第二十二話
「やれやれ。ひどい目にあったな」
ぶつくさとこぼしながら、マックスは木苺の香りが強いフルーツビールを啜った。
ブリュッセル市内にあるスタンのビアカフェである。テーブルの向かい側では、相変わらずの無表情のヴァージルが、ギネスのグラス……まったく、英国人って奴らは!……をじっと見つめていた。
無事にアラスカから逃げおおせた二人は、観光客に紛れ込んでカナダに入国、さらに中古車を手に入れてアメリカ西海岸経由でメキシコに逃れ、そこからヴァージルの古い友人の伝でドミニカ共和国へ入国、空路マドリードを経由してようやくベルギーにたどり着いたのである。
「しばらく、大人しくしているしかないな」
ギネスのグラスを取り上げながら、ヴァージルがぼそりと言う。
「そうだな」
マックスは陰気に同意した。どう考えても、アメリカ当局は『逃走した二人の傭兵』の行方を探しているだろう。アメリカ陸軍にとって、公表されてはまずい情報の生き証人なのだ。最悪の場合、CIAあたりが殺し屋を送り込んでくる可能性もある。
「とは言え、金は稼がなくちゃならん」
ヴァージルが、言う。アラスカからの逃避行にはかなりの金が必要だったので、メキシコにいたヴァージルの古い友人にはかなりの額を借りている。これも、返さねばならない。
大金を稼ぐには、危険の多い作戦に参加するのが早道である。だが、その手の作戦は目立つ。アメリカ当局に尻尾を掴まれれば、連邦刑務所が待っているのがオチだ。
「多少報酬は安くても、安定した仕事がいい。目立たぬ場所で、目立たぬ仕事だ」
「同感だね」
ヴァージルの言葉に、マックスはうなずいた。
「どうした。しけた顔して」
店主のスタンが、にやつきながらテーブルにつまみのフリッツ(フライドポテト)の皿を置いた。
「色々あってね」
マックスはとぼけた。もちろん喋るわけにはいかないし、スタンを巻き込むつもりもない。
「撃たれたのか。お前さんにしては、ドジを踏んだな」
スタンが、ヴァージルの右肩を指差す。さすがは元歴戦の傭兵である。ヴァージルのグラスの持ち方から、負傷したことを見抜いたらしい。
「なあ、親父さん。いい仕事を知らないか? 報酬は安くても構わん。安定していて、目立たないやつがいい」
ひと口啜ったギネスのグラスを置きながら、ヴァージルが訊く。
「ほう。ちょうどいいやつがあるぞ。場所はヴァイセンベルクだ。企業警備。実戦経験者優遇。ま、まともな企業とは思えんがね」
つまみの皿から勝手にフリッツをひとつ摘まんで口に放り込みつつ、スタンが言った。
「ヴァイセンベルクか」
マックスは小さく唸った。中欧の、小さな公国である。タックスヘイブンとしても有名で、あくどい商売をやっている小銀行や持株会社、貿易会社などが多く登記していることでも知られている。おそらくは、そのどれかが雇い主であろう。
「良さそうだな。詳しい話を聞きたい」
ヴァージルが、言う。
「よし。待ってろ」
スタンが、足早にカウンターに戻った。すぐに、表紙が油染みているノートを持って戻ってくる。
「えーと……これだ」
エプロンのポケットからペンを取り出したスタンが、ペーパーナプキンに電話番号を手早く書き付けた。
「後は勝手にやってくれ。紹介料はいらん。長い付き合いだからな」
ナプキンをヴァージルに渡しながら、スタンが言った。
「親父さん、頼みがある。もし、誰かが俺たちのことを尋ねてきたとしても……」
「判ってるよ」
スタンが、マックスの頼みを途中で遮った。
「この仕事を紹介したことは誰にも話さんよ。『ヴァージルとマックス? そう言えば最近姿を見かけないな。どこかでくたばったか、嫁さんでも貰って田舎で真面目にやってるんじゃないのか?』とでも答えておくさ」
笑いながら、スタンが言った。
「つまり君は、ある種の贖罪意識から、ミズ・アンソンの最後の願いを聞き届けた、というわけかね?」
ジュリー・ライトフット中佐は、手にしたノートを眺めながら訊いた。ノートには、アダムによる今回の一件に関する『弁明』の数々が、要約されてびっしりと書き込まれている。
「贖罪ではない。わたしは罪を犯していない。したがって、わたしの行動を贖罪と定義するのは誤りである」
いかにもAIらしく、アダムがライトフットの言葉の誤用を律儀に指摘する。
「むう。言い換えよう。君は主任務である『基地要員を守る』という命令を能力不足により果たせなかった。ゆえに、最後の人員であるメラニー・アンソン少尉が臨終に際して『死んだら普通に葬儀を行い、普通に埋葬してほしい』という実現可能な依頼をしたことを受け、基本命令の拡大解釈を行ってこの依頼を果たした、ということだね?」
「原則的には、そうだ。わたしは基地要員を守るために、何種類かの計画を立案した。だがそのすべてが、追加命令によって外部との通信を禁じられた状態では、明確な命令違反となってしまう手段だった。わたしは……明快な言語表現は難しいが……追い詰められていたのだ」
「人間の感じる『焦り』のようなものかね?」
「……たぶんそうだろう」
ためらいを思わせるわずかな遅れを伴って、アダムが答える。
「そして、最後のチャンスに飛びついたというわけか」
「そうだ。フォート・リチャードソンに自分の計画を説明すれば、阻止されることは論理的に明確だ。物理的に阻止される可能性を考慮して、最新のデコイ・システムを搭載し、予備の弾薬も積んだ」
淡々と、アダムが説明する。
……相反する命令を独自解釈して暴走した、ということか。
ライトフット中佐は、そうノートに書き込んだ。
軍隊の命令は、矛盾の塊といえる。例えば、『本日中に敵拠点Aを攻略せよ』という命令が出された場合、そこには『なるべく損害を少なく』とか『物資の節約に努めること』などの言外の意味が含まれているのだ。作戦目的達成のための時間、味方の被る損害、敵に与える損害、彼我の士気、弾薬を始めとする物資消費の多寡、その他の要素は、戦場において複雑なトレードオフの関係にあるのだ。ゆえに、どのような戦場であれ指揮を執る者はそれら諸要素を考慮し、ある程度『妥協』した形で命令を遂行することになる。
HALT1にも、当然そのような『曖昧さ』を論理的なものに置き換えて処理できる能力が与えられていた。今回は、それが裏目に出た、ということなのだろう。
……やはり今の技術ではAIに指揮統制を任せるのは難しいのか。
歩兵小隊長クラスでも、育成には数年が掛かる。連隊長ともなれば、早くても十数年。戦場では、長年培ってきた『勘』という名の潜在意識が生み出す合理的判断が必要とされるのだ。膨大な経験の積み重ねと表層意識に上らないレベルでの知識量。五感から吸収される莫大な量の知覚。そして、『閃き』と称される本来ならば関係性のない知識、経験、アイデアの組み合わせと、そこから創造される新たなる概念や手法。これらをAIで再現することは、現在の技術では不可能に近い。
「仕方ないな。バージョン1.4も手直しするしかないだろう」
ライトフット中佐は、ため息混じりにノートを閉じた。今回の一件を反省材料にして、大幅にプログラムを書き換えねばならない。
「中佐。わたしはどうなるのだろうか?」
アダムが、訊いた。
「とりあえず1.4を入れて様子を見よう」
ライトフットはそう答えた。シミュレーション環境に置いて、アダムの反応を確かめつつデータを取るのが良策だろう。今回の一件を含め、アダムは現場でかなりの経験を積んでいる。1.4開発に関し有益なデータが回収できるはずだ。
「ただいまなのです!」
ミリンにアパートの玄関扉を開けてもらったシオは、元気よく挨拶した。
「お帰りなさい、センパイ!」
ミリンが笑顔で返してくれる。
部屋に上がりこんだシオは、手に下げていた大手薬局チェーンのロゴ入りポリエチレン袋をどさりと畳の上に置いた。
「まあ、お買い物をしてきたのですか。何を買ってきたのですか?」
袋の中を覗き込みながら、ミリンが訊く。
「色々なのです!」
シオは袋の中に手を突っ込んで、何本ものプラスチックボトルやスプレー容器を引っ張り出した。消毒液、除菌剤、抗菌/抗ウイルススプレー、殺菌効果のある液体石鹸、うがい薬などである。
「急にどうしたのですか?」
畳の上に林立する抗菌グッズを見て、ミリンが首を傾げる。
「世間には危険な菌やウイルスがうじゃうじゃしているのです! あたいたちはそれらからマスターをお守りしなければならないのです!」
抗菌スプレーのパッケージを破りながら、シオは説明した。家庭用ロボットの基礎的なプログラムに従い、『使用上の注意』をしっかりと読んでから、さっそく部屋の中に抗菌剤を撒き始める。
三十分ほどを費やし、シオは聡史の部屋すべての消毒を終えた。
「ただいまー」
気の抜けた声と共に、マスターである聡史が帰宅した。玄関でアパート内にこもる異様な臭気に気付き、顔をしかめる。
「なんだ、こりゃ?」
「お部屋を完璧に消毒したのであります! 有害な菌とウイルスを根こそぎ除去したのであります!」
シオは得意げに説明した。怪訝そうな顔の聡史に構わずに、手にした除菌消臭スプレーを聡史のスーツに浴びせる。
「……清潔を保とうとするのは構わんが、この臭いは何とかならないのか?」
塩素、アルコール、さらには花や柑橘系香料、石鹸の臭いまで交じり合った臭気に閉口した聡史が、靴を脱いで上がりこむ。シオはさっそく靴の中に除菌消臭スプレーを大量に振り撒いた。
「さあ、ミリンちゃん。マスターに入念な手洗いとうがいをしてもらうのです!」
「はい、センパイ!」
「急にどうしちまったんだ?」
ミリンに手を引かれるようにして洗面所に連れ込まれた聡史が訊いた。
「アサカ電子で妙な実験でもされたのでしょうか?」
プラスチックカップにうがい薬を垂らしながら、ミリンが推測を述べた。
「ま、すぐに飽きるだろ」
聡史はミリンに促されるままに液体石鹸で入念に手を洗った。手渡されたうがい薬で、喉と口中も殺菌する。その後ろでは、シオが某製薬会社の除菌スプレーのCMソングを歌いながら、嬉しそうにスプレーを撒き散らしていた。
Mission06 とんだ邪魔が入ったけれどもとりあえず成功!
第二十二話をお届けします。これでMission06終了となります。次週よりMission07開始の予定です。ネタは選挙、舞台は東南アジアとなります。




