肉、それに小海老だ。
……野党の選挙運動員か。
箸を取り上げながら、ジャマルは男をじっくりと観察した。人種的には、メイアルーア人の約六割を占める純血のアザリ族……メラネシア系だろう。身長はジャマルより十五センチほど高い。肌の色はミルクチョコレートの色。手入れの良さそうなカールした黒髪は、短めだ。まだ若い……二十代後半、というところか。
服装は白い開襟シャツに、安物だがきちんとプレスしてあるスラックス。仕事あがりの独身事務屋が、独りで夕食を掻き込んでいた、といった風情だ。
メイアルーアに野党は四つあり、いずれもが今回の大統領選挙に候補を立てている。彼はどの党の運動員だろうか? 弱小のネーヴェ独立党は除外していいだろう。マレー系ムスリムが支持者の大半を占めるメイアルーア人民民主党でもないだろう。となると、メイアルーア自由民主党かメイアルーア民主社会党の運動員か。
「名前が無いのは不便だな。君をなんと呼べばいいんだ?」
「マリオ、とでも呼んでもらおうか。ともかく、これを見てくれ」
マリオが、折り畳んだ新聞を差し出す。ハリアン・メイアルーアのライバル紙である『ディアリオ・メイアルーア』だ。発行部数第一位の、政府系御用新聞である。
ジャマルは、受け取った新聞を開いた。中に、コピー用紙が一枚挟まっている。
……これは。
印字されている文に素早く眼を通したジャマルは、そのあまりにとっぴな内容に眼をむいた。新聞を閉じてコピー用紙を隠しつつ、マリオに疑わしげな視線を向ける。
「信じがたい話だろうが、事実だ」
いささか上擦った口調で、マリオが言った。
「今度の大統領選挙、茶番もいいところだ。絶対に、阻止しなけりゃならん」
「君は、わたしを担ごうとしているんじゃないだろうな?」
ジャマルは言った。新聞記者である以上、がせネタをつかまされるのは日常茶飯事である。
「あんたを騙す理由がないだろ。別に金を要求しているわけじゃない。あんたに偽情報を与えても、俺が得するわけじゃない」
左手のフォークを振り立てるようにして、マリオが否定する。
「この内容が真実であるという証拠は?」
「実を言えば、それはない」
あっさりと、マリオが認めた。
「だからこそ、あんたに調べてもらいたいのさ。そいつは、俺が偶然選挙対策本部で見つけた書類をコピーしたものだ。用紙や書式は正式なものだし、うちの偉いさんが慌てて金庫にしまい込んだ所からすると、『本物』であることは間違いない。だがひょっとすると、野党陣営を攻撃するために与党が作成した怪文書に過ぎないのかもしれん」
「なるほど。筋は通ってるな」
ジャマルは考え込むふりをしながら、頭上の裸電球を見上げた。明るさに引き寄せられた蛾が、ぱたぱたと翅を震わせながら下手くそなダンスを踊っている。マリオが、釣られたように上を見上げた。
「だが……君は当然野党支持者なんだろ? この文書が本物で、このとおり選挙が行われたとすれば、野党候補が大統領になるわけだ。まあ、君の支持している候補が大統領になるかどうかは判らないが、とりあえず与党候補が負けるなら、ある程度は満足ではないのかね?」
視線をもどしたジャマルは、反発されるのを予期しつつそう言ってみた。
「記者さん。俺が望んでいるのは公明正大な民主選挙だ。その結果、俺が支持している候補が負けても、それが民意ならば受け入れるつもりだ。不正選挙は、その結果がどうであれ認めるわけにはいかないんだよ」
予想通り、強い語調で反論が返って来る。
……選挙運動員というのは、本当らしいな。
「もうひとつ訊いておこう。なぜわたしにこれを渡すんだ?」
「あんたの記事は読んでるよ。はっきり言おう。この国で一番信用できる記者だと見込んでのことだ」
マリオが真顔で言う。
「恐縮だね」
ジャマルはミー・ゴレンをひと口食べた。野良なのか店主の飼い猫なのか、ベージュの猫が一匹、長い尾を揺らしながら二人の足元を悠然と通り過ぎてゆく。
「よし、調べてみよう。このコピー、もらってもいいかな?」
「もちろんだ」
マリオが、テーブルの上の『ディアリオ・メイアルーア』を押して寄こす。
ジャマルはそそくさとミー・ゴレンを食べ終えた。テーブルの上に五百エスクード札を置き、新聞を小脇に抱えて立ち上がる。屋台を出たジャマルは、しばらく通りをぶらついて尾行がないことを確かめた。大通りに出ると、タクシー……今度は本物の、ガソリンで走るセダンである……を拾い、プリメイロ地区にある『ハリアン・メイアルーア』本社の住所を告げる。
『ハリアン・メイアルーア』はポルトガル語を第一公用語とするメイアルーアで、唯一のインドネシア語新聞である。ゆえに発行部数は第二位だが、常に政治的に中立的立場を貫いているので、そのメディアとしての評価は高い。
社に戻ったジャマルは、トイレで手と顔だけ洗ってからノートパソコンを起動させた。同僚や上司がジャマルの普段と異なる農場労働者風の格好に気付いたが、それについて問い質したりする者は誰もいなかった。ジャマルが変装して潜入取材をするのは、よくあることなのだ。
ポケットからデジタルカメラを取り出したジャマルは、隠し撮りしたマリオの映像を呼び出した。彼が上を向いている隙に撮ったものなので角度が悪いが、充分に人相は見て取れる。
「コンスタンサ。ちょっと来てくれ」
ジャマルは、隅の方のデスクで資料整理に追われていた女の子を手まねで呼び寄せた。高校卒業後、インドネシアの大学留学の費用を稼ぐのと、記者修行を兼ねて、ここで働いているまだ二十歳前の女性である。ポルトガルの血が濃く混じったアザリ族の娘で、肌はカフェオレ色をしており、背はジャマルよりも高い。元々はジャマルの助手だったが、大統領選挙が迫ったので、今はそちらの取材班に引き抜かれて働いている。
「なんでしょうか?」
コンスタンサが、愛嬌のある大きな黒い眼を輝かせながら、小走りにやってきた。記者修行の身としては、トップ記者であるジャマルは限りない尊敬の対象なのだ。
「この男、見覚えないか?」
ジャマルは、ノートパソコンのディスプレイに映る男……マリオを指差した。元々物覚えがよく、取材記者にくっ付いて野党陣営の選挙対策本部回りをしている彼女なら、知っているかもしれない。
「ありますよ」
あっさりと、コンスタンサがうなずく。
「どこのどいつだ?」
「PDSM(メイアルーア民主社会党)の幹部運動員ですね。名前は知らないです。調べますか?」
「頼む」
「五分下さい」
……やった! 久しぶりにジャマルのお手伝いができる!
コンスタンサは内心で小躍りしながら自分のデスクに戻った。
まず取材メモを取り出し、PDSMの選挙対策本部に取材に行った日時を確認する。次いで共用パソコンに向かい、自分用の写真ファイルを呼び出す。撮影した写真は、取材日と取材場所ごとに丁寧にファイルしてあるから、探すのは容易だった。サムネイルに眼を凝らし、『男』が映っていそうな写真を勘を働かせて見つけようとする。
……これかな?
コンスタンサは見当をつけたサムネイルをクリックした。
当たり。
ディスプレイに、『男』の顔が大写しとなる。間違いない。ジャマルのパソコンに映っていた男と同一人物だ。
コンスタンサはPDSMの選対本部要員名簿を別窓で呼び出した。取材メモと照らし合わせ、男の名前を特定しようとする。
あった。
コンスタンサは、素早く男の名前をメモした。
マテウス・タモエ。二十八歳。メイアルーア民主社会党員。
……このコピー用紙の中身は本物の可能性が高まってきたようだ。
ジャマルは唇を舐めた。記者としての勘も、本物らしいと先ほどから訴えかけてきている。
だが。
これが本物だとしたら、スクープどころの話ではない。今回の大統領選の行く末どころか、政変にも繋がりかねないネタだ。大統領選挙にまつわる大規模な『不正』で、しかも主要な野党候補全員が加担しているとなると……。
「他にご用はありませんか?」
コンスタンサが、鼻息も荒く訊いてくる。……なんだか、ご主人様が早く棒切れを投げてくれないかと待っている散歩中の飼い犬のようだ。
……この娘は巻き込みたくないな。
ジャマルはそう判断した。この一件、陰謀の臭いがぷんぷんとする。もしかすると、外国の勢力が関わっているかもしれない。軍部が一枚噛んでいる可能性もある。危険すぎる。
「いや、大丈夫だ。なにかあったら、また声を掛けさせてもらうよ」
ジャマルは強いてにこやかにそう告げた。
「そうですか……」
コンスタンサが、ぺこりと一礼して去っていった。後ろ姿が、いかにも寂しげだ。ジャマルは、少しだけ胸の痛みを覚えた。
……だがこれも、コンスタンサのためだ。
ジャマルは彼女のことを高く買っていた。頭もいいし、根性もある。語学にも長けており、まだ若いのに第一公用語であるポルトガル語、第二公用語であるインドネシア語はもちろん、英語を含むいくつかの外国語まで習得しているのだ。いずれ、いい記者になるだろう。今ここで変な事件に巻き込んで、未来を摘んでしまうような目にはあわせたくない。
気を取り直したジャマルは、例のコピー用紙を数枚コピーした。うち一枚を封筒に収め、副編集長のところへ持っていって社の金庫への保管を依頼する。
改めてデスクに腰を落ち着けたジャマルは、メールの作成を始めた。とりあえず、慎重に周辺情報の収集から始めなければならない。記者としての立場上、友人は多い。広く情報を集めれば、この一件の背景がつかめるかもしれない。本格的な取材は、いくつもの安全措置を施してからにした方が無難だろう。
第一話をお届けします。




