夏の痕跡
中年の夏。暑い。車の中、エアコンを点けていても汗が滲み出る。喉が渇く。自販機のある所へハンドルを切った。
三つの川が交わる水門へやってきた。周辺は木々が生い茂り、畑があったりする。何年か前の晩秋にここを通った。水門に日溜りができ、そこに無数のトンボが浮遊していた。この季節にトンボがいる!驚いたものだ。今は青々とした木々が直射日光に晒されている。こう暑くてはまだ姿を見せない、涼しくなって初めて山から下りてくる、それがトンボの生態である。
水門近くの集会場に車を停めた。この敷地内に自販機はある。隣には小さな社があり、ちゃんと鳥居もある。どちらの建物もずいぶん老朽化していた。利用頻度の少ない施設ならこれくらいでちょうどいいのか。車を降りる。ギクリとした。建物入り口の小さな階段に、帽子を被った老婆が座り込んでいる。ニコニコしながらこちらを見ていた。「どうも、こんにちは」声をかけてもニコニコしたままだ。ガコン、ガコン、ペットボトルの水を買った。それとお茶も。親切心、それと少しの好奇心が湧いた、お茶を渡したら彼女、どんな反応をするだろう。
「暑いですね!どうぞ飲んでください」老婆にお茶を差し出す。彼女が突然、鋭い目つきでお茶を睨む。が、すぐにニコニコ顔に戻り「あらあら、ありがとう」といってお茶を受け取った。余計な事をしてしまったのかもしれない。何だか恐ろしくなり、何も言わず立ち去ろうとしたら、気づいてしまった。彼女の帽子、側頭部の辺りに何か付いている。オニヤンマだ!よし落ち着け、あれは本物ではない、近頃みるようになった虫よけである。ヒトに害をなす蚊などの害虫はオニヤンマを恐れる。それで昨今、子供や老人がオニヤンマの模型を身に着けるようになった。それにしても本当によく出来ている・・・
車に戻って水を一口飲む。すぐにも汗が滲み出てきた。
少年の夏。炎天下でも自転車を漕がなくてはならない。それには理由がある。学校も、買い物も、友達の家も、何をするにも歩いていくにはあまりに遠い。コンビニも書店も隣町にしかない。帰郷した叔父に小遣いを貰った。まずやることは新刊のマンガを買いに行くことである。それで書店へ漕ぎだした訳だ。「やっぱり空気が変わったなあ、お盆もすぎたしな」叔父は言った。確かに少し前までの熱帯の空気ではない。もうすぐ夏休みが終わってしまう、抗うように自転車を漕ぎつづけた。金が入り次第マンガを買いに行く、金もないのにそれが生きがいなのだ。それほど暑くはないそれでも喉は渇いた。
通りがかった集会場の奥に、自販機を見つけた。自転車を止める。建物に何か親近感を覚えた。近寄ると、ガラス窓が家のガラス窓と同じものだった。迷路みたいな模様つきの。それは迷路ではない、途中で途切れてしまう、どこから始めても。それでも幼いころは何度も何度も試みた、模様はどこか、思いもよらない所につながっているのではないかと。
隣には小さな社がある、小さな鳥居も。鳥居の前で若い女性が手を合わせていた。心外である。ここにいるのは自分だけだと思っていたのに。彼女には目もくれず自販機に硬貨を入れた。「こんにちわ」声を掛けられ思わずドギマギした。振り返ると、若い女性が和らかな笑みを浮かべていた。「どうも」ソッポを向いて缶ジュースのボタンを押す。ピピピピピ!よりによって当たりの音がした、オマケでもう一缶選べる。ガコン。スポーツドリンクにした。何故かは分からない、スポーツドリンクを若い女性に差し出した。「あら!ありがとう!」そういうと彼女は、砂漠を彷徨っていた獣みたいに、一気に飲み干した。獣のそのものの目つきで。恐ろしくなって自転車に駆け込んだ、彼女は一体何だろう、疑問はあったが最優先はマンガだ。書店へ向けて再び漕ぎだしたのだった。
いつかの夏。バイクで走っていた。車は手放した。あまりに金がかかるし、もう遠出することもない。移動は専ら原付バイク。この歳になればそれで事足りる。バイクに乗っていても暑いものは暑い。年寄りになれば知らぬうちに水分不足に陥るとも聞く。喉は渇いてないが自販機を目指した。
自販機は集会所の奥ではなく、道路沿いに移動していた。なるほどそのほうがいい。ここには誰もいない。自分以外は。バイクを停める。改築された建物と、真っ赤に塗られた鳥居を目にして、思わず声がでた。「ああ、立派なもんだ」。こうやって人々から必要とされるものは生まれ変わり、遺り続ける。何だか感動した。小さな集会場と社が、どんな歴史的建造物や古代遺跡よりも偉大に思えた。ガコン。いま必要なのはペットボトルの水だ。
水を飲む。一口飲み、入口の小さな階段に目をやる。空き缶が置かれていた。飲み口にトンボが止まっている、トンボも喉が渇いているのか。空き缶に水を注いでやったら飲むだろうか?「ああ、生き返ったよありがとう!」トンボが礼をいう、そんな想像をして愉快になった。
バイクに跨る。目が眩む。真新しい屋根が夏の日差しを反射したのだ。集会所全体が輝いているようだった。「立派なもんだ、立派なもんだ」そう繰り返して、バイクを発進させた。どこかに向かって。