第一話
ベルギー王国 ブリュッセル市 マロール地区
目当ての男は、店内の一番奥に壁を背にして座っていた。
……相変わらず用心深い奴だ。
マックス・イェーリングは半ば呆れながら古風な内装のビアカフェに脚を踏み入れた。ここの主人は元傭兵で、セキュリティには気を遣っており、マロール地区……中東系の移民が多く、ブリュッセル市内としてはやや治安の悪いところである……の中ではもっとも安全な場所と言えるのだが。
「よう、MJ。久しぶりだな。イラクに居たんじゃなかったのか?」
カウンターの奥にいた体格のいい老人……スタンが、マックスの姿を見て破顔した。
「最近金にならないんでね」
苦笑しつつ、マックスはカウンターに歩み寄った。
「元気そうだな、爺さん」
「まあな」
スタンが、手早く白ビールを一杯注いだ。レモンスライスをグラスにそっと落とし、マックスの手に押し付ける。
「再会祝いだ」
「すまんね」
マックスはグラスを目の高さまで持ち上げて礼の意思を示してから、ひと口飲んだ。
「仕事を探してるのか?」
「いや。ヴァージルに呼ばれてね」
グラスを持った手で、マックスは店の奥を指し示した。目当ての男……ヴァージル・ハイアットは、最前から相変わらずの暗い目でこちらをじっと見守っている。
「新しい仕事か。まあ、死なない程度に頑張れよ」
スタンが、微笑んで言った。
「ああ。あんたみたいにたんまりと稼いで、その金で故郷でビアカフェを経営するのが俺の夢だからな」
マックスがそう応じると、スタンがさも嬉しそうに笑った。かの有名なフランス人傭兵隊長、ボブ・ディナールの部下をはじめ、二十数年に渡り傭兵生活を続け、何度も死線を潜り抜けたにも関わらず、一度も負傷しなかったという強運の持ち主が、このスタンなのだ。引退時期を誤って悲惨な老後を過ごすはめになる者が多い傭兵業界では、長期に渡って稼業を続けたにも関わらず、その後も逃げ隠れすることなく堂々と事業を行って成功させるというのは、稀有な例と言える。あやかりたい、と本気で思っている傭兵はマックスだけではなかった。
「さて。お呼びにより参上したぜ」
マックスはグラスをテーブルに置くと、ヴァージル・ハイアットの向かい側に腰を下ろした。
ヴァージルは小柄であった。生粋のイングランド人であるにも関わらず、身長は、五フィート三インチ……約百六十センチしかない。百九十五センチのマックスの前では、さながら子供のようだ。常に陰気臭い雰囲気を漂わせており、傭兵仲間では『葬儀屋』という渾名で呼ばれることもある男だ。
だが、ヴァージルの傭兵としての経歴は一流である。元SASであり、その後中東のいくつかの国でVIPの護衛と軍教官を務めた。その後、バルカン半島でいくつかの秘密作戦に参加。SAS時代を含め、実戦経験はマックスよりも多い。『葬儀屋』の渾名には、敵を墓場に送り込むのが得意、という意味も含まれているのだ。
「いい仕事を請け負った。拘束期間は約十日。チームは十名程度。俺があと四人か五人集める。あんたが残りを集めてくれ。寒い所に強い奴がいい。ポーランドの兄弟と、ティッカネンは入れて欲しい」
淡々とした口調で、ヴァージルが言う。ちなみに、喋っているのはドイツ語である。マックスが喋る英語よりははるかに流暢だ。
「ほう。場所はどこだ? まさかロシアじゃないだろうな。あの元KGBの禿に喧嘩は売りたくないぞ」
白ビールを飲みつつ、マックスは言った。
「いや。アラスカだ」
マックスは危うくビールを噴き出しそうになった。
「アラスカ? 何のミッションだ? パイプラインでも吹っ飛ばそうというのか?」
「ある秘密施設がある。そこへ侵入し、ある物を持ち出す。うまく行けば、戦闘はなしで済むだろう」
「秘密施設? まさか、政府施設じゃないだろうな?」
胡散臭げに、マックスは訊いた。アラスカのような地に、民間の秘密施設などがあるとは思えない。
「いや。政府施設ではない。合衆国陸軍の施設だ」
無表情のまま、ヴァージルがさらりと答えた。
「帰る」
マックスは立ち上がった。傭兵稼業で荒事には慣れているが、合衆国陸軍を敵に回したら確実に人生終わるだろう。
「待て。別にワシントンに喧嘩を吹っかけるつもりはない。話を聞け」
ヴァージルにそう言われ、渋々マックスは腰を下ろした。今まで散々、ヴァージルには儲けさせてもらっているし、危うい所を助けてもらったことも再三ある。義理として、話だけでも聞いておくべきだろう。
「報酬は一人五万ドル。俺はチームリーダーとして八万ドル、お前はサブリーダーとして七万ドルだ。諸経費は向こう持ち。支度金も出る。もちろん危険はあるし、た易い任務でもないが、短期間でこれだけの報酬ならおいしい話だ」
「まあな」
マックスは同意した。拘束十日程度で五万ドルなら、たしかにいい報酬である。
「スポンサーはどこだ? 中国か? イランか? それとも北朝鮮か?」
冗談口調で、マックスは訊いた。
「ある民間組織、とだけ言っておこうか。あんたが乗り気になるまではな」
ヴァージルが、口を濁す。
……民間組織ねえ。
どこかの大企業だろうか。あるいは、民間の国際組織か。
「まともな話なんだろうな? 作戦を終えたら口封じ、なんてことにはならないだろうな?」
「裏は取った。スポンサーもまともだし、胡散臭い話でもない」
「その顔と口調で胡散臭くはない、と言われてもねえ」
マックスは苦笑した。言われた『葬儀屋』も、口角を上げてわずかに笑顔を見せる。
「とりあえず、依頼主に会ってもらおう。河岸を変えようか」
ヴァージルが、立ち上がった。
「確かに、スポンサーは金持ちのようだな」
観光客で賑わうブリュッセル中心部の広場、グラン・プラスにほど近い高級レストランの個室のきらびやかな内装を眺めつつ、マックスはため息をついた。もう三十年以上生きているが、これほどの店に入ったのは人生で三度目である。
テーブルの上には、控えめに料理が並んでいた。パテとチーズの盛り合わせ、チコリとアスパラガスのサラダ、スライスしたハムと鴨肉、ワイン蒸しのムール貝、帆立のソテー、鰊のマリネ。飲み物は豊富で、サイドテーブルの上には多種類のアルコール飲料とソフトドリンクの類が乗っている。
ヴァージルが赤ワインのデキャンタを選んだ。二つのワイングラスに注ぎ入れて、ひとつをマックスに押して寄越す。
ほどなく、ノックの音がした。黒光りする木製の扉が開き、二人の人物が入って来る。黒いスーツ姿の細身の若い男性と、三十過ぎと思われるがなかなかきれいな女性……こちらはベージュのパンツスーツ姿だった……のペアだ。
「お待たせしました」
スーツ姿の男性が英語で言って、マックスに軽く頭を下げる。女性の方は無言のまま、テーブルに座った。ヴァージルがグラスを二つ出し、ワインを注いでやる。
「紹介しよう。ミズ・ヒルダ・ノウルズと、ミスター・ブランドン・メラーズだ。作戦の概要は、お二人に説明してもらう」
ヴァージルの様子からして、この三人はすでにかなり長時間一緒に過ごし、それなりに信頼関係を築いているものだとマックスは見て取った。
「始めまして、ミスター・イェーリング」
堅苦しい調子で、ブランドン・メラーズが切り出す。
「マックスでいい。あるいは、MJでも。傭兵仲間じゃ、そう呼ばれていた」
「では、わたしのこともブランドンとお呼びください。作戦の概要を手短にお伝えします。標的は、アラスカ州北部にあるアメリカ陸軍施設、クロフォード基地。元々は合衆国空軍のレーダー施設でしたが、冷戦の終結とともにその役目を終え、いったん閉鎖されましたが、陸軍が寒冷地用装備の試験に使用するとの名目で、移管が行われました。しかしながら、現在そこで行われているのは、生物兵器の攻撃に対する対抗手段の研究です。もちろん、極秘で」
「ほう」
「納税者に黙っているのは不正義ですが、生物兵器に対抗する手段の研究ならば、特に問題はありません。生物兵器の作成も行われているようですが、これも生物兵器禁止条約の枠内で行われるならば、問題とはなりません」
「BWC(生物兵器禁止条約の略称)か。誰も守っちゃいないがな」
ワイングラス片手に、ヴァージルが口を挟んだ。
「ロシアに中国。イランにパキスタン。南アフリカにキファリア。北朝鮮にREA。これらがすべて締約国なのだから、笑えるわね。参加していないイスラエルは、正直で好感が持てるわね」
ずっと黙っていたヒルダ・ノウルズが薄く微笑みつつ言った。……言葉に訛りがある。以前に傭兵仲間にいたオーストラリア人に近い発音だ、とマックスは気付いた。
「その基地……実際には、研究施設に過ぎませんが……には、我々の同調者がいました」
ブランドンが、続けた。
「我々?」
マックスは、軽く首を傾げてブランドンとヒルダを順番に眺めやった。
「わたしとヒルダが属する民間組織です。今は、名を秘させていただきますが。……ともかく、その同調者から驚くべき情報がもたらされたのです。クロフォード基地において、明白にBWC違反レベルの生物兵器研究が行われている、と」
……七万ドルは安すぎる仕事じゃないか、これは。
マックスは、ちらりとヴァージルを見やった。ヴァージルは、黙ってワインを啜っている。
「具体的には、出血熱のウィルスに遺伝子操作を行い、より制御し易いウィルスを作り出そうとしていた模様です」
「出血熱……エボラか?」
怖気をふるいながら、マックスは訊いた。
「いいえ。エボラではないわ」
ヒルダが、短く答える。
「より強力なウィルスを作り出そうとしていたのか?」
「違うわ。発症率が高く、かつ二次感染が起こりにくいウィルスを作り出そうとしていたようね」
ヒルダが言う。どうやら、彼女の方が生物兵器には詳しいらしい。
「二次感染が起こりにくい? それじゃ、兵器としては弱化してるんじゃないのか?」
「生物兵器の本来の目的を忘れてもらっては困るわ。良い生物兵器とは、化学兵器のように戦術目的で使用し易い物のことよ。前線の敵に撒布し、高い発症率で敵兵を倒し、軍の機能を麻痺させる。前進する味方の兵士には感染せず、民間人への被害も最小限に抑える。これが、本来求められている優れた生物兵器よ。二次感染力が強ければ、使用が難しくなるわ」
「なるほど」
「クロフォード基地で行われていたのは、ペルー出血熱のカラヤ株に対する遺伝子操作。ちなみに、出血熱と呼ばれているけど、パニック映画に出てくるような全身から血を流して死ぬような患者はめったにいないわ。有名な、エボラのザイール株でもね。ペルー出血熱の特徴は、悪化すると脳炎を伴うこと。この状態になったら、まず命は助からないわ。同調者によれば、患者の体液内のウィルスが弱化するような遺伝子操作を行って、二次感染のおそれを減少させるとともに、呼吸器系からの感染を確実にするように調整していたらしいわ。こうすれば、ウィルスをエアロゾル状にして撒布し、一度に大量の患者を生じせしめることができる。そして、二次感染が少ないから簡単に終息させられる。戦術兵器としては、打ってつけだわ」
身の毛のよだつようなシナリオを、ヒルダが冷静な口調で説明する。
「そのウィルスを、俺たちに盗ませるつもりなのか?」
半ば呆れて、マックスは訊いた。合衆国陸軍基地ならば、それなりに防備も固いだろう。それを、わずか十人程度の傭兵で襲ったら……戦車に拳銃一丁で立ち向かう方が、まだ勝ち目があるだろう。運が良ければ、ハッチから頭を突き出している戦車長の眉間に一発ぶち込めるかも知れないのだから。
「まあ待て。今、クロフォード基地は閉鎖状態なんだ」
チーズに手を伸ばしながら、ヴァージルが言った。ブランドンが、うなずく。
「我々は、同調者に形質転換を行ったウィルスのサンプルと研究資料の持ち出しを依頼しました。目的は、合衆国陸軍と政府に対する告発です。一連の行為は明白にBWC違反ですし、戦争に使いやすい生物兵器を遺伝子操作によって作り出すことなど許されるべきではありません……」
「確かにそうだが、アメリカだけを攻撃しても益はないだろう」
マックスはそう反駁してみた。
「もちろん、今回の我々の企ては、アメリカ一国だけを糾弾するものではありません」
ブランドンが、説明する。
「かのアメリカですら、このような研究を秘かに行っていた、という事実を全世界に公表し、他の国家に対する牽制とするとともに、世界中の人々に遺伝子操作の危険性を再認識させることが目的です」
「なるほど。で、閉鎖状態と言ったが……」
「同調者から連絡が入りました。生物学的な漏出事故があった模様です。基地の総責任者である所長と警備隊長が正規の手順に従い、閉鎖措置を行いました。今現在クロフォード基地は、完全に閉鎖されています。合衆国陸軍でも、近づくことはできません」
「どういうことだ?」
マックスは訝しげに問うた。
「クロフォード基地では、バイオセーフティレベル4……古い言い方で言えばP4レベルの実験が行われていました。アラスカ北部という僻遠かつ寒冷の地が選ばれているのも、細菌やウィルス封じ込めのためです。そして、そこの警備は経費節減を名目に主にロボットによって行われていました。外部からの攻撃などの緊急時には、所長権限で軍用ロボットによる基地の完全閉鎖が可能になっていたのです。事故発生によって、同調者は死の危険に晒されたと思われます。彼は、この事故により我々にウィルスを渡し、合衆国政府を告発するという計画が失敗することをおそれ、所長に基地閉鎖を行わせたのです。……最高レベルの完全閉鎖を」
「最高レベル?」
「保管している生物兵器用ウィルスや細菌を合衆国の敵に悪用されないための、最高レベルの閉鎖です。これを行えば、仮に合衆国大統領が直接赴いても閉鎖を解除することは不可能です。解除する方法はふたつ。内部の者がマニュアルで閉鎖解除を行うか、事前に設定された解除コードを使用するか、です。合衆国は無線でクロフォード基地と連絡を取ろうと試みていますが、応答はありません。すでに、基地の要員は研究員、警備の軍人を含めすべて死亡しているものと思われます。陸軍によってロボットによる進入も試みられたようですが、失敗に終わっています」
「で、それに俺たちがどう関わるんだ?」
「同調者は、死ぬ前に我々に解除コードを秘かに送信していたのです。これを使用すれば、軍用ロボットに阻止されることなく安全にクロフォード基地に侵入し、同調者が準備したウィルスのサンプルと研究資料を持ち出せます。ですが、基地内に指揮系統に外れたロボットがいる可能性は否定できません。それゆえに、護衛が必要なのです。それを、あなた方に依頼しようというのですよ」
ブランドンが言って、マックスに期待を込めた視線を向ける。
マックスは、ヴァージルを見やった。とても成功しそうにない作戦だが、ヴァージルが乗り気になっているのならば、それなりに勝ち目があると計算済みなのだろう。
「ロボットどもが大人しくしていてくれるのであれば、問題はない。防護服などは彼らが準備してくれる。陸軍は基地を常時監視しているわけじゃない。うまくやれば、俺たちが侵入したことにすら気付かないだろう」
淡々と、ヴァージルが言う。
「解除コードが効かず、ロボットが抵抗したら、どうする?」
「諦めて引き上げます。報酬は、半額になりますが」
ブランドンが、小さく肩をすくめた。
「どうしても、サンプルと研究資料が必要なのよ。クロフォード基地のことをただ単純に世間に公表しただけでは、陸軍は証拠隠滅のためにすぐさま基地を破壊し、ノーコメントを貫くだけでしょう。そしておそらく、数週間後には基地の放棄が決定され、破壊命令が下されるはずだわ。なんとしても、その前に物的証拠を持ち出さねばならないのよ」
ヒルダが、熱心な口調で言った。
「どうだ?」
ヴァージルが、マックスを見つめる。ナイン、とは言わせてもらえない眼つきだ。マックスは、降参のしるしに両掌を顔の前に出した。
「わかった。乗るよ。ただし……」
マックスは、半ば身を乗り出すようにしてヒルダとブランドンを見据えた。
「あんたらがまともな連中だという確証が欲しい。実はイスラム原理主義者で、このウィルスをタイムズ・スクエアでばら撒く計画でもなく、どこかの頭のいかれたエコ・テロリストでイルカとオランウータンのために世界の人口を少しばかり減らそう、と考えているのでもなく、手に入れたウィルスをキムチ臭い半島の三代目に転売して儲けようと企んでいるのでもないことを、な」
「いいだろう。彼女に会わせてやってくれ」
ヴァージルが、珍しく笑みを浮かべて言った。うなずいたブランドンが立ち上がり、扉を開けて出てゆく。
ほどなく戻ってきたブランドンは、一人の女性を伴っていた。赤味がかった豊かな金髪の、すらりと背の高い女性だ。人目を惹く美しい顔立ちと、浅黒い肌。
テレビ、新聞、雑誌、インターネット、その他の媒体で頻繁にお目にかかる顔だった。世界的な環境保護団体、『シーグリーン・ボート』の広報部長、マリア・クララ・ウェストファーレンだ。
「あんたらがスポンサーか!」
マックスは驚くとともに、納得していた。反戦、反軍活動を行い、なおかつ遺伝子操作にも反対しているSGBなら、遺伝子操作で戦術兵器として改良されたウィルスを目の敵にするのは、当然だろう。彼らのような過激集団ならば合衆国に喧嘩を売っても、不思議はない。
「始めまして、ヘル・イェーリング」
マリア・クララがマックスの手を取り、まずまずのドイツ語で挨拶した。出身はブラジルだが、先祖はドイツ系移民なのだ。
「言うまでもないことだけど、SGBの関与は極秘よ。作戦が成功しても、合衆国政府と陸軍に対する告発は、他のNGOに行わせるわ。いいですわね」
「ああ。もちろんだ」
マックスは請合った。傭兵だから、反軍活動を行っているSGBに対してよい感情は持ち合わせていないが、スポンサーとしては信用できるだろう。少なくとも、金払いはいいし、手に入れたウィルスを悪用することもあるまい。
「決まりだな。では、成功を祈って乾杯しようか」
ヴァージルが、クリュッグ・ビンテージのボトルの首を掴んだ。
第一話をお届けします。




