33
「台所が汚れてる!穂乃果、料理をしたなら片付けなさいって何度も言ってるでしょう!」
母親が私の部屋に入ってきて、そう叫ぶ。スマホから目を離して、私は視線を向けた。
「……私じゃないよ。昼ごはん作った後、優真が台所に立ってたから、何か作ったんじゃないかな」
「作らせたの?!昼足りなかったんじゃないの?気を利かせて作ってやんなよ、お姉ちゃんなんだからさあ。あの子が片付けまで出来るわけないじゃない」
「……もう中学生だよ?できるでしょ……私やってたじゃん……」
「男の子はできないんだよ。もー、しっかりしてよ穂乃果、お母さんはやらないからね」
「…………」
これ以上反論しても無駄だ。弟に言ったってやるわけがない。結局夕食を作るのも私だろうし、大変なのはどうせ私だ。無言で立ち上がって、1階の台所へ行く。
途中で、階段の壁を見る。弟が小さい頃に描いた絵が貼られている。私のは、ひとつもない。母親に絵をプレゼントすると、いつもあなたの絵は色が少ない、だとか子供っぽくないのよね、なんて言われて貼ってもらえなかった。視線を外して、台所へ向かう。
調理器具もゴミも、全て出しっぱなしだ。私は溜息を吐いて、ゴミを片付けていく。生ゴミ、プラスチック、普通ゴミ。ちょっとでも分別を間違えると、持っていってもらえない。ゴミ袋に名前を書いて出さなくちゃいけないから、少しでも間違っていると名指しで晒されてしまう。前に一度間違えて、母親にこっぴどく叱られた。
都会のゴミ処理場は立派だから、生ゴミも普通ゴミも、何ならプラスチックも一緒に出していいって聞いたな。いいなあ。しかも袋は何でもいいみたい。羨ましい。ここは専用のゴミ袋にそれぞれ入れなきゃいけない。
「あ、優真、ねえ台所使ったなら片付けてよ」
部屋から一階へ降りてきた弟へ向かって声をかける。弟はイヤホンを着けていて、こちらの声には気付かない。スマホの画面から目を離さずに、食器をガチャン、と流しへ置く。そしてそのまま2階へ戻っていった。
私は溜息を吐いた。まあ、でももう嘆いていてもしょうがない。スマホを壁に立て掛けて、先ほどまで観ていたドラマを流しながら作業を進める。
ガラッと引き戸が開いて、祖母が台所へ来る。どうしたのか、と思って振り向くと、私のスマホへ向かってニュッと手を伸ばして、画面をベタベタと触りまくる。
「え?何どうしたの?」
「これ、うるさいよ!こっちまで聞こえてくる!片付けくらい、静かにやんなさいよ!」
「え?あ、ごめん」
祖母のいる部屋まで聞こえるはずもない。そもそも、祖母は耳が遠いんだから。トイレに行くついでに、私のことを見つけて、動画を観ながら家事をしているのが気に入らなかったんだろう。
スマホはポケットにしまった。それから小声で歌いながら、作業を進める。
「ハハッへったくそな鼻歌だと思った!穂乃果か!」
「…………」
後ろを通りがかった父親がそう言う。何が面白いのかゲラゲラ笑って、そのままどこかへ行った。
こうやってちょっとずつ自分の何かを削りながら生きてて、それでも幸せだなんて思い込んでいて。
何のためにそんなことしてたんだろう?自分が惨めじゃないように?
言い返せば良かった。怒って暴れて、何も言うことを聞かなきゃ良かった。誰かが傷ついてもいいから、私を傷つけるなと主張すれば良かった。ずっと思ってたのに、行動に移せなかった。私って、何もできないんだ。
茶碗を洗いながら、ハッとする。水が出っ放しだ。止めないと。後ろから手が伸びてきて、レバーを下げてくれた。
「お待たせ。野菜切ればいい?」
「え?あ……はい」
レイさんが微笑んで私の隣に立つ。自分の手元を見ると人参が握られていた。レイさんは包丁を準備して、ザルに入れていた野菜を切り始めた。
あれ、昔のことを思い出してボーッとしてたのかな。私の横に立って、野菜を切っていくレイさんの横顔を見つめる。スッと通った鼻筋に、口元のラインがすごく綺麗。レイさんって横顔も本当に美人だな。ずっと見ていて飽きない。
目だけ動かして、レイさんがこちらを見る。
「……え?何か付いてる?」
「横顔綺麗だなって。私、レイさんの顔のファンなので」
そう言うと、レイさんは照れたように首を傾げる。
「照れてます?可愛い。言われ慣れてそうなのに」
「まあね。何回も言われてきてるよ」
「あ、急に可愛くなくなった」
「……何かでも、ホノカちゃんに言われると、照れるというか……」
「愛しちゃってるからですか?」
私は指でハートを作って、自分の顔の側に近づける。レイさんはそれを見て顔を赤くしてから、溜息を吐いた。
「すごい何回も擦るじゃん……」
「だって、嬉しかったんですもん。嫌ですか?」
「…………嫌味じゃないなら、いいよ」
「えへへ、やった!レイさん大好き!」
嬉しくてレイさんの肩に顔を寄せる。その瞬間、レイさんは顔を顰めた。私から一歩離れて、距離を取る。
「待って。近すぎるよ、ちょっと距離が近いよ?」
「え?ごめんなさい」
そっか、近過ぎたのか。嬉しくて、調子に乗ってたのかもしれない。
でも何で?愛をあげるって言ってくれたのに。どうして急に距離を取るようなことを言うの?レイさんの考えてること、全然分からないや。
私とレイさんの正しい距離って、何?それって、もしかしてどんどん離れて行くんじゃないの?もしかして、ずっと私のことを好きなわけじゃない?
そうだよね。だって私も私を全然好きじゃない。
「自分に自信が無いから、どれだけ口で愛を伝えられても信用できないんだろう?そのくせ、相手の一挙手一投足が気になって、嫌われたんじゃないかって不安になって」
アズマさんが私の首を絞めながら言う。苦しい。でもその通りだ。苦しい苦しい。正しいことを言われると、苦しくなる。正解も、正論も、何もかも。
自分が間違っているって気持ちしかないから。
酸素のバルブに手をかける。
「いいの?本当にいいの?」
ナイフを手に握る。
「どうするの?ホノカ?どうする?」
……疲れちゃったかも。
薬を飲み込むくらいなら、簡単。
おしまい。
******
「………………」
気持ち悪い。胃の辺りが熱くて猛烈に痛い。視界が回っている感じがする。反射的に横を向いて、そのまま吐いた。もっと吐きたい。でももう出てくるものも無かった。吐く元気も無くなって、そのままもう顔を動かすのも嘔吐くのもやめた。
「……まだ気持ち悪い?…………、…………?」
誰かが何か言ってる。私の口を拭ってくれた。優しい手つきだ。
そのうち起きているのもしんどくなって、私はまた目を閉じて眠った。
******
「……………」
ベッドの上で目が覚めた。胃の辺りがズキズキと痛む。顔を動かすだけで気持ち悪い。横に点滴棒が見えた。パックがぶら下がって、私の腕につながっている。ふと腕の先を見ると、誰かが私の手を握りながら、私の体の上で突っ伏して寝ている。レイさんかな。
あ、私死ななかったんだ。
全身が脱力した。安心したような、がっかりしたような。
カーテンから淡い月明かりが差し込む。そういえば、ここはどこなんだろう。ボーッと眺めていると、手元のレイさんがモゾモゾと動き出した。
寝たふりをしてしまおうかな。話す気に今はなれない。……私って本当に逃げてばっかりだな。そのまま目を瞑った。
「…………」
腕の重みがなくなった。レイさんが体を起こしたんだろう。寝たふりを続ける。
「…………」
部屋から出て行くかと思ったのに、レイさんは動かない。不意に頬を撫でられる。そのまま前髪を払われて、目、鼻、唇と指で辿られる。そして再び手を握られた。
「……見当たらないと思ったんだよ、一袋。1番即効性のあるやつでマズイと思ったけど、誰も落ちてる薬なんて飲まないでしょ?どこ見ても無いし、いいかと思って。……そんなわけないよね。ダメだな。疲れてたからかな。あの時ちゃんと探せば良かった」
レイさんは握った私の指を一本一本丁寧に触り出す。親指の腹と腹を合わせて擦り合わせたり、爪の先をなぞったり。あまりに優しい触り方で、何だかものすごく恥ずかしくなってきた。
過度なスキンシップはしない、と言っていた割に寝ている私を触り放題だ。
「シュウとのことも、すぐに聞き出せば良かった。どうしたか気になってたけど、あそこで触れるのもどうかと思って。帰ってからゆっくり聞けばいいかなって。……どうしてすぐに忘れちゃうんだろうね。この後、とかまた後で、が当たり前にくるわけじゃないってこと。こんな世界なら、尚更。馬鹿だ、私」
違う。全部私が勝手にやったことで、レイさんは何も悪くない。薬だって、私が何となく1つ隠し持っただけで、きっと探したところで出てこなかった。出すつもりもなかった。私が隠し持つなんて発想も出ないだろうし、アズマさんが疑われるくらいかな。
シュウくんのことだって、私から話したって良かったんだ。別にレイさんのせいじゃない。後ろめたいから、隠したいから言わなかっただけ。馬鹿なのは私だ。レイさんは何も悪くない。
私、死ぬ前にレイさんのせいじゃないよって伝えたと思うんだけど、もしかして声に出てなかったのかな。ちゃんと伝えないといけないって思ったのに。真面目だから、自分の薬のせいでって思うかもって。
どうしよう。起きて伝えた方がいいのかな。
レイさんは私に指を絡めて、手を繋ぐ。しばらく力強く握ってから、レイさんは溜息を吐いて手を離す。
「……私って重かったんだろうな……。優しくされたり、大切にされると辛いってそういうことだよね……。プレッシャーだったね、ごめんね。二人暮らしだったから、逃げ場もなかったか。あー……」
レイさんはそう言って、顔をベッドに埋める。はあ、とまた溜息を吐いて、しばらく無言だった。
「…………ホノカちゃんが死んだら、生きてる意味も無い、なんてクソ重かったな。何で言っちゃったんだろう」
私の手の甲を、レイさんが撫でる。
……そういう意味だったんだ。私やっぱり、変に勘違いしてたな。
もう目を開けてしまおうか。だってこんな、全部聞いてしまったらレイさんに悪い気がする。
そんな風に思っていると、レイさんは私の手を取って、自分の頬に当てた。温かい。
「……ねえ、何で薬飲んだの?死んでもいいって思った?私が悲しむとは思わなかった?」
急に冷たい声になった。その声の温度にギクリとする。
「…………」
レイさんは私の手の甲にキスをして、ベッドに戻した。指で私の頬を撫でる。
「おやすみ」
そう言って、立ち上がり扉を開ける音がした。ドアが閉まってから、ゆっくり体を起こす。吐き気と目眩が襲ってきて、しばらく動けなくなる。
「…………」
レイさん、怒ってた。私に対して怒るなんて、初めてだ。
それもそうか。毒薬盗んで飲んじゃうんだもん。嫌にもなるよね。生き残っちゃうし。レイさんが治療してくれたんだろうな。申し訳なかったな。
……あの状態でどうやって運んだんだろう。絶対大変だったはずだ。
迷惑をかけてしまった。ちゃんと謝らなきゃ。
起き上がったけれど、やっぱりまだ本調子ではない。再度横になって、私は微睡んだ。
******
「…………え、え?!」
びっくりして飛び起きる。何だかものすごく寝てしまった気がする。清潔な白いシーツに、白いベッド。真っ白な陽の光が差し込んで、全て白い世界だ。自分が着ているパジャマも白い。こんなに全て白いと目がチカチカする。ここはどこだろう。さっき寝ていた場所とは部屋の広さが違う気がする。
「おはよう。起きた?今日は熱はどうかな。先測るね」
真っ白なTシャツに、真っ白なパンツを履いたレイさんが部屋に入ってくる。
レイさん、と呼び掛けようとして声が出ないことに気付く。唇もうまく動かない。あれ、どうしたんだろう。
慣れた手付きでレイさんが検温をする。その間に、私の手首に指を当てて脈を測る。体を動かそうとするけれど全く動かない。まるで人形のようだ。レイさんはそんな私を当たり前のように受け入れている。
「熱、無いね。良かった。お腹空いてる?ご飯食べようか」
そして事前に用意してあったトレーを、ベッドサイドのテーブルに置かれる。でも、真っ白のお皿の上には何も載っているように見えない。困惑していると、レイさんはシルバーのフォークを何もない皿に刺す。
「はい」
私の口の前に差し出した。いや、はいも何も、と思っているのに口は動く。差し出された何かを口に含み咀嚼するけれど、味も何もしない。噛んでいる感覚すらない。
ああ、これは夢なんだ。不思議な夢だな。明晰夢なら自由に動けるはずなのに、何も動けない。
2口目、3口目と食事を進めて行くうちに、レイさんの手の動きが止まった。どうしたんだろう、と思って視線を向けると、ポタポタと涙を流していた。
え、どうして泣いているの?
声をかけたくても声が出ない。もどかしい。
ひとしきり静かに泣いた後、レイさんは慣れた手付きで涙を拭う。
「ごめん。はい、どうぞ」
涙声でそう淡々と言い、また私の口に食事を運ぶ。訳が分からない。どういうことだろう。
最後だよ、と言われ、虚無の食事が終わる。ただ食事をしただけなのに、すごく疲れた。味もしないものを淡々と食べるんだもん。夢って、もっと刺激的だと思ってた。こんな何もない夢もあるんだ。
「今日も手をマッサージするね」
レイさんはそう言って、力なく垂れている私の手を取って丁寧に触る。
そして気付いた。これ、寝てる間にレイさんが私の指を触っていた時と同じ手付きだ。マッサージだったのか。
「……気休めかもだけど、刺激になるかなと思って勉強してきたんだ。私、またホノカちゃんと話したくてさ。……でも、こんな世界で意識を取り戻して暮らすのと、夢現のまま何も知らないで暮らしてるの、どっちがいいんだろうね。ハハ……」
レイさんが笑いながら、泣いているみたいな顔をする。こんなレイさん、知らない。そしてそのままどんどん、笑顔が消えていく。また泣き出してしまった。
「ごめん、ごめんね。私の、私がワクチン打ったせいだ。全部、私のせいだ、ごめんね……」
私はただ、泣いているレイさんを眺めるしかできなかった。
……これ、もしかして、過去の記憶なのかな。そうかもしれない。ワクチンを打った後高熱を出して、下がった後は意識が曖昧な状態の期間があったと聞いた。そっか、レイさんはずっと1人で待っててくれたんだ。私なんかのことを。
レイさんは涙を拭い、マッサージを再開する。無理矢理明るい顔を作って、私に話しかける。
「私、ホノカちゃんの歌声大好きなんだ。また聴きたいな。ホノカちゃんは何かしたいことあるかな。叶えてあげたいな。……早く良くなるといいね。私、待ってるよ、ホノカちゃん」
眩しい。この人は、ずっと傷付きながらもこうやって立ち上がって真っ直ぐ生きているんだ。私のことも、ずっと大切にしてくれていた。待っていてくれたんだ。
それを私、何やってるんだろう。信用できないなんて、疑って。
でも、この時のレイさんは私を知らないからこんなことを言ってるのかもしれない。
それとも、これは私の都合のいい夢なのかな。勝手に作り出した記憶なのかもしれない。ああ、そうかも。私、こうやってレイさんにずっと大切にされていたかったんだな。
レイさん本人に確かめるのも怖い。私、怖がってばっかりだ。それでいいのかな。いいわけない。
確かめる勇気も必要だ。ぶつかって、傷つく勇気も。疑って、怖がって、信じられなくても、その気持ちをずっと引きずって背負って生きて行くしかない。だって私は結局、レイさんを信じたいんだから。逃げ道はないんだ。ずっとこの苦しさと向き合って行くしかないんだ。レイさんがしてくれたように、私がまず信じて苦しまなきゃ。
真っ白い世界の中で、私はレイさんを見つめる。白い服や陽の光よりも、レイさんが1番眩しく感じた。




