第3話 迷っても、まだ立っている
◆夢編
***夢***
風が冷たい。
アリオンは、
白い霧の中から
浮かび上がる塔を見上げていた。
昨日よりも、塔は近く感じる。
手にした剣の柄は、
何度も握り直したせいで、
掌に馴染み始めていた。
それでも―心は、
まだ追いついていない。
「…来たか。」
声がした。
霧を割って現れたのは、
長いローブをまとった魔術師だった。
ローブは金糸や宝石で、
これでもかと飾り立てられている。
高価そうだが、どこか安っぽい。
動きが芝居がかっているせいかもしれない。
杖の先で地面をコツ、
と軽く叩きながら、
魔術師はアリオンを眺めた。
「君が“勇者候補”か。
…いや、その目。
まだ立候補届すら出してない顔だな。」
軽い調子なのに、
妙に胸に残る言葉。
アリオンは無意識に眉をひそめる。
「戦う覚悟はある。」
それは嘘ではなかった。
怪物と刃を交えた時も、
恐怖はあったが逃げはしなかった。
何度も倒れそうになりながら、
それでも立ち上がってきた。
しかし魔術師は、
あっさり切り捨てる。
「覚悟、ね。
剣を握る手が、
その言葉に追いついていない。」
ズキ、
と心臓の奥が疼く。
実際、
アリオンの右手はわずかに震えていた。
緊張。
恐怖。
責任。
アリオン自身でも、
完全には言語化できない感情の渦。
言い返したい。
でも、言葉にした瞬間、
その震えが
“本当になってしまう”
気がして、喉が固まる。
魔術師は、
楽しそうに杖をひと振りした。
光も炎も出ない。
ただ空気が揺れる。
「本物の勇者は迷わない…と、
言いたいところだが。
まぁいい。
君はまだ
“迷っている段階”だ。
魔王様にいい土産が今日はできる。」
「だから、何だ。」
ようやく絞り出すように声が出た。
アリオンは一歩踏み出す。
その足取りは決して強くはないが、
後ずさりではなかった。
「迷っていても、立っている。
それじゃ勇者失格だな?」
魔術師は口元だけで笑う。
「質問のセンスは悪くない。
だが答えは―否。
君はまだ物語の脇役だ。」
それは、剣では届かない場所を
刺す言葉だった。
胸の奥に沈んでいた不安を、
そのまま形にされた感覚。
“自分の想い”
を他人の口から説明される痛み。
アリオンの呼吸が浅くなる。
その時だった。
コツ、と袖を引かれる。
振り向くと、
フィアが立っていた。
長い青い髪が、
風に揺れている。
その瞳は、静かで、
けれど決して折れていない
“光”を湛えていた。
いつもより、
ほんの少しだけ眉を寄せている。
けれど、
その瞳はまっすぐだった。
「アリオン。
あなたが迷ってるのは、
最初から知ってた。」
静かな声。
責めもしない。
励ましすぎもしない。
「でもね。
迷っているのに、
それでも前を向いている人を―
私は勇者って呼ぶ。」
風が、
少しだけ暖かくなった気がした。
アリオンは、
剣を持つ手に力を込める。
(…そうか。
“選ばれていない”なら。
自分で自分を選ぶしかない。)
膝が折れかけていた。
それでも、地面にはつかなかった。
剣が手から離れそうだった。
それでも、指は柄を離さなかった。
魔術師は目を細める。
「…ほう。
折れるには、
まだ早かったか。」
杖の先が、軽く地面を叩く。
攻撃は来ない。
しかし、空気の圧だけが増す。
「今日はここまでだ。
君に必要なのは、力ではない。
“迷いとの付き合い方”だ。
それを乗り越えたあとの絶望は
魔王様が一番の好物だ。
ふふふ…
でも、今日君に
『プレゼント』
を渡そう。」
アリオンは呟く。
「何…プレゼント…?」
「それが何かもうすぐ知れる。
楽しみに待ちたまえ…
ふふふ…
また会えるといいね…」
視界が、音もなく白く崩れていく。
アリオンは最後まで、
剣を握ったままだった。
---
◆現代編
***2025年・梅雨***
「…行きたくねぇ。」
立川駅前。
ビルの隙間から覗く空は、
鈍い灰色に沈んでいる。
モノレールがゆっくりと
頭上を横切っていくたび、
雨粒が柵から落ちて、
細かい水しぶきになった。
梅雨真っ盛りの朝。
空気は湿気で重く、
シャツの襟元にじっとりとまとわりつく。
アスファルトには
昨夜の雨がまだ残っていて、
靴底が少し滑る。
通勤客の流れの中で、
俺はひとり足を止めていた。
(行かない、って選択肢もある。
最悪、スマホひとつで
全部投げ出せる時代だし。)
ポケットの中のスマホが、
やけに重い。
会社のビルのロゴが目に入る。
でかでかと掲げられた社名は、
ゲーム好きなら誰もが知っている
“あの会社”だ。
子どもの頃、
俺もそのロゴを見て胸を躍らせていた。
(…なのに、今は胃がキリキリする。)
深くため息をついて、
自動ドアをくぐる。
■朝の資料管理室
資料管理室のドアを開けると―
なぜか、
見慣れたブラウンの髪の持ち主が、
ファイルの古い資料を
かぶりつくように見ながら
椅子を回転させていた。
有村か。
「お、来た来た。
今日も元気に社畜予備軍~。」
「…なんでデザイン部が
朝から資料管理室にいるんだよ、有村。」
有村 茜。
コンシューマーの花形タイトルを
抱えるデザイン部所属。
なのに、なぜかこうして時々、
資料管理室に紛れ込んでくる。
「え?資料集めと同期いじり。二刀流。」
有村は胸元でバインダーを振って見せる。
中には過去タイトルの
アートワークのコピーが
ぎっしり詰まっていた。
「ほら、
昔のファンタジー系タイトルの
資料が欲しくてさ。
絵の雰囲気とかロゴの感じとか、
まとめたいのよ。
ついでにクウマの顔見て、
今日も生きてるって確認しに来た。」
「ついでの方がメインだろ、それ。」
赤みの強いブラウンの髪が、
くるくると跳ねている。
光に透けると、
ほとんど赤茶に見える。
笑顔のテンションも、
声量も、相変わらず無駄に高い。
「まあまあ。
梅雨で沈みがちな職場を明るくするのが、
デザイン部・有村茜様の社会貢献ですよ。」
「自分で言うな。」
「で?入社してから
3ヶ月経った今の気分は?」
「…それ社内でする話なのかよ?…」
「ここ資料管理室、
外みたいなもんでしょ。
花形部署から追い出された人と、
新人と、変わり者の避難所。」
「その噂、外に向かって大声で言うな。」
からかい半分の会話でも、
少しだけ肩の力が抜ける。
このどうしようもない緩さが、
有村の良さだと最近ようやく分かってきた。
「…あ、そういえばさ。」
有村がふと思い出したように言う。
「白木先輩、
この前の休みに美容院行ったっぽいよ。」
「え?」
「なんか、髪少し整っててさ。
前から落ち着いた青のロングだったけど、
今はちゃんと整えてあって
“きれいなお姉さんブルー”
って感じ。
光が当たると、さらさらって揺れてさ。」
空真の心臓が、一瞬だけ跳ねた。
(青…)
夢で見た、あの少女の髪。
日差しを受けて波打つ色。
脳裏のどこかで、二つのイメージが重なる。
「…あ、いや。
別に、気にしてないけど。」
俺の曖昧な返事に、
有村はニヤニヤ笑った。
「ふーん。
気にしてない割には、
顔がちょっと赤いね?」
「気のせいだ。」
「はいはい、気のせい気のせい。
まあ、資料管理室の空気を
少し華やかにしたのは事実だしね。
ウチのデザイン部としても
感謝してるんだから。」
自分のブラウンの髪を
指でくるくるしながら、
有村は続ける。
「私はさ、どっちかっていうと
“場を明るくする係”
でしょ。
で、白木さんは
“静かに芯で支える係”
役割分担、大事。」
「勝手に配役決めるな。」
「立場は大事よ?
ファンタジーでも、
明るいヒロインと静かなヒロイン、
両方いてバランス取れるんだから。」
(それ、なんか分かる気はするけど。
でも自分でヒロインって有村らしいや…)
「じゃ、
私はデザイン部に戻りますかね~。
現場からは以上です。
今日もほどほどにがんばれ、同期よ。」
肩をポン、と叩いて、
有村はひらひらと手を
振りながら資料室を出て行った。
バインダーの端から、
古いモンスターラフのコピーが
少しはみ出している。
(…なんであいつは、
ちゃんと自分の場所がある顔してんだろ。)
羨ましさと気安さが、
同じくらい胸に残る。
しばらくして、
資料管理室のドアが静かに開く音がした。
「おはよう。」
白木さんだ。
少し伸びた髪が、
落ち着いた青のまま肩から胸元へと流れ、
蛍光灯の光を受けて静かに揺れる。
そして、すれ違った瞬間、
シャンプーと微かな花の匂いが
混ざったような、
清潔な匂いがした。
派手ではないが、
職場の中ではひときわ目を引く色だ。
静かな雰囲気と、
不思議なくらいよく似合っている。
(…近くで聞くと、
声低いんだよな。
落ち着く。)
「空真くん。
ちゃんと来たね。」
「まぁ…なんとか。」
「この湿気のなか出社したら、
それだけで今日は合格。」
「ハードル低すぎません?」
「梅雨の時期の
新人ボーダーラインなんてそんなもの。
ここから、ゆっくり上げてけばいいの。」
そう言って、白木は自分の席に向かった。
机に座る前、ふと立ち止まり、振り返る。
「何かあったら、言ってね。
“何があったのか分かんない”状態って、
一番しんどいから。」
(…見抜かれてる。)
俺は、
胸の奥が少しむず痒くなるのを感じながら、
PCの電源を入れた。
午前中は、
ひたすら資料と格闘する時間だった。
過去の企画書、
発売済みタイトルの分析、
海外競合の調査資料。
それらをジャンルや発売年、
売上規模ごとにタグ付けして、
社内共有用のフォルダに整理していく。
やっていることは単純な作業だ。
頭を使わないわけではないが、
「自分にしかできない」
と言い切れるものではない。
(これ…俺じゃなくても良くないか?)
そんな思いが、
何度も心に浮かんでは沈んでいく。
■桐谷現る
その時だった。
「おつかれ。」
背後から、聞き慣れた声がした。
桐谷だ。
整った顔立ちに、よく通る声。
コンシューマータイトルの
メインプランナーとして
社内でも有名な人間。
彼が名前を出せば、
開発ラインは本当に動く。
「最近どう?
この天気でテンション持ってかれてない?」
「まぁ…ぼちぼちです。」
「だよね。
湿気は人のやる気を溶かすからな。」
桐谷は、
空真の隣のデスクに手をつき、
モニタの画面を覗き込む。
「ふむふむ、資料整理か。
このタイトルの売上推移、
グラフにしてくれてたんだ。
どれどれ…」
何枚か画面を切り替えた後、
軽く鼻から息を漏らす。
「…うん。
“ちゃんとやってる感じ”
は出てる。」
刺さるような言葉ではない。
ただの感想のようにも聞こえる。
「ありがとうございます…?」
「いや、悪い意味じゃないよ。
新人でここまで出来てれば、
普通に合格点。
特に問題ない、ってやつ。」
問題ない。
それは褒め言葉のようでもあり、
同時に“何も特別ではない”宣告にも聞こえる。
「たださ。」
桐谷は、
画面から視線を外し、
俺の方を見た。
「うちはコンシューマーの大手なんだ。
“世界そのものを作る側”
ってこと。」
その言葉は、
誇りと自負が混ざったものだった。
「資料整理や分析は大事だよ。
でも、それは
“世界を作る人間”
のための基盤。
基盤だけで満足してると―
君は一生、誰かの後ろで
フォルダ整理して終わる。」
一瞬、呼吸が止まる。
「…」
桐谷は、
すぐに笑って肩を叩いた。
「あ、気にするなよ。
全部が全部、
前線に出る必要はないんだし。
人それぞれ
“向き不向き”
ってあるからさ。」
「……」
「ファンタジー作るのだって、
向き・不向きあるでしょ。
向いてる人は、もう勝手に始めてる。
向いてない人は、支える側ってだけ。」
音もなく、
心のどこかに線が引かれた気がした。
(ああ―
それ、つまり俺は
“向いてない側”
ってことか。)
返す言葉が見つからない。
笑い飛ばすこともできず、
否定することもできない。
桐谷はそれ以上何も言わず、
「頼んだよ」とだけ残して去っていった。
彼の背中を見送りながら、
俺は、自分の指先から
温度が抜けていくのを感じた。
■昼休み。
食堂の隅、
人が少ない窓際の席に座りながら、
俺はスマホを取り出した。
近くのテーブルでは、
デザイン部のメンバーと
談笑する有村が、
手を振ってこちらに
「生存確認OK」
のジェスチャーを送ってくる。
俺は苦笑しながら、
軽く手を上げて返した。
画面には、以前から何度も
開いては閉じていたサイトが表示される。
退職代行サービス
「在職中でも、即日退社可能」
「会社への連絡は一切不要」
魅力的な言葉が、
スクロールする度に目に入る。
(ここで、終わらせるのもアリだよな…)
名前、勤務先、相談内容。
入力フォームに指を走らせていく。
・入社してまだ3ヶ月ほどですが、
向いていないと感じています。
・自分がここにいる意味が分かりません。
・会社にも、自分にも、これ以上迷惑をかけたくないです。
(迷惑、か……)
本当にそうなのか。
自分がここにいることは、
果たして迷惑なのか。
そこまでの客観性は、
まだ持てていない。
だが、
“そう思ってしまった”
事実だけが胸に重く乗っている。
送信ボタンに、指が触れる。
本当に押してしまえば、
何かが終わる。
同時に、何かを説明しなくて済む。
自分の
“未完成”
から目をそらしてもいい理由が、
ひとつ増える。
息が浅くなる。
(…押せ。
押せよ。
どうせお前、世界を作る側の
人間じゃないんだから。)
心の中のどこかが、
冷たい声で囁く。
そのとき―
トン、と紙コップが机の上に置かれた。
「はい、砂糖2、ミルク1。」
白木先輩だった。
長い青い髪が、
肩のあたりでさらりと揺れる。
雨上がりみたいな、
すっとした匂いがした。
落ち着いた青い瞳が、
こちらを覗き込んだ。
「…え?」
「勝手に持ってきた。
この時期は、
まずカフェイン入れてから悩むこと。」
白木は隣の席に腰を下ろし、
スマホの画面をちらりと見た。
そこに表示されている
サービス名を読み取るのに、
時間は要らなかった。
「辞めたいの?」
ストレートな問い。
責める色はない。
「…正直、はい。
というか、
この会社が向いてない気がしてきて。」
「ふむ。」
白木先輩はしばらく黙り、
カップの淵を指でなぞった。
「辞めたいって思うの、
悪いことじゃないよ。」
「…そう、ですかね。」
「うん。
むしろ、
何も感じないで続けてる人の方が
危ないときもあるから。」
白木先輩は、俺の顔を見る。
その視線は、
笑顔とは違う真剣さを帯びていた。
「でもね、空真くん。
今の君の顔は、
“終わりにしたい顔”
じゃない。」
「…じゃあ、何ですか。」
「“悔しいまま終わるのが怖い顔”かな。」
心臓を指でつままれたような感覚。
言葉にしていなかった感情を、
あっさりと言い当てられる痛み。
「…悔しい、か。」
「うん。
桐谷君の言葉、
刺さったでしょ。」
「…見てました?」
「見てた。
聞こえてもいた。」
白木先輩は、
少しだけ困ったように微笑んだ。
「あの人、
悪気がない分タチ悪いから。
“正しいこと”
で人を追い詰めちゃうところある。」
「正しい…ですよ。
俺、今の仕事で精一杯だし。
世界どうこうとか、
考えられるレベルじゃないです。」
「うん。
それでいいんだよ、
今は。」
白木は窓の外を見やりながら続けた。
「でもさ。
“悔しい”って感じるってことは―
まだ、どこかで
“こうなりたかった自分”
が生きてるってことだよ。」
「……。」
「それ捨てるなら、
もう少し後でもいいんじゃない?
せめて、
“自分でちゃんと諦めた”
って思えるところまで。」
その言葉は、
不思議と責めるようには聞こえない。
かといって甘い慰めでもない。
逃げ道を塞ぐんじゃなくて、
“逃げるタイミングを、
ちゃんと選ばせる”
言葉。
「…白木先輩は、
どうしてそこまで―」
「ん?」
「いろいろ、見えてるんですか。」
白木先輩は少しだけ視線を逸らし、
窓の外のモノレールを目で追った。
「…私もね。昔、
“ここにいていいのか分かんない”
って時期、あったから。」
そこから先は、語らない。
それ以上踏み込めない距離を、
白木先輩は絶妙に保っている。
立ち上がる前、白木は、
俺のスマホを顎で指した。
「それ、消してとは言わない。
でも―今押したら、一生
“あのとき本当はどうしたかったんだろう”
って自分に聞き続けることになるよ。」
「……。」
「悔しいまま終わるのが、
一番キツいから。
少なくとも私は、そうだった。」
そう言って、
白木先輩は席を離れた。
画面の向こう側にある
「送信」ボタンは、
相変わらずそこにある。
だが、指は動かなかった。
(…終わらせたい、のか。
悔しいまま終わるのが、嫌なのか。)
自分でも、どちらなのかは分からない。
ただ―そのどちらもが、今この瞬間、
胸の中で同じくらい重かった。
結局、俺はアプリを閉じ、
スマホをポケットに戻した。
■午後
資料管理室の空気は、
いつもより少し重かった。
この時期特有のだるさ。
社内チャットには、
他部署の
「湿気でやる気溶けた」
的なメッセージが散見される。
そんな中、桐谷が再び現れた。
「空真くん、午前の分どこまで進んだ?」
彼の笑顔は、朝と同じだ。
ただ、俺の側の心構えが違っていた。
「このあたりまで…
売上上位タイトルのタグ付けと、
過去3年分の比較を。」
「ふむ。」
桐谷はPCの画面をスクロールしながら、
何度か頷いた。
「うん。
“優等生”
って感じだ。」
その言葉に、俺は条件反射で
「ありがとうございます」
と言いそうになった。
けれど、喉の奥で言葉が詰まる。
「たださ。」
桐谷は画面から目を離し、
少しだけ声のトーンを落とした。
「君の資料見てると、
“誰がやっても同じ”なんだよね。」
「……。」
「誤解しないでね。
これは悪口じゃない。
むしろ、仕事としては正しい。
誰が見ても分かるように、
綺麗に整理されてる。」
タタ、とキーボードを叩く音。
画面には、
俺が作成したフォルダ構成図が表示される。
「でも、うちは世界を作る会社なんだ。
“世界の素材を並べるだけ”なら、
外注でもできる。」
それは、午前とは違う刃だった。
「コンシューマーの
大作ファンタジーを一本作るのに、
どれだけの人数と時間とお金が動いてるか―
想像つく?」
「…正直、そこまで考えたことは。」
「だよね。
でも俺たちは考えないといけない。
背景1枚増やすだけで、
美術の工数どれだけ増えるか。
戦闘シーン増やすって簡単に言っても、
アニメーターが徹夜する日が
何日増えるか。」
淡々と語られる
“現実”。
そのどれもが、正しいことのように思える。
「だからさ、世界を一個作るってのは、
“誰かの人生を、作る側に縛りつける”
ってことなんだ。」
桐谷は、
ちょっとだけ悲しそうに笑った。
「君の今の仕事は、
その世界を下から支える仕事。
大事だよ。
でも―
そこから上に登る気がないなら、
君は一生“世界の外側”にいることになる。」
その瞬間、空真は理解した。
(最初から“試されてる”んじゃなかった。
これは…判定だ。)
「…俺には、
世界を作る力は、ないですか。」
気づけば、そう尋ねていた。
桐谷は肩をすくめる。
「まだ分かんない。
ただ―
“始めてる奴”と
“まだ始めてない奴”
の差は大きい。
向いてる奴は、
止めても勝手に作るから。」
「君がどうかは、君次第。
ただ現時点だと、
“資料管理に向いてる”
って印象だね。」
その言葉は、怒鳴り声よりも、
はるかに静かで、
はるかに痛かった。
桐谷が去った後も、
空気の重さだけが残る。
(向いてる、か…)
そのとき、
不意に別の影が視界に入った。
黒瀬さんだ。
いつものように、
何もしていないような、
しているような、
掴みどころのない態度で
資料棚の前に立っていた。
「おつかれ。」
「…どうも。」
黒瀬さんは少しだけ俺を眺め、
それから棚の上段に手を伸ばす。
どこか迷いのない動きで、
一冊のファイルを引き抜いた。
分厚い紙ファイル。
端は黄ばんでいて、表紙には手書きで、
『失われた王国
― 開発企画・草案』
と書かれている。
(…またこれだ。)
以前にも一度、
ちらりと目にしたタイトル。
夢で見た世界と、どこか重なる響き。
黒瀬さんは何も言わない。
ただ、無言でそのファイルを
俺の机の上に置いた。
「………?」
問いかけようと顔を上げたときには、
黒瀬さんは、もう自分の席に戻っていた。
ページをめくる。
紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
“世界設定案”
“登場人物ラフ”
“ストーリー構造メモ”
そこには、見覚えのある単語が散りばめられていた。
「魔王城」
「赤い髪の少年」
「青い長髪の少女」
「失われた王国」…
(…これ、夢の中の―)
意識が、
紙の向こう側に引き込まれていく。
---
◆過去編
***1985年***
ブラウン管モニタの画面が、
淡い緑色の文字で埋まっていた。
PC-8801のファンが、
低く唸り続けている。
フロッピーディスクが回転する音が、
かすかに部屋の隅から聞こえる。
夜。
だが、
開発室の蛍光灯はまだ全て点いていた。
赤木は、
擦り切れたコピー用紙の束を胸に抱え、
深く息を吸い込んだ。
「…よし。」
隣の席では、
若い黒瀬がキーボードを叩いている。
アセンブラのコードが、
休むことなく入力され続けていた。
「行ってくる。」
赤木の言葉に、
黒瀬は手を止めずに返事をした。
「死ぬなよ。」
「死にはしねえよ。
この程度で死ぬ情熱なら、
とっくに朽ちてる。」
そんな軽口を叩きながらも、
赤木の手のひらには汗が滲んでいた。
会議室。
長机の向こう側に座るのは、
開発部のリーダー、御影。
年齢は三十代半ば。
かつては自分自身もプログラマーとして
一線でコードを書いていた社内の伝説。
眼鏡の奥の目は優しそうだが、
その奥に疲れた影が見える。
赤木は、資料を机に並べながら言った。
「新作の企画です。
タイトルは―
『失われた王国』。」
御影は無言でページをめくり始める。
部屋には紙の擦れる音だけが響いた。
世界地図。
魔王城のイラスト。
赤い髪の少年。
青い髪の少女。
失われた文明。
消えた歴史を巡る旅。
どのページにも、
“世界を作ろう”
とする意思が滲んでいた。
しばらくの沈黙の後、
御影はページを閉じた。
「…よく、ここまでまとめたな。」
「ありがとうございます。」
「正直に言う。
俺は、こういうの―
好きだ。」
一瞬、空気が緩む。
赤木の目がわずかに輝いた。
しかし、御影の次の言葉が、
その光をすぐに覆い隠す。
「でも、会社は選ばない。」
その言い方は、
怒りではなく、諦めに近かった。
「どうして、ですか。」
赤木は、食い気味に尋ねる。
御影は、
ため息をひとつ落としてから、
指を一本立てた。
「まず、金だ。」
御影は淡々と説明を始める。
「ファンタジーRPG。
広い世界。
多くのキャラクター。
膨大なテキスト。
戦闘システム。
イベント。
マップ。」
一本一本、釘を打つみたいに、
要素を並べ立てていく。
「これ全部、人件費だ。」
会議室の窓の外では、
遠くビルの明かりが滲んでいる。
「今、世の中はファミコン全盛期。
テレビでCM流して、
子どもたちはカセット買って、
みんな“テレビの前”で遊んでる。」
「うちはどうだ?
PCゲーム。
市場は小さい。
家庭にあるPCなんて、
まだ一部の層だけ。
雑誌広告が勝負。」
御影は手の平を上に向け、
乗っていない何かを見せるような仕草をした。
「ファミコンでゲーム出せれば、
一発逆転もある。
でもあそこはライセンス制。
新興メーカーが参入できる枠なんて、
ほとんどない。」
それは、業界の冷徹な構造だった。
「じゃあPCでどうやって食っていく?
答えは簡単。
“分かりやすくて、短期間で作れて、
確実に売れるもの”
だ。」
御影の声に、
僅かな苦味が混じる。
「パズルゲーム。
アクション。
簡単なアドベンチャー。
そして―エロゲー。」
その言葉を口にするとき、
御影は視線をほんの少しだけ落とした。
「PCの世界では、エロは強い。
表現規制もゆるい。
雑誌の端っこに広告出せば、
買ってくれる層がいる。
経営的には、“正解”だ。」
「…じゃあ、俺たちは
エロゲーだけ作っていればいいんですか。」
赤木の声には、
怒りというよりも、
悔しさがにじんでいた。
「それは―」
御影は言葉を切り、
一瞬だけ目を閉じた。
「その言葉に真正面から反論できないから、
俺は、今もここにいる。」
自嘲するような笑い。
「俺だって、本当は世界を作りたかった。
ダンジョンをまわり、大陸を旅して、
プレイヤーの人生の一部に
なるような物語を。」
「でもな。
現実は、ファミコンで
“適当なキャラゲー”
作った方が金になる。
PCでは
“刺激が強いゲーム”
作った方が、数字が安定する。」
机の上の企画書を、
御影は軽く叩いた。
「これをやるってことは、
“わざわざ赤字を選ぶ”
ってことだ。」
赤木は黙って聞いていた。
隣でそれを見守る黒瀬の拳が、
膝の上で静かに握られている。
「会社は、赤字を選ばない。
給料は理想じゃ払えない。
俺も…
一度、思い知った。」
御影の視線は、
どこか遠くを見ていた。
そこには、
若い頃の自分の影があるのかもしれない。
「だから言う。
“これ”は、
今は通せない。」
沈黙。
それを破ったのは、
赤木の笑い声だった。
小さいけれど、
はっきりとした笑い。
「…やっぱ、そうですよね。」
「分かってたのか。」
「分かってましたよ。
こんなの、ロマンと手間しか
詰まってないですから。」
赤木は、
自分の企画書をそっと
撫でるように見下ろした。
「でも、やりたかったんです。」
御影が目を細める。
何かを計るような視線。
「売れなくてもいいってことか。」
「…いや。」
赤木は首を振った。
「売れたいです。
めちゃくちゃ売れてほしい。
ゲーム屋なんだから。」
少しだけ照れたように笑って続ける。
「でも俺は、
“何でもいいから売れればいい”
とは思えない。
世界をひとつ作って、
誰かの人生の一部に食い込んで―
そのうえで売れたい。」
「……。」
「それって、
そんなに間違ってますか?」
御影は、
答えなかった。
答えられなかった、
と言った方が正しいかもしれない。
会議室の時計の秒針の音が、
妙に大きく聞こえる。
長い沈黙の後、
御影は企画書を赤木に押し戻した。
「…ただ、今それは、
完全に間違ってる。」
その言葉は、
ナイフではなく石だった。
鋭くはないが、
重い。
「現実は、夢に優しくない。
特に、金を回さなきゃいけない
立場にはな。」
赤木の目が揺れる。
それでも、その火は消えていなかった。
御影はゆっくりと立ち上がる。
「ただ―
“間違ったまま押し通すバカ”が、
いつか時代を動かすこともある。」
扉の前で足を止め、
背中越しに言った。
「…俺は、もうその役は降りた。
だから、お前のそれを今ここで
通すことはできない。」
「でも、俺が全部正しいとも限らない。」
御影はドアノブに手をかけた。
「その企画が本当に必要なものなら―
いつか、誰かが拾う。」
扉が閉まる音が、妙に長く響いた。
会議室に、赤木と黒瀬だけが残される。
しばらく、誰も口を開かなかった。
先に動いたのは、赤木だった。
「…なあ、黒瀬。」
「なんだ。」
「俺たちで作れねえかな。
全部じゃなくていい。
“世界の形”だけでも。」
黒瀬は目を丸くする。
「個人開発で、か。」
「ファミコンは無理だろ。
任天堂のライセンスも通らない。
でもPCなら―
雑誌の片隅に広告出して、
何本かでも売れたら、
それはもう
“世界が誰かに届いた”
ってことだろ。」
黒瀬は、
黙って赤木を見つめた。
(こいつ、本気だ。)
「…お前、
会社にバレたら怒られるぞ。」
「怒られたら、そのとき考える。」
赤木はあっさりと言った。
「御影さんの言うことも、分かるよ。
会社守らないと、人も守れない。
正論だと思う。」
「なら、おとなしくエロゲー作るか?」
黒瀬は笑いながらいう。
「やだ。」
赤木も笑いながら即答した。
「俺たちがエロゲー作ったところで、
それで誰かの人生
変えられる気しねえもん。」
黒瀬は、思わず笑ってしまった。
「…お前、バカだな。」
「うん。
でも、バカにしかできないことってあるだろ。」
その言葉に、
黒瀬の胸が少し熱くなる。
「…やるなら、
ちゃんとやるぞ。」
「お、巻き込まれてくれる?」
「巻き込んでいる張本人が
言う言葉か?
でも、お前のそういう顔、
放っておけない。」
赤木はニヤリと笑った。
「じゃあ、“個人的な世界計画”始動だな。」
ブラウン管の画面が、
ゆっくりと明滅する。
青い文字で打たれていく
新しいファイル名。
LOST_KINGDOM.BAS
その瞬間を、黒瀬は鮮明に覚えている。
(あの時――
俺(黒瀬)は、『世界を作る側』に
チャンスを見たんだ。)
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◆再び現代編
***2025年・夜***
資料室の薄暗い明かりの中で、
俺はファイルを閉じた。
紙の匂い。
擦り切れた端。
手書きのメモ。
―そして赤ペンでボツ―
その赤を受け入れたのは、
異世界の勇者でも、
生まれつき選ばれた天才でもなく―
「…普通に、悔しがってる開発者だ。」
口に出した瞬間、
妙な安心感が胸に広がった。
(うまくいかない。
現実はきつい。
でもそれでも、
“世界を作りたい”
って人がいた。)
椅子の背もたれに身を預け、
天井を見上げる。
「俺、
作りたいのかな。」
まだ分からない。
“世界を作りたい”
と言い切れるほど、
腹は据わっていない。
でも―
「“作れないまま終わる”
のは、めちゃくちゃ悔しい。」
その言葉だけは、はっきりしていた。
(向いてるかどうかなんて、
まだ知らねえよ。
始めてもねえのに決めつけんなよ、
って話だよな。)
ふと、
昼間の桐谷の言葉が頭をよぎる。
『向いてる人は、もう始めてる。』
(…なら、
始めればいいだけかもしれない。)
ノートPCの画面に、
自分の顔がぼんやり映る。
疲れている。
けれど―朝より少しだけ、
目に光が戻っている気がした。
資料室の窓の外、
モノレールが夜空を横切る。
暗闇の中を走る、細い光の線。
「終わりたくないな。」
ぽつりと落ちた言葉は、
誰にも聞かれない。
「…悔しいまま終わるのは、
もっと嫌だ。」
声に出してみると、
胸の奥に溜まっていた何かが、
ほんの少しだけ溶けた。
椅子から立ち上がる。
どこに向かうか、
具体的な道はまだ見えていない。
でも、
“ここで全部投げ出す”
という選択肢だけは、
静かに自分の中から外れていった。
資料棚の向こう、
黒瀬さんがこちらを見ている気がした。
目が合うと、
彼はいつものように、
わずかに口元を緩める。
何も言わない。
何も教えない。
ただ
“見ていた”
という証拠だけがそこにある。
(……この人、
たぶん全部知ってるんだろうな。)
俺は、
もう一度ファイルの表紙に目を落とした。
『失われた王国』
失われたはずの何かが、
まだどこかで続いている気がした。
雨に濡れた架線の上を走る
モノレールの金属音が
不協和音のようにキーンと音を立てて、
そして遠ざかる。
世界はまだ何も変わっていない。
でも、俺の中でひとつだけ――
「終わらせない理由」
が、静かに生まれつつあった。
(※ここから作者より)
第3話まで読んでくださり、ありがとうございます。
第2話で予告したとおり、この物語は
・夢の中の「勇者アリオン」の物語
・2025年・ゲーム会社パート
・1980年代のゲーム制作パート
という三つの時間軸が行き来する形で進んでいきます。
今回の第3話から、その三つの時間軸が実際に絡み始めました。
少し重めの内容が続きましたが、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
ひとつお伝えしそびれていたのですが、
この物語の第1章は【第1〜4話】でひと区切りになる予定で、
次の第4話は「物語はじめのハッピーエンド」になります。
今回のようなちょっとつらい展開はいったんここで落ち着くので、
ここまで付き合ってくださった皆さんには、ぜひ第4話まで見届けてもらえたら嬉しいです。
▼更新予定
・第4話:明後日 12/7(金) 今推敲してますので投稿は21-23時になります。
もし「続きがちょっと気になるかも」と思っていただけたら、
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