隣国から派遣された聖女の自己肯定感が低すぎるので、めちゃくちゃ甘やかしたら人生が変わったお話
数ある中から作品を選んでいただきありがとうございます!
バシャッ──!!
頭に衝撃が来たと思ったら、頭も肩も水に濡れた。そのまま水が襟元から入ってきて背中を水が伝い落ちていく感覚が気持ちが悪い。
視界を邪魔する濡れた前髪を、イレーネは忌々しげに掻き上げた。
「ふふっ、惨めな姿ね」
神殿の二階のバルコニーから降ってきたのはミゲイラ様の声。
二階に行けるのは大聖女様だけ。
イレーネは下を向いたまま、ミゲイラが姿を消すのを待っていた。水が跳ねて舞い上がった土の香りが辺りを漂う。
イレーネは静かになって三呼吸ほど待ってみる。
頭を上げた頃にはすでにミゲイラ様の姿はなかった。
イレーネは身体を少し震わせた。
(ラ、ラッキー!!)
イレーネは心の中でガッツポーズをした。
ミゲイラ様が来て、早三ヶ月が経った。
その間には数え切れないほどのことが起きていた。
最初は聞こえる声で、嫌味を言われた。
足を引っ掛けられたこともあるし、嘘の食事の時間を教えられてお腹を空かせたままベッドに潜り込んだこともあった。
ミゲイラ様が来る前から嫌がらせは常習的にあったが、イレーネは自分に聖女の能力が低いから仕方がないと半分思っていた。残りの半分は自分が不器用で皆の足を引っ張っているから、仕方がないと諦めていたのだ。
それでもミゲイラ様の嫌がらせでたくさんため息もついたし、正直、心も沈んだ。
だが、地方の教会で風邪をこじらせた聖女が重体に見舞われると、王家から指摘があった。
「国を守っている聖女も守れない教会なぞ、存在していいはずがない」
聖女は国の実りを運んでくる尊い存在で、豊穣の舞や穢れの浄化といった役目を担っている。つまり国の繁栄と密接な関係にあると考えられているのだ。
そして王都にある神殿を中核として地方まで点在している教会は、あらゆる怪我や病気の症状を緩和するとされるポーションを精製し、国民へ施す存在なのだ。ポーションの対価は国民からしっかり取るのだが。
そこへ聖女の体調不良も治せない教会はいらないと、王家から暗に言われているというわけだった。
そこで、待遇が一番に改善したのはイレーネだろうと自負している。
毎朝、体調を尋ねられ、食事も一日三食が約束された。
自室をもらい、木製のベッドに、シーツ代わりの大きな布が増え、一週間に一度、布が綺麗に洗われることになった。
皆はなぜか、ミゲイラ様に劇的な改善をしたイレーネの待遇を知られたくないようで、ミゲイラ様がいなくなったあとで、慌ててイレーネに近寄ってくるようになった。
水をかけられた日には湯で体を洗えるのだ。
イレーネは嬉しさが顔に出ないように努めていた。
イレーネはその日は気分よくベッドで眠りについた。
今朝は神殿が騒がしい。
イレーネは朝のお勤めに遅刻したかと胸をざわつかせたが、そんなことはないとすぐに分かった。
朝の集会をする大広間では、イレーネが一歩踏み入れると、注目を集めた。
「あら、イレーネがきましたよ。あ、そうだわ。イレーネが適任ではないかしら?」
一年に一度新年の宴にしか姿をお見せしない枢機卿が立っていた。いやぁ、ありがたや。
そしてその枢機卿にそんな発言ができるのは大聖女のミゲイラ様だけだった。
枢機卿も返事をあぐねいているようで、なかなか口を開かない。
息を少し吐いたあと、ようやくその重い口を開いた。
「イレーネ、君には大役を任せたい」
「⋯⋯はい」
イレーネは内容を聞こうか迷っていた。
よくミゲイラ様に「そんなことをいちいち聞いてくるなんて、これだから学のない人は困りますわ」と言われるのだ。
イレーネが枢機卿にそれを尋ねれば怒るかもしれない。
「アタナニケなんてまだ終戦したばかりじゃない」「この時期に聖女を依頼してくるなんて、人質にする気よね」「国同士の話なら、聖教会の中心である神殿から人を出さないといけないわよね」
親切にも大きなひそひそ声で話をしてくれる遠くの聖女たちに感謝した。
(あぁ、確かに大役ね)
隣国のアタナニケに負けた自国は拒否権がないことをイレーネも分かっていた。
イレーネは神殿の境遇と、まだ見ぬアタナニケの待遇を天秤にかけていた。
* * *
第九王子のアキレウスは手が汗ばんでいることに気がついた。
今朝、キリアコス王国から聖女がやってきたと報告を受けた。
聖女の応対をするのがアキレウスの役目だった。
キリアコスに戦争で勝ったといっても、聖女の身になにかあれば国際問題は免れない。
キリアコスの今後の関係改善のためにも、形式上迎え入れられる聖女。
人質であることは明白だった。
アキレウスは面倒くさい役回りにため息をついていた。
なにかあれば責任を負わされて首を切られる。立場だけか、本当の首も切られるかは分からない。
ただ、自分の運命は聖女次第だとアキレウスは気がついていた。
(腹を括るしかないな)
アキレウスは聖女の部屋をノックして、入室した。
なぜか床に正座する聖女。
自分は敗戦国だというメッセージなのだろうか。目も光がなく濁っているように見える。
国の中でもとりわけ特別な存在だと聞いている聖女がソファもベッドもドレッサーの椅子もあるのに、床を選んでいる。
アキレウスはこの聖女の真意が全く掴めなかった。
今まで生きてきた人生の中で一番難しい問題だった。
つまりいくら考えても分からない。
「あの聖女様、そんなところに座らないでお立ちください」
「⋯⋯あ、はい!」
無駄な所作が一切ない。
淀みない動きで直立する聖女。
(あ、まずい。状況が悪化した)
あろうことか、聖女を罰するかのように兵隊顔負けの直立をしている。
この場に誰か来たら、早々に国際問題が明るみに出てしまう。
アキレウスは暴れ馬を大人しくさせようとする農民のように腰を低く、両手を聖女に見せた。
「失言をいたしました。ソファへご着席お願いします、聖女様」
アキレウスは聖女をなんとか座らせると、お互い自己紹介をした。
目の前の茶色の髪に金色に光る瞳が印象的な彼女はイレーネと言った。
「これからイレーネ様の身の回りのお世話をさせていただきます。何が足りないものはございますか?」
イレーネは横を向きながら手を口元に当てている。何か考えている様子だった。
(私の部屋より広いこの部屋に、国賓並みの調度品を揃えている。侍女も五人揃えたが、これで足りるだろうか⋯⋯?)
イレーネは恥ずかしいのか少し頬を赤らめて、小さな声で話し始めた。
「服を五枚、タオルを三枚、掛け布団を一枚と御櫛を一ついただければ、大変嬉しいです」
アキレウスはイレーネの意図が何一つ分からなかった。
「⋯⋯儀式用でしょうか?」
国から大事にされてきた聖女がそんなに少ない枚数を指定してきているのだから、特定の用途があるはずだ。用途に合わせて、適切なものを用意したいとアキレウスは考えた。
「日常用です」
「⋯⋯えっ?」
(日常用って言った? 日常のどの部分だ? 朝? 昼? 夜?)
その時、イレーネが何かを汲み取ったように、理解した顔をして手を横に振った。
「あっ、多いですよね。申し訳ありません! 服は三枚、タオルは一枚、掛け布団一枚と御櫛を一つでお願いします」
「⋯⋯分かりました」
アキレウスは何も分からなかった。
だが、イレーネを尊重してとにかく用意することを最優先にしたのだ。
(服は祈りを捧げるお務め用でいいのだろうか。タオルは最高級のバスタオルにしよう。掛け布団ってなんだ? とにかく良いものを用意する。櫛は国宝の職人の作品を持ってこよう。枚数はなぜか減ったが、最初の枚数を用意するか)
アキレウスは自国の尊厳をかけて、なんとか一時間以内に用意させた。
テーブルの上に掛け布団以外の品が置かれた。
「時間がかかり過ぎてしまい申し訳ございません。どうぞお使いください」
「ありがとうございます⋯⋯」
イレーネは大事そうにテーブルの品を震える腕で抱えた。頼りなさそうな目がこちらを向く。
「それで、私の部屋はどちらでしょうか? 小屋? あ、廊下でしょうか? ⋯⋯できれば外なら屋根のある場所が良いのですが⋯⋯」
(ん? なんかおかしい。いやいや⋯⋯やっぱり儀式⋯⋯?)
「この部屋では、行えないものなのでしょうか? 詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか⋯⋯?」
「えっ、やだぁ。アキレウス様、こんな凄いところが私の部屋だなんて、冗談が過ぎますわ」
「⋯⋯」
アキレウスはイレーネの反応から不自然さしか感じなかった。
返す言葉が一つも見当たらない。
「あはは⋯⋯早く案内してください」
イレーネが取り繕うように乾いた笑いを零す。
「本当にここがイレーネ様のお部屋です」
「嘘⋯⋯。ない。うん、ないない! こんな素晴らしい部屋を私が使うなんて、ここが神殿だったら、笑いがどっかーんですよ。この先、笑うところありません、ってくらい、今のところが一番面白い部分で⋯⋯」
イレーネの口調がおかしい。
相当混乱しているのか手に取るようにアキレウスに伝わる。
(いやいや、聖女だろう。その反応おかしくないか?)
「あの、向こうでの日常がどんなものだったのか教えて下さいませんか?」
理解の尺度が一ミリも掴めないアキレウスは、頼みの綱のようにイレーネに縋った視線を仕向ける。
イレーネは愛想笑いをしながら、たどたどしく話し始めた。
「私は聖女でも出来損ないで、いつも失敗ばかりするんです。それをちゃんと伝えて下さいますし、たまにそれの罰に食事を抜かれたりするんですが。あっ最近は一日三食あります。いえーい。スープにたまにパンが付いてくるんです。それから⋯⋯(中略)⋯⋯温かい湯を用意してくれるんですよ。その日はすごく嬉しくて、水に濡れてラッキーなんて思ったり。それから⋯⋯(中略)⋯⋯さすがに掛け布団は薄くても一枚ほしいなぁというのが私の一番のわがままです。わがまま過ぎますかね? へへ、すみません、強欲で」
そんな感じで話を聞いたアキレウスが確実に分かったことが一つある。
彼女は冷遇されすぎている。
蔑ろにされている。
いや、人として扱われていないんじゃないか。
これが自国で起きたことなら大問題だ。
こんなに人権の“じ”の字もない環境で生きてきたなんて、信じられないし、変えてやりたい。
大好きな妹となぜかイレーネの姿が重なった。
アキレウスの中でイレーネの生活改善に火がついた。
アキレウスは侍女をすぐさま呼び入れると湯浴みとオイルマッサージを施したあと、ティータイムを命じた。
侍女に連れ去られるイレーネ。
二時間後、アキレウスが部屋を再び訪れると、なぜか最初にあった時よりげっそりしていた。
「あの、こんな贅沢もう無理です。このまま寝させてください。私の身体は贅沢を受け付けません。多分、この後の人生で待っているのは苦行だけです。私はこんな贅沢を受けるような人じゃないんです」
アキレウスは心の中で首を大きく横に振った。
(どうやったら伝わるんだ⋯⋯あ、そうだ)
「これがアタナニケ《こちら》の修行です。ひどいもてなしでしょう? イレーネ様にとってはお辛いでしょうね」
「⋯⋯あぁ、そういうことでしたの。これも修行でしたのね。これは確かに辛いですわ」
イレーネは明るい表情で何度も頷いている。
(素直過ぎる。素直が度を過ぎている!)
その日の晩餐で最高級の肉を出したところ、イレーネは一口目で悶絶していた。
「こんな味に深みがあって柔らかいお肉は初めてですわ。でももう身体が受け付けませんの。私が食べていい肉ではありませんわ」と、イレーネは苦しそうな顔をしていた。
「そうでしょう。アタナニケも酷い国ですよね。初日からこんなに辛い思いをさせているのですから。さぁ、もう一口」
イレーネは皿の上が綺麗になると深いお辞儀して「冥土のいいお土産になりました」と感情を込めてアキレウスに伝えていた。
料理人は何を勘違いしたのか、涙を流して感銘を受けていた。
その年で最初の収穫期になると、アタナニケ王国史上、類をみない大豊作の年となった。
その理由を『聖女のおかげ』だと結論づけた国民はすぐにイレーネを崇め始めた。
* * *
ところかわって、
キリアコス王国、枢機卿の執務室内──。
「なんだと!?」
枢機卿は手に持っていたワイングラスを叩き割った。甲高い音とともに細かく割れたガラス破片が床に飛び散った。
「キリアコス王国史上初めて、聖なる泉が枯渇しただと?」
枢機卿は神殿に殴り込みに来たような物々しい形相で現れると、すぐに大聖女を呼んだ。
「聖なる泉が枯れるとはどういうことだ?」
ミゲイラは何度も突っかかりながらも言葉を絞り出した。
「私にも何がなんだか⋯⋯お務めは普段通り行っていますわ」
ミゲイラは青ざめた顔で力なく言った。
大聖女が一番力を持っていると知られている。つまり聖力が減ることはミゲイラの能力と直結するのだ。
「二週間だ。なんとか泉を復活させろ。さもなくばお前は大聖女失格だ。飛ぶのは立場だけじゃないと思え」
「へ⋯⋯⋯⋯はい」
「それから他に変わったことがないか徹底的に調べろ!」
ミゲイラは貼り付けた笑顔をなんとか剥がさずに枢機卿と別れた。
部屋に戻ると怒声を上げながら、花瓶を壁にぶつけて壊した。
「ミゲイラ様、早く聖女の力をお使いください。これでは私も示しがつきません」
枢機卿がいなくとも司祭がせっついてくる。
「ミゲイラ様、地方の畑が枯れ始めていると聞いております」
「果物も不作で⋯⋯」
「ミゲイラ様、これではポーションが作れません」
「うるさいわねぇ、分かっているわよ。あぁもうどうしたらいいの!? イレーネ!!」
神殿は徐々に信頼を失い始めていた。
* * *
「だいぶ肌の色艶がよくなったな」
アキレウスは愛おしそうな目でイレーネを見つめる。そしてちゃっかりハリの戻ったイレーネの頬を優しく撫でた。
「アキレウス様! これも修行でしょうか⋯⋯?」
蒸気が出そうなくらい顔を火照らせたイレーネは目を潤ませている。
「そうだ、これも修行だ」
「はい⋯⋯頑張ります」
「嘘だ、こういうのは嫌か? ちゃんとイレーネの気持ちを聞きたい」
「アキレウス様が私に関心があるように見えるなんておこがましいことを考えています。ちゃんとアキレウス様の気持ちをお聞かせください」
「好きだ。健気で素直な努力家のイレーネが好きだ。ずっとそばにいてほしい」
「はぅ⋯⋯」
アキレウスにも聞こえるほど大きく息を吸い込んだイレーネ。
「⋯⋯図々しいかもしれませんが、私もアキレウス様をお慕いしております」
「図々しくなんかない。この国で聖女様を崇める国民が急増している。それは紛れもない事実だ」
「でも⋯⋯」
「イレーネ?」
アキレウスはなんとしてもイレーネに自分自身の素晴らしさを肯定してほしかった。
イレーネは返事に迷い誰もいない部屋を見渡したが、諦めた。
「⋯⋯私に本当にそのような力があるのか、信じられません。それは私の本当の気持ちです」
アキレウスはイレーネの戸惑いも少し分かる気がした。
キリアコスでは能力が乏しいと言われてきたイレーネに本当はすごい力があったなんて呑気に手放しで喜べるものではないのだろう。
そしてイレーネの凄さを彼女に確信付けられるものは、アキレウスの手の中にはなかった。
* * *
次の日、アタナニケ国王の玉座の間に招集されたイレーネとアキレウス。
二人は緊張の面持ちで一歩一歩慎重に王に近づいていった。
王の横には王位継承権を持つ十三人の王子が並んでいた。
二人は正式な挨拶をすると、背筋を伸ばしたまま直立した。
「イレーネ嬢、此度は隣国・キリアコスよりご足労感謝する。そして彼女のサポートに回るアキレウスもご苦労」
二人は深くお辞儀した。
「実は昨日、葡萄畑の実が一斉になった。今年は大豊作に恵まれたのに、こんな時期に葡萄がなるなんて異例のことだ。聖女の力を分けてくれたこと感謝する」
イレーネは慌てて再度お辞儀をする。
「そして彼女を支えているアキレウスも労う。そしてアキレウスよ」
「はい」
王は他の王子たちを一瞥した。
「其方を王太子候補に指名する。これは他の王子も了承している。イレーネ嬢とともに国の繁栄に貢献している功績だ」
イレーネがアキレウスを微笑みながら見た。
アキレウスの口の中に苦味が広がった。
「正直に申し上げますと、貢献の大半はイレーネ嬢のおかげです」
そこにイレーネが王とアキレウスの間に入った。
「お話を遮ることご容赦ください。アキレウス様の功績は素晴らしいものです。地方領主の元に何度も足を運び現状と課題の洗い出しを行っております。アキレウス様の行っている井戸掘りは、一つ一つは小規模ながらも、辺境の地で大きな貢献をしております。特に人口五百人以下の町村では、前年の五倍以上の収穫となったところもあり、年貢の倍以上の量をアキレウス様個人にお礼として献上したいと申し出る者も多くおります」
背中を丸くして小さな声で話していた彼女はどこへ行ったのだろうか。
いつもの闇に染まった瞳には光が宿っていた。
背筋を伸ばして、堂々とした姿は美しさの象徴に見えた。
(自分はあれだけ価値がないだの、できることはないと言っているのに、私のことはよく見ていてくれているのだな)
アキレウスの全身が熱くなる。
不思議と身体の奥からどんどん力が湧いてくる。
アキレウスは心の中でイレーネに大きな感謝をすると覚悟を決めて王にお辞儀をした。
「今の私では王太子になるための功績は不十分だと判断いたします。ですが⋯⋯」
アキレウスはしっかりと王の顔を見据えた。
「一年間、私の働きぶりをご覧ください。必ずや皆様の満足する結果をお持ちいたします」
緩む顔を慌てて手で隠す王。
他の王子たちの顔を丁寧に見た。
「承諾しよう。一年間、とくと働きぶりを見せてもらうぞ」
* * *
「イレーネ、君に救われたよ」
「私は何も⋯⋯いえ、私もアキレウス様に貢献いたしますわ」
「いや、君には隣にいてほしい。私と一緒に国を守っていかないか?」
豪奢な応接室を自分の部屋ではないと断言し、あろうことか服を五枚でいいと言い切った遠慮し過ぎる彼女。
いつも光のない目で自分がこんな美味しいものを食べてよいのか。
こんな気持ちの良いベッドで寝てよいのか。
朝日が入り込む素晴らしい部屋を使ってよいのか。
自己肯定感の欠片もなかった彼女。
それでも誰よりもその贅沢を贅沢と分かり噛み締めていた。
いつも初めてのことばかりのようで、感激しない日はないようだ。
いつしか彼女を喜ばせてあげたいと思うようになった。
自分も彼女のように心の中でちゃんと物事を感じて生きていきたいと強く願った。
彼女の隣で湧いてきた力を正しく使いたい。
応援していたはずの自分はいつの間にかイレーネに追い抜かされていた。
このままではいけない。
するとイレーネは何かを言いたげにアキレウスを何度も見る。
「一年経ったらアキレウス様からキスしてほしいです」
「ん? 今でもできますよ」
「違うんです、皆に公然の仲だと言いたいのです」
もう公然の仲ではないかと思ったがイレーネが恥ずかしさに何度も頭を触るのを見て、アキレウスはその言葉を飲み込んだ。
「はは、必ず約束しよう」
そしてアキレウスは彼女の手をいつまでもずっと握りしめていた。
* * *
一年後──。
王城への大通りには国民が詰めかけていた。空には花びらが吹雪のように舞い、アタナニケ王国を祝福しているようだ。
国民が沿道に出そうになるのをなんとか我慢して待っているのはアキレウスとイレーネだった。
オールバックスタイルに正装のアキレウスとその隣には繊細なシルク生地を何枚も重ねた妖精のように華やかで、優麗なイレーネ。
「アキレウス様、この度の活躍おめでとうございます!」
「イレーネ様、我が国の救世主!」
元気な声も、しわがれた声も老若男女の声が四方から湧き上がる。
旗を振り少しでもこちらを見ないか皆期待していた。
優しく手を振る二人に国民は酔いしれる。
「イレーネ様が来てから、この国は本当に豊かになったよな」
「南のオルタリア帝国と貿易を結ぶなんて歴史がひっくり返るよな。アキレウス様、王太子になっちゃったりして」
「そういえばイレーネ様のいたキリアコス王国は大聖女が気が触れちゃって、今行方不明らしいよ」
「可哀想だね。国はかなり荒れてるって聞いたよ。農作物も実らないし、泉が枯れているんだって。やっぱり敗戦国だからイレーネ様のような素晴らしい人を他国に送らなきゃいけなかったんだろうな」
「そんなことイレーネ様が聞いたら、そっちにも加護を分けて上げそうだよね」
国民たちは二人に視線を戻す。
アキレウスとイレーネは何かを話しているようだ。
二人は見つめ合っていた。
アキレウスは逞しい腕で彼女を引き寄せると馬車の上でイレーネに熱いキスをした。
もちろん国民に丸見えである。
「「「わあーお」」」
国民も声を上げるしかない。
「アキレウス様、熱いわね〜!」
「見てみて、イレーネ様の恥ずかしがりっぷり、可愛すぎる〜」
顔を隠すイレーネを覗き込むアキレウス。
「イレーネ、大丈夫か?」
「はい、なんとか」
イレーネは深呼吸をしてなんとか気持ちを落ち着かせる。
そこへ目の前に白い花びらが何枚も通っていった。
「あら、これは⋯⋯」
すると人だかりから声が上がった。
「これはりんごの花だ! 季節外れの開花だなぁ」
「イレーネ様のお力か?」
イレーネは顔を隠して笑い始めた。
「すみません、私のせいです」
「イレーネ、君は本当に最高だな」
アキレウスは溢れんばかりの笑顔になった。
お読みいただきありがとうございました!
ちなみに季節外れの葡萄は一年後にワインとして皆に振る舞われました。
誤字脱字がありしたらぜひご連絡お願いいたします!




