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六十八歳の執事に恋した伯爵令嬢ですが

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/11/01

 六週間後の金曜日に退職するのだと告げたあとも、ウォルターはいつもどおりに紅茶を注いだ。エレノアは持ち上げかけたカップを皿へ戻した。まだ朝食のパンも半分残っている。退職という言葉だけが食卓の上で収まりを失っていた。


「兄は知っているのですか。六週間では次の人を探すにも短すぎるでしょう」


「旦那様とは以前からお話をしております。後任はオーウェンが務めますので、今日の午後に皆にも伝える予定です。お嬢様にはその前に申し上げておこうと思いまして」


 窓に近い彼の髪が朝日に白く透けていた。横顔も袖口から出た指も昨日と同じなのに、六週間後には屋敷からいなくなるという。エレノアはひざの上で両手を組み直した。右の中指にできたペンだこを左の親指で押すと、ようやく次の質問が出てきた。


「そのあとはどちらへ。娘さんのお宅に移られるのですか」


「王都の西側に家を買いました。娘の店にも近いので、必要なものは自分で運べます。庭はありますが屋敷の花壇ほど広くはありませんから、草取りに追われずに済むでしょう」


 そこまで決めていたのかと思った。朝は何時に起きるのか、食事は一人で取るのか、雨が降った日は何をするのか。知りたいことがいくつも浮かんだが、どれを尋ねても彼の暮らしへ踏み込む口実にしかならない気がした。仕事を辞めた彼を訪ねる理由を、エレノアは持っていなかった。


「でしたら私と結婚していただけませんか。退職後の暮らしについて、少しお話ししたいのですが」


 ウォルターは茶器を載せた盆を持ち直した。カップの底に茶葉が一片沈んでいる。彼の目が自分に向けられていると分かっても、エレノアはその茶葉から顔を上げられなかった。結婚という言葉を口にするより前に言うべきことがあったはずだ。


「申し訳ありません。好きだとお伝えするところから始めるつもりでした。急に退職のお話を聞いたものですから、順番を間違えました」


 盆が脇の卓へ置かれた。ウォルターは食卓から一歩離れた場所に立っている。エレノアの顔を確かめるように見てから、視線を手元へ落とした。答えを考えている時間を邪魔しないように、彼女は唇を結んだ。


「お返事をするまで、こちらを辞める日までお待ちいただけますか。今の私は明日もお嬢様の朝食を整える立場です。お断りすればお気まずいだろうとか、お受けすれば旦那様へどうお伝えしようとか、そちらのことから考えてしまいます」


「待ちます。退職を取りやめてほしいというお願いではありませんから、その準備は進めてください」


 告白した相手の退職を自分で勧めている。何ともおかしな朝食だが、ようやく彼を見られた。淡い青色の目は困ったように細められていたものの、笑い飛ばす気配はなかった。ウォルターはいつもより長く頭を下げ、温かいうちに召し上がってくださいと言って食堂を出た。


 パンをちぎって口に入れると、すっかり冷めていた。これから彼が手配した馬車で製本所へ行き、帰宅すれば彼に迎えられる。そのたびに今の言葉を思い出すのだろう。エレノアは一度額を押さえたあと、残りのパンを食べた。空腹のまま職人の支払いを計算して間違えるわけにはいかない。


 翌週の午後、取引先の都合で帰宅が早まったエレノアは使用人の休憩室の前で足を止めた。開いた扉の向こうにウォルターが座っている。手にしているのは屋敷の客用とは違う厚いカップだった。彼が立ち上がろうとする前に、エレノアは扉を軽くたたいた。


「ご用はありません。製本所から戻ったところです。お茶を飲んでいらしたのなら、そのままで」


 ウォルターは椅子を引きかけた手を止めた。許しを得て向かいに座ると、彼の茶にはミルクが入っていた。茶色より白のほうが目立つ。エレノアが毎朝飲む濃い茶とはずいぶん違っていた。


「いつもそうして飲むのですか。私のお茶には入れないので、あなたもお嫌いなのかと思っていました」


「薄くしてミルクを入れるほうが好きなのです。お嬢様のお好みでいれると、私には苦すぎます。砂糖を足しても苦いものは苦いままですから」


 言われてみれば同じ茶を飲んだことがなかった。彼は茶をいれてくれる人で、自分が席にいる間は立っていた。四年も同じ家にいたのにカップ一杯の好みを知らない。エレノアは彼の手元を見てから、自分のかばんをひざに置いた。


「退職されたら音楽会へお誘いしようと思っていました。よく演奏会の手配をしてくださるので、お詳しいのかと。こちらも私の勘違いでしょうか」


「席の取り方には詳しくなりました。ただ、休みの日まで正装して二時間座っているのはどうも。せっかくお誘いいただいたのに申し訳ありません」


 彼は謝りながらカップの横にあった紙を裏返した。上の端にかぶの絵がある。客の席次表でも請求書でもなく、種苗店の目録だった。かばんから出しかけていた演目表をしまうと、エレノアはその絵を指した。


「それはお好きなのですね。お庭には何を植えるご予定ですか」


「かぶと豆を考えています。あとは葉物を少しと、にんじんも。種をまく時期をずらせば収穫も楽しめると書いてあるのですが、思ったより場所が要りそうでして」


 目録には細い字で書き込みがあった。庭の寸法らしい数字の下に幾本もの線が引かれ、その余白にも野菜の名が並んでいる。彼は線の一本を指でなぞりながら、塀際の日当たりについて考え始めた。仕事を相談するときと同じ真剣な顔である。


「お上手なのですか。屋敷の庭師に聞いておいたほうがよろしいこともあるでしょう」


「いえ、これから覚えます。庭師には欲張りすぎだと言われました。種を買う前に聞いたので、まだ間に合うのですが」


 エレノアが笑うと彼の口元にも笑みが浮かんだ。目尻のしわが深くなり、ひざに置いていた手が目録の角を押さえた。その指に触れたくなって、彼女はかばんの留め金へ自分の指を戻した。ずっと前から同じことをしているのに、告白したあとでは隠しきれない気がした。


 王都へ来たばかりのころ、製本の大口注文を取り逃がしたことがあった。二十八歳のエレノアは母から継いだ店なら何とか守れると考えていたが、紙の値上がりを価格に入れる交渉で失敗した。屋敷へ帰った夜は励ましの言葉に返事をするだけで疲れ、翌朝も仕事へ出る気になれなかった。そこへ彼が普段どおりの顔で、馬車を何時に回すか尋ねたのだった。


 出かける予定はなかったが、問われて九時と答えた。朝食の希望も聞かれて卵料理を頼み、結局それを食べて出勤した。失敗の話は彼女が自分から持ち出すまで尋ねられなかった。その後に意見を求めると、彼は支払い期限と納品日を確かめてから無理な注文は断るべきだと答えた。


 それから相談することが増えた。いつも賛成してくれるわけではなく、彼女が不機嫌になっても意見は変えなかった。好ましく思うようになったのは、いつの会話からだろう。思い返そうとすると仕事の話より、茶器を片付ける彼の横顔や低い声ばかりが出てきた。


「お嬢様、何かお気に障りましたか。ずいぶん長く黙っておいでなので」


「四年前のお話を思い出していたのです。あのころもあなたに注文の断り方を教わりました。音楽会を断るほうは、もっと簡単でしたね」


 ウォルターは口元に手を当てたが笑いは隠せていなかった。エレノアは彼の休憩が終わる前に席を立った。廊下へ出てからかばんを開くと、演目表の角が折れている。彼女はそれを伸ばし、今度劇場へ行くときは兄に声をかけようと考えた。


 リュシアンの書斎へ行ったのはその夜だった。結婚の返事はまだもらっていなくても、同じ屋敷で働く相手に求婚した以上は兄に伝えておくべきだ。そう考えて訪ねたのだが、彼は眼鏡を外したあともしばらく書類を見つめていた。やがて紙を机に置き、向かいの椅子を指した。


「ウォルターと聞こえたが、うちの執事のことか。彼は六十八だったな。求婚したというのは、お前が彼にしたんだな」


「ええ。返事は退職まで待ってほしいと言われています。兄様に何かしていただこうと思って来たわけではありません。ただ、知らずにいたら困るでしょうから」


 兄はいつになく慎重に眼鏡をたたんだ。製本所の数字を示すようには話せず、エレノアは自分で書いてきた紙を出そうか迷った。かばんの中へ手を入れると、折った端が指に当たった。


「住まいは彼の家を見てから決めようと思っています。私は今の仕事を続けるつもりですし、貯蓄もあります。家事なら人を頼めますから、彼にご負担をかける必要はありません」


「彼はそれを望んでいるのか。引退したあとまで家に使用人が出入りする暮らしを、本人がしたいと言ったのか」


 紙をつかんだ指が止まった。まだ相談はしていないと答えると、兄は椅子に深く座り直した。怒っている顔ではなかった。エレノアの手元へ一度目を向け、また彼女を見た。


「お前が仕事を続ければ帰りの遅い日もある。彼なら家で食事を整えて待つだろうし、疲れているお前を休ませるだろう。私は彼を四年雇ってきたから、そうするところが想像できる。夫になっても同じではないかと心配なんだ」


「私のために働いていただきたいわけではないわ。もうお会いできなくなるのが嫌だったの。屋敷にいれば明日も会えると思って、ずっと何も言えずにいたから」


 兄は机の端を指でなぞり、窓の外へ顔を向けた。普段より深いしわが眉間に寄っていた。貴族の娘と平民の結婚はルーヴェル王国の法に触れない。彼女には継ぐ爵位もないが、兄が気にしているのは婚姻届の書き方ではなさそうだった。


「彼にはお前の人生の続きを約束しきれない。仮にお前が私の年齢になったとき、彼はもう七十四だ。それを分かっているかと聞けば分かっていると答えるだろうが、私はどうしても気になる」


「数字は分かっています。それをお話しできているかと聞かれたら、まだできていないわ。私から言い出したことなのに、知りたいことも話さなくてはいけないことも残っています」


 すぐに認めてほしいと言うつもりで来たのだった。しかし彼本人とも話していないことに、兄だけをうなずかせても仕方がない。エレノアはかばんの口を閉じ、また話しに来ると告げて立ち上がった。兄は引き止めず、彼を困らせるような命じ方はするなとだけ言った。


 イリスが屋敷を訪れたのは三日後だった。父の私物を少しずつ運んでいるというので、エレノアは箱を積んだ馬車が出るまでの間に茶へ誘った。赤褐色の髪をまとめた彼女は向かいに座ると、父と同じ青い目でエレノアを見た。父から聞いておりますと先に言われ、用意していた説明が口の中でつかえた。


「驚かれましたでしょう。私のほうからもお話ししておきたかったのです。ご不快でなければ、あなたがどうお考えか教えていただけませんか」


「驚きましたよ。私より八つお若い方ですし、父が結婚の話を持ち帰るとも思っていませんでした。けれど私が気に入る相手を父に選ばせるのも違うでしょう。父にだって、父の都合がありますから」


 イリスは勧められたクッキーを一枚手に取ったが、すぐには食べなかった。割れないように皿の上へ戻し、どこから話そうかという顔で窓を見た。商売の話ならこんな間は置かない人だろう。エレノアは自分のカップに触れずに待った。


「私は菓子店をやっています。父は店に来ると客の皿を片付けようとするんです。お茶を飲みに来たんだから座ってと言っても、私の手が離せないともう動いている。助かる日もありますが、父が何しに来たのか分からなくなる日もあります」


「それでは休みになりませんね。結婚したら私にも同じことをするのではないかと、兄にも言われました」


「どうしても頼まれてしまうんですよね。できると知っているから、こちらも頼みたくなる。私もやりますから、人様にばかり気をつけてとは言えません。父が疲れたと言ったときに私まで驚かないようにしなくてはと思っているんです」


 エレノアは彼が座っている場面を数えようとした。先日の休憩室、その前はいつだったか。玄関で帰りを待っている姿ならすぐに出てくる。彼女の考える一緒の暮らしにも、帰宅した自分を迎える彼がいた。


「結婚のことを、イリスさんとお呼びしてお話ししてもよろしいですか。私も名前で呼んでいただけたら。お屋敷の話をしているようになってしまうので」


「ええ、エレノアさん。父にはもう返事を待つと言ってあるんでしょう。それなら引っ越しの荷物でも見にいらっしゃいませんか。次の休みには私も家へ行きますから、父に聞いておきます」


 その申し出には礼を言って、父親が望むならと付け足した。イリスは今度こそクッキーを食べ、おいしいけれどうちの店ならもう少し焼くと言った。茶のあとは馬車まで見送り、エレノアは部屋に戻った。かばんに入れたままの手配書を取り出し、相手のいない時間に決めていた予定を読み返したあとで引き出しへしまった。


 小家を訪ねたのは退職まで三週間となった休日だった。ウォルターから招きの手紙を受け取り、イリスとともに馬車で向かった。窓から見える王都の建物が低くなり、製本所への道と分かれた先に石塀が続く。通勤にかかる時間を数え始めてから、エレノアはまだ住むと決まったわけでもないと自分に言い聞かせた。


 玄関を開けたウォルターは茶色の上着を着ていた。首元に制服の堅い襟がないだけで、のどからあごにかけた線がいつもより近く見える。あいさつをする間に目がそこへ向かい、エレノアは持ってきた箱の位置を直した。中身はイリスが馬車に積んだ食器だった。


「この箱は台所へお願いします。重くはありませんか。私は先に奥の窓を開けてまいりますので、どうぞ上着をお脱ぎください」


「箱の置き場所だけ教えてください。上着は自分で掛けられますし、今日は荷物を運ぶために来たのですから」


 彼は客を迎える手順を止め、台所を指した。エレノアはイリスと食器を棚へ入れたあとで居間へ戻った。小さな暖炉の上に女の人の肖像があり、その前に何も入っていない花瓶が置かれている。イリスに尋ねると母のマーサだと教えてくれた。


「母のマーサです。十二年前に亡くなりました。父の荷物をまとめていて、これは先に運んでおこうと話したんです」


「お母様はこのお顔をなさっていたのですね。あなたとは口元が似ています。お花はまだ置かないのですか」


 イリスは自分の唇に指を当ててから、庭に植えたものが咲いたら入れるのだと答えた。エレノアは肖像の顔をもう一度見た。結婚の話をしたからといって、この人がいなかったことになるわけではない。花瓶を隅へ寄せたりせず、箱から出てきたもう一つの花瓶は棚へ入れた。


 居間の窓際には一人用の机が置かれていた。奥の角なら壁が風よけになり、暖炉にも近い。エレノアはそれを指摘しながら椅子を動かし、ウォルターに端を支えてもらって机を壁際へ寄せかけた。ここに本棚を置けば便利だろうと話しているうちに、彼の手が止まった。


「その場所では庭が見えなくなります。窓のそばで目録を読むつもりで、この幅の机を選んだのです。寒いと分かったら動かしますが、まずはこちらで使ってみたいのですよ」


 机に置かれた手の節が白くなっていた。エレノアはすぐ手を離したが、口からは窓を厚い布で覆えばよいという言葉が出かかった。それでは庭も見えない。結局彼の希望より自分の思う快適さを先に置いていた。


「すみません。ここでは暖炉の熱が届かないかと思ったのです。掃除や食事のことも、人を頼んだほうが楽だろうと考えていました」


「必要でしたら自分で頼みます。長いこと仕事をしてきて、休みに何をするかもあまり考えずに暮らしていました。今度は自分で決めてみたいのです。うまくいくかは分かりませんが、まだ何も始めておりませんから」


 イリスは運び終えた箱を重ねていた。店へ戻る時刻だと言い、近いので歩いて帰ると上着を取った。エレノアには父と話が済むまで馬車を待たせておけばよいと伝えた。見送りから戻ってきたウォルターに、彼女は動かしかけた机をどうしたらよいか尋ねた。元の場所へ戻すのを手伝うと、木の脚が床の跡に重なった。


「椅子も戻しますね。そこへ座って庭を見たいというお話を、最初に聞けばよかったのに。あなたの家を見に来たのですから」


 ウォルターは向かいの椅子を勧めて自分も座った。ずっと立っていたあとのように背を伸ばし直し、ひざの上で片手をもう片方の手に重ねる。その仕草を見ると自分の言い分を急いで説明したくなったが、エレノアは待った。窓の外では馬車の車輪のそばで御者が足を動かしていた。


「私も今のうちにお話ししなくてはなりません。お嬢様と三十六年違うというのは、暮らすうちに忘れられる差ではないでしょう。今もお嬢様と同じようには歩けませんし、夜更かしをした翌日はつらくなります。この先はもっと手を借りることが増えます」


「ええ。今日もあなたが腰を伸ばしていらしたのは見ました。気にしないとは言えませんし、私にはどこまでが無理なのか分からないこともあります」


 彼は目を伏せたまま続けた。外から馬の鼻を鳴らす音が聞こえ、エレノアはひざの上で手を重ねた。


「あなたのほうが長く残ることになるかもしれません。私には妻を亡くしたあとの十二年がありますから、それを考えると今すぐお受けしますとは申し上げられないのです。あんな思いをする人を増やしてよいのかと考えてしまいます」


「私も嫌です。あなたが先に亡くなるかもしれないと思うと怖いし、一人になることを平気だとも言えません。結婚したいと言ったあとで、こんなことまで言ってよいのか分かりませんけれど」


 彼の手に触れたくなったが、それで返事を求めるようになるのは避けたかった。エレノアはひざの上で指を伸ばした。窓の光が彼の頬にかかり、目元に落ちた影が濃くなった。四年前に出会ったときから老齢の人だった。その横顔が好きだったし、今も近くで見ていたい。


「ただ、怖いから会うのをやめたいとは思えないのです。ここに住めたらと来る途中で考えました。そう思っていることは伝えたかった。でも今日結論を出してくださいという意味ではありませんから、約束どおり待ちます」


 ウォルターは口を開きかけて閉じ、それから礼を言った。帰りの馬車まで送るという申し出は受けた。エレノアは上着を着て、動かした椅子をもう一度机の前へ寄せた。扉を閉める前に振り返ると、彼は戸口の内側から手を上げた。


 翌日からエレノアは製本所へ通った。決めなくてはならない紙の仕入れがあり、職人に見てもらいたい見本もあった。昼食を取る時刻を逃した日に彼なら何か運んできただろうと考え、自分で通りの店へパンを買いに出た。屋敷に戻っても引っ越しの日の続きを持ち出さず、仕事の進み具合を聞かれればそれを答えた。


 夜の帰宅が遅い日にはウォルターでなくオーウェンが玄関にいた。最初は出迎えに慣れない間があったが、二度目には翌朝の馬車の時刻を確認された。エレノアの答えを帳面に書き、聞き返したりもしない。後ろの控えの間でウォルターが別の使用人に書類を渡しているのを見て、彼女はそのまま階段を上がった。


 退職まで一週間となると食卓の給仕も後任が受け持つようになった。朝の茶は変わらず濃く、砂糖の器はエレノアから離れた場所に置かれる。窓から日の差す場所にも別の人が立っていた。以前と同じ手順で食事は進み、兄は食後の予定を尋ね、彼女は製本所へ出かけた。


 部屋で一人になると手紙を書きかけた。訪問した日の礼だけならもう口頭で伝えてある。結婚の返事は急がないと言い直すのも、かえって急かすようだった。新しい便せんを無駄にしないように下書きの裏を使ったが、三行目で止まった。


 当日の朝は雨になった。食堂へ来たウォルターは彼女の外出時刻を確認し、朝のうちに荷物を積み終えると言った。エレノアは午前の用事を済ませれば昼には戻れると伝えた。出発は午後なのだから引き止める理由はないのに、パンを口へ運ぶのがいつもより遅くなった。


「お戻りはお急ぎにならないでください。お仕事が終わってからで間に合います。道が混んでおりましたら、午後にお別れを申し上げられなくても」


「お昼には戻りますよ。私の用事が長引いたら先にお食事をなさっていてください。それはオーウェンにも伝えておきます」


 ウォルターは一度だけ口元を緩めた。雨で色の濃くなった玄関の石を見ながら、エレノアは馬車へ乗った。頭の中で今日の用件を順番に並べたのに、そのたび最後に彼が屋敷を出ていく姿が付いてくる。製本所に着いてからは上着を脱ぐより先に帳簿を開いた。


 予定どおり昼に戻ると彼は執事室にいた。机の横にオーウェンが立ち、開いた帳簿の端に指を置いている。エレノアは扉の前で待ち、二人の確認が終わるのを見届けた。ウォルターが最後に帳簿を閉じると、机を離れる支度はもう済んでいた。


「こちらの鍵もお預けします。残しておくものはありませんから、今後の判断はあなたがなさってください。困ったときには旦那様へご相談を」


「承知しました。例の品の受け取りも午後に済ませますので、あとは私に任せてください。お食事が用意できています」


 鍵束が二人の間で受け渡された。オーウェンはすぐ引き出しへしまわず、使うものを外して自分のポケットへ入れた。ウォルターの手が空く。彼がその手を腰の後ろへ回すと、エレノアは壁のそばから離れた。


 昼食のあと、兄も玄関へ降りてきた。使用人たちの礼にウォルターが答え、オーウェンが箱を運び出す。彼自身の手にはかばんが一つだけ残った。制服を脱いで茶色の上着を着ているのに、この玄関に立つとまだ出迎える側に見えてしまう。


「四年間お世話になりました。お仕事のお話を聞いていただいたことも、いろいろ助かりました。新しいお家で落ち着かれたら、私から手紙を差し上げてもよろしいですか」


 結局、下書きでは書けなかったことを口で言った。兄が何も言わずに傘立てのほうへ向いたのが見えた。ウォルターはかばんを持ち替えた。彼女と話すためにそちらへ体を向ける動作が、いつもの用件を聞くときとは違って見えた。


「その前にお尋ねしたいのですが、明後日の午後はお空きですか。二時に私の家へお越しいただけませんか。茶葉も菓子も、こちらで選ばせていただきたいのです」


「日曜日なら伺えます。二時ですね、約束します。何か持っていったほうがよいものはありますか」


「どうぞ手ぶらでいらしてください。箱を運んでいただく用事はもうありませんから、今度は座っていただけます」


 彼が笑ったのでエレノアも笑った。戸口の前へ出ると雨はやんでいて、御者が馬車の扉を開けていた。見送る自分より先にウォルターが乗り込み、かばんを足元へ置く。馬車が動き出してから彼女は振った手を下ろし、明後日なら着る服を選ぶ時間があると考えた。


 日曜日は一時半になる前から時計を見ていた。兄は居間で新聞を読み、出かけないのかと尋ねた。今出ると早く着きすぎると答えたら、いつもの道が混んでいるかもしれないと言われた。それでは仕方がないという顔で立ち上がったものの、彼が新聞の陰で笑っているのは分かった。


 結局近くの角で馬車を待たせ、エレノアは二時になるのを見てから小家の扉をたたいた。手袋を外す指に少し手間がかかった。右の手袋の内側に薄いインクの跡を見つけ、これを選んだのは失敗だったと今さら思う。ウォルターが扉を開けるまでにかばんへしまった。


「お時間どおりですね。今日は玄関先でお待たせしないよう、先に湯を沸かしてあります。どうぞお入りください」


 彼女がうなずいて入ると、窓際の机の上に本が置かれていた。薄い紙を粗くとじた冒険小説で、表紙の男が船の縁に片足をかけている。大きな本棚も豪華な革張りの椅子もない。エレノアは招かれた椅子に座り、読みかけらしい本から彼へ目を戻した。


「それがお好きな本なのですね。船から落ちそうな人がいるのが気になります。読んでいる途中で、こんなに危なそうなことをするのですか」


「この男は毎度危ないことをします。今回は船に乗ったところで、まだ何も起きていないのですが。続きが気になって、湯が沸いているのを忘れるところでした」


 彼は茶をいれて卓へ置いた。淡い茶色の横にミルクの小さな器があり、クッキーは店の紙袋から出されたばかりだった。娘の店のものだと聞き、一枚取って食べる。確かに屋敷で食べるものよりよく焼けていた。


「茶はこのくらいでよろしいですか。お好みより薄いでしょうが、今日は私が普段飲むものにいたしました。濃いほうがよければ茶葉は残してあります」


「今日はこれをいただきます。ミルクも試してみたいので、こちらへ置いていただけますか。菓子によく合いそうです」


 ミルクを加えた茶は飲み慣れない味だったが、クッキーのあとに飲むと口の中がすっきりした。彼が自分のカップを持って向かいへ座る。もてなされるだけなら屋敷でも同じだったはずなのに、座って飲む相手がいるだけで目の置き場所が変わった。彼の顔を見ていると目が合い、そのたびに二人ともカップへ目を戻した。


 先に席を立ったのはウォルターだった。目録をお見せしてもよろしいですかと聞くのでうなずくと、机の引き出しから種の袋がいくつも出てきた。庭師に欲張るなと言われていた話を思い出す。袋を見つめるエレノアに、彼は最初に選んだ分だけ買ったのだと説明した。


「最初に選んだ分を減らすおつもりだったのでは。庭はあそこまでですよね。これを全部植えたら、歩くところがなくなりませんか」


「まく量は調節できますから。残しておけば来年も使えるものがあるそうで、そう思ったら買うのをやめる理由がなくなってしまいまして」


 エレノアはかぶの袋を取って裏を読んだ。書かれている量を見せると、彼は目録と見比べて指で数え直した。豆の袋も開ける前に確かめたほうがよさそうだ。二人で椅子を寄せ、茶のカップも机へ移して袋を広げた。


「では豆は後回しにしましょうか。いや、塀のそばに支えを立てるなら先に決めなくては。かぶを減らせば入るのですが、かぶも食べたいのですよ」


「買って食べる分は店にありますよ。植えたいものを決めるのに、食べたいものを全部数えていたら終わりません」


 ウォルターはしばらくかぶの絵を見たあと、種の袋を二つ引き出しへ戻した。あれほど悩んでいたのに一度決めると机の上を片付けるのは早い。エレノアが椅子を引こうとすると、彼の手がその背に触れた。支えているだけの手に自分の指が触れそうになり、彼女は動くのをやめた。


「そのまま座っていていただけますか。エレノアさんにお話ししたいことがあります。種を決める前に申し上げるはずだったのですが、また順番が変わってしまいました」


 初めてその呼び方をされて、顔が熱くなった。彼は自分の椅子を少し回し、彼女と向かい合った。薄い青色の目が今は逃げずにこちらを見ている。エレノアは手をひざの上へ置き、うなずいた。


「手紙をいただけるかと考えていました。退職したら会う用事はなくなりますが、あなたから便りが来れば返事は書けるだろうと。そうやって最後まで、お誘いする理由をあなたのほうへ任せようとしていたのです」


「私から書かなかったらどうなさるおつもりでしたか。六週間待ちますと言ったときに、退職後もずっと待つべきかまで聞いておけばよかったと思っていました」


 彼は目を閉じて息をつき、困りましたねと笑った。空になったカップを脇へ寄せると、机の端を見ていた目が彼女に戻った。


「お待たせして申し訳ありませんでした。仕事の相談を受けるのが楽しかったのも、あなたがお帰りになるとほっとしていたのも、前からのことです。私の意見を聞いてくださって、違うと思えば理由もお話しくださる。もう少し話したいと思いながら、お帰りを待つのを仕事のせいにしていました」


 エレノアはかばんを抱き寄せかけ、そのまま脇へ置き直した。聞きたかった言葉を聞いているのに、すぐに返事ができない。夜遅く戻った玄関で彼を見つけるたび、彼女も足取りが軽くなっていた。眠る前のわずかな時間に話題を探して、次の朝に続きを尋ねたこともあった。


「これからも話をしに来てほしいのです。仕事の話でも、読んだ本のことでも。私も今日のように、お誘いしたいと思ったら自分から申し上げます。どうか私と結婚してください」


「はい。お受けします。私もあなたに会いたくて、用事を作ったことが何度もあります。一緒に住んだら、その手間は減りそうですね」


 言い終わると笑いが出てしまった。ウォルターも彼女を見たまま笑い、机の端にあった手を差し出した。エレノアはそこへ自分の手を重ねた。節の太い指が曲がり、彼女の指を包んだ。思っていたより手のひらは温かく、甲の皮膚は薄かった。


「お金の話ばかりしてしまった日もありましたね。私が一番聞きたかったのは、あなたが私と暮らしたいかどうかなのに。今度は家のことも相談してよろしいですか。仕事は続けたいし、帳簿を広げる机が要るのです」


「それでしたら置く場所を考えましょう。庭の見える場所は譲りかねますが、同じ机に広げていただいても構いません。ただ私は種を並べますから、帳簿に入り込むかもしれませんよ」


 彼女は机の幅を目で測り、種の絵と数字が並ぶところを想像した。彼が先に目を戻し、エレノアさんと呼んだ。返事をすると空いているほうの手が彼女の頬の手前まで上がり、そこで止まった。口づけてもよいですかと尋ねられ、エレノアは返事と一緒に顔を寄せた。


 唇は触れる前に見た印象より柔らかかった。頬に添えられた指の節があごに当たり、彼女はつないだ手を握り直した。離れたあとも彼の顔は近くにあって、目尻の細かいしわまで見えた。もう一度と頼むと彼はうなずき、今度は彼女を待ってくれた。


 兄に二人で報告したいと申し出ると、五日後の夕食会に招かれた。イリスにも声をかけてよいかと尋ねられ、ウォルターに相談して返事をした。エレノアは製本所から早めに戻り、玄関の時計を見ながら彼の到着を待った。少し前まで彼に待たせていた場所で、自分が扉の開く音に振り返っていた。


 着いたウォルターとイリスを迎えたのはオーウェンだった。ウォルターのかばんを受け取りかけてから今夜は持っていないと気づいたらしく、差し出した手を引っ込めた。彼のほうも上着を脱ぐのに一瞬迷い、結局後任へ渡す。エレノアは笑わず、ようこそと二人を居間へ案内した。


 リュシアンはすでに席についていた。結婚することにしましたと告げると、兄はウォルターにも同じことを確かめた。返事を聞いたあと、すぐ祝福の言葉を続けなかった。机にあった書類を脇へ寄せ、彼に座るよう勧めた。


「エレノアにも話したが、私はまだ心配している。君を知らないから反対するわけではないし、平民だから認めないと言うつもりもない。ただ、この屋敷で頼んできたことが多いから、私にも責任があると思っている」


 ウォルターが椅子へ座り、エレノアも隣に腰を下ろした。イリスは上着を脱いで別の椅子に置き、父が話し始めるとそちらへ体を向けた。


「私自身、頼まれなくても手を出す癖があります。やめますと言って今日から直るとは申し上げられません。ただ、引退した家でまで毎晩立って待っているつもりはないのです。食事も掃除も、二人でできることを分けたいと話しております」


「私は製本所を続けます。西の家から通う道も分かりましたし、帰りが遅い日は先に食べていていただきます。人手が要ることがあればそのときに相談して頼むつもりです。兄様に生活費を出していただく話でもありません」


 ウォルターにも自分の年金と貯蓄があると伝えると、兄は数字までは尋ねなかった。代わりに今後の仕事の名義をどうするのかと聞いた。エレノア・ハートリーと名乗るつもりだと答えると、彼は取引先への知らせを忘れるなと言った。製本所の古い帳簿に残るオルセーヌの名を、自分で説明し直すことになる。


「手続きは済ませます。注文の途中で名前が変わるのですから、職人にも先に伝えておきます。判の作り直しは、式の日が決まったら頼むつもりです」


「分かった。細かい話ばかりしてしまったな。食事の席でもう少し聞かせてくれ。今日はオーウェンが君を客として迎える支度をしている」


 食堂には四人分の席が用意されていた。ウォルターはエレノアの隣に座り、イリスは向かいの席につく。今夜の茶はあとで薄くして出してもらうよう彼が自分で頼んだ。オーウェンはうなずいて控えていた使用人へ伝え、料理を運ばせた。


 最初の皿が下げられるころ、給仕の一人が扉の前で足を止めた。オーウェンに何か告げ、二人が廊下へ目を向ける。ウォルターの手が椅子の縁へかかり、その腰が浮いた。エレノアが言葉を探すより先にオーウェンが振り返った。


「次の皿は少々お待ちください。温め直してからお持ちします。お飲み物はこちらで承りますので、どうぞお座りになっていてください」


「ウォルター、君の感想を聞きたい。私では料理が冷めていたのかどうかも分からないまま食べてしまう。このあとの皿も一緒に食べてくれ」


 兄が言うと彼は浮かせた腰を戻した。椅子の脚が床をこする音がして、エレノアは自分の指を皿の脇へ戻した。引き止めるために彼の袖をつかまずに済んだ。ほどなく鶏の煮込みが届き、ウォルターもほかの三人と同じように食器を手に取った。


「お好きですか。私ならこのソースをパンでも食べたいところですが、皿はこのまま下げてしまうのでしょうか」


「私も残すのは惜しいと思っていました。パンを頂きましょうか。この食べ方が好きだとは、料理人にも伝えたことがありませんでした」


 彼はオーウェンへパンを頼み、届いた一片をソースに付けた。イリスが父の皿を見て笑い、エレノアも自分の分を取る。兄は味に違いがあるのかと聞いてから同じように試した。次の料理の話をオーウェンが始めるまで、卓の上にはパンくずが少し増えた。


 食後に居間へ戻るとリュシアンは二人の顔を順に見た。さっきから言う時機を探していたらしく、茶が来ても手を伸ばさない。エレノアは彼のそばへ椅子を寄せた。兄はその動きに目をやってから話し始めた。


「二人の考えは聞いた。不安がなくなったとは言えないが、今日ここで同じ話を繰り返しても答えは変わらないだろう。結婚を祝わせてほしい。式には兄として出席する」


「ありがとう。日取りは相談して、退職から三か月になるころに挙げられたらと思っています。大勢を呼ぶつもりはないので、兄様にもそのおつもりでいていただければ」


 リュシアンは承知したと答えてようやく茶を飲んだ。隣のウォルターが礼を言うと、その肩から少し力が抜けたのが分かった。エレノアも背もたれへ寄りかかり、机の上に自分のカップを置いた。イリスはその横へ身を乗り出した。


「では、式の菓子は私の店に頼んでいただけませんか。作る量だけは早めに知りたいんです。大きなものを作るより、持って帰れるくらいに分けたほうがよさそうですけれど」


「それなら一度、菓子を選びに伺ってもよろしいですか。二人で食べる分を決めておきたいですし、イリスさんのおすすめも聞いてみたいです」


 イリスは父を見てから、あの人なら甘いものは大抵おいしいと言いますよと答えた。ウォルターが否定しかけてやめ、茶を飲む。娘はそれ以上父を困らせず、店を訪ねる時刻の相談へ移った。エレノアはかばんから帳面を出し、二人で日付を決めた。


 退職から三か月がたつころ、小家には机がもう一つ増えていた。ウォルターの机は相変わらず庭の見える場所にあり、エレノアの机はその横の壁に寄せられている。帳簿を運んで初めて、彼女は椅子を引くための幅を取り忘れていたことに気づいた。結局二人で机を動かし、窓をふさがない向きに置き直した。


 結婚式はその週末に挙げた。兄が名を呼ぶ前に目をこすり、イリスが菓子の箱を抱えてやって来た。オーウェンは休みを取って出席し、式が済むと仕事に戻るからと早めに帰った。彼を見送るウォルターの手に自分の手を重ねると、今度はそちらからも握り返された。


 エレノア・ハートリーと書かれた名前にはまだ目が止まった。指輪は製本所で紙を確かめるときには外すことにしたが、式の翌朝はそのままにしていた。三十二年使ってきた手に輪が一つ増えている。朝の光でそれを確かめてから、隣に眠る夫を起こさないように寝床を抜けた。


 台所で茶葉を二つの器に分ける。自分の分は濃く、ウォルターの分は薄くしてミルクを添えた。パンを切り終えたころ彼が起きてきて、食器を運びながら卵も焼くかと尋ねた。頼むと引き受けてくれたので、エレノアは皿を温めるほうへ回った。


 食卓で彼が開いているのは引き継ぎの帳簿ではなく新聞だった。エレノアは食べながら製本所から届いた手紙を読み、昼には返事を出さなくてはと考えた。店への道を聞こうとして顔を上げたが、ウォルターの目は紙面を追ったままだった。もう少し読ませてくださいと言うので、うなずいて自分も手紙へ目を戻した。


 四年前に初めて会った六十四歳の執事は、六十八歳で彼女の夫になった。新聞をめくる手の甲にはしわがあり、朝の髪は丁寧にとかしても一か所はねていた。エレノアがそれを指すと、彼は指で押さえたが直らなかった。食後に水を付けると言って、また新聞を読む。その下から冒険小説の新刊の表紙がのぞいていた。


 暖炉の上の肖像の前には庭で切った花が一輪あった。結婚式の菓子の残りは棚にしまい、今日の午後にイリスが空いた箱を取りに来ることになっている。エレノアはその時刻までに帰れないと伝え、帰りに店へ寄ると先に言っておくことにした。彼は新聞をたたんでから、お伝えしますと答えた。


「夕方には戻るつもりです。間に合ったら種苗店へ寄りませんか。先日置いてあった苗を見たいのですが、持ち帰る場所はもう空いていないでしょうか」


「場所はありますが、今日は雨になるそうですよ。濡れた苗を抱えて帰るより明日にしませんか。今日は家にいて、あの本を読み進めたいのです」


 彼女は窓から雲を見た。自分の仕事が早く終われば彼も出かけるだろうと考えていた。明日なら夕方に待ち合わせをすればよい。そう答えて皿を重ねると、ウォルターはそれを台所へ運んだ。


 出勤前の片付けは彼女が洗い、彼が拭いた。彼女の手が濡れている間にボタンを留めてもらいそうになったが、先に布で拭いて自分で留めた。彼は使った布を受け取って掛け、火の始末を確かめる。エレノアはかばんへ帳面を入れ、玄関の鏡で髪を見直した。


「今夜は新しい本を一緒に読んでもよいですか。あの船の人は、また危ないところに立っているようですけれど」


「まだ表紙しか見ていないのです。お帰りになってから続きを読めるようにしておきますが、途中からで構いませんか。それとも初めからにしましょうか」


 構わないと答えると彼が笑った。エレノアはその頬に触れ、朝からずっと気になっていた髪を指で押さえた。やはり直らず、彼にも笑われた。つま先を上げるより先に彼が顔を寄せ、玄関で口づけを交わした。


「夕食は七時でよろしいですか。遅れそうでしたら知らせますから、先に召し上がっていてください」


「七時に。今日は煮込みを作っておきます。温め直せますから、仕事が残っていたら慌てずに帰ってきてください、エレノア」


 エレノアは扉を開けたところで振り返り、パンは自分が買って帰ると付け足した。彼はもう戸口に立っておらず、新聞を手に食卓へ戻るところだった。声に気づいて振り向き、ではお願いしますと答える。エレノアは手を振って扉を閉め、夕食までに終わらせる仕事を数えながら歩き出した。


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