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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

短編小説 『コンプレックス』

作者: 夢夢夢
掲載日:2025/12/19

そのシミは、最初はただの雨漏りの跡に見えた。

 けれど、日が経つにつれて輪郭は明瞭になり、驚くほど私に似てきた。壁から這い出そうとする、もう一人の私。最初は気味が悪くてポスターを貼って隠していたけれど、ある夜、ふと気づいたのだ。そのシミの「目」が、私よりもずっと雄弁で、どこか悲しげな光を湛えていることに。

 私は衝動的に、ポスターを剥がした。

「……そんなに寂しいの?」

 私は自分の鏡に向かう時と同じように、壁の彼女に向き合った。アイシャドウを指に取り、シミのまぶたにそっと色を乗せる。紅を差し、アイラインを引く。

 するとどうだろう。翌朝、鏡の中にいたのは、驚くほど澄んだ瞳を持つ自分だった。

 

 そこからは魔法の時間だった。

 私はシミを愛し始めた。彼女は私の理想を映す魔法のキャンバスだった。

 ウエストを細くし、鼻筋を整え、シミを美しくすればするほど、私は学校で「元からの美人」として再定義されていった。クラスメイトの羨望も、男子たちの熱い視線も、すべては壁の中にいる「私」を愛でた報酬だった。

 夜、壁に頬を寄せ、冷たいシミに口づけをする。

「もっと、もっと綺麗にしてあげるからね」

 



 ――あの日、教室の窓から差し込む陽光が、妙に白々しく感じられた。

「おい、お前……顔、どうしたんだよ」

 隣の席の男子が、椅子を鳴らして立ち上がった。その顔は恐怖に引きつっている。

 嫌な予感がして手鏡を取り出す。鏡の中にいたのは、完璧な美少女ではなかった。

 右目があるべき場所が、まるで消しゴムでこすったように真っ平らな皮膚に変わっている。

(嘘。どうして?)

 その時、脳裏に直接、あの音が響いた。

 ――シュッ。シュッ。

 聞き間違えるはずがない。私の部屋で、お母さんが洗剤を吹きかけている音だ。

「もう、この部屋。またこんなところに汚れを作って。だらしないんだから」

 お母さんの無機質な声が、耳の奥で鮮明に響く。

「やめて……消さないで!」

 叫ぼうとした瞬間、唇が癒着し、言葉は喉の奥で潰れた。

 私は逃げ出した。

 周囲の悲鳴を背に、狂ったように学校のトイレへ駆け込み、大きな鏡の前に立つ。

 鏡の中の私は、もう人間ではなかった。

 ――ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ。

 耳の奥で、硬いスポンジが壁をこする音が爆音で鳴り響く。

 その音に合わせるように、鏡に映る私の右腕が肩から先、ふっと霧のように消えた。

(消さないで。消さないで、お母さん!)

 心の中で叫ぶ。だが、見えない消しゴムは止まらない。

 次に左足が、足首から先を失い、私はタイルの上に崩れ落ちた。

 

 鏡を見上げる。

 次は左手、次に右足。制服だけを残して、私の肉体が部位ごとに「なかったこと」にされていく。

 最後には、鏡を見つめていた顔さえも。

 お母さんの「汚れね、これ」という楽しげな鼻歌が響き、最後の一擦りの音がした瞬間、私の視界は真っ白な沈黙に包まれた。

 ……。

 家では、女がふぅと息を吐き、真っ白になった壁を見て満足げに頷いていた。

「やっぱり、綺麗にしておかないとね。せっかくの空き部屋なんだから」

 女は、床に落ちていた主のいないノートを拾い上げ、不思議そうに首を傾げた。

「あら……。これって誰のだっけ?」

 女は笑ってノートをゴミ箱へ捨てると、パチン、と照明を消した。

 


 同時刻、学校のトイレには、不自然な形で重なり合う制服だけが残されていた。

 通りがかった生徒たちはそれを見て、「誰の忘れ物だろう」と不思議そうに通り過ぎていく。

 その制服の持ち主を思い出すための記憶は、もう、この世のどこにも残っていないだろう。

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