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残光の箱庭  作者: 米田
1章
12/34

9

 冬はちょっと憂鬱になる。朝起きる時に勇気がいるし、何だか暗くて気分も沈む。それに畑のお世話も寒くて嫌になってしまう。


 子供の頃は冬が楽しくて仕方なかった。降り積もる雪で遊びまわり、遊び終わった後に祖父がマシュマロを焼いてくれて、それをココアに入れてゆっくり飲むのが好きだった。

 今は祖父もいないし、冬がくることが憂鬱になってしまった。何だか大人になるって寂しい。


 そんなわけで私とレイさんの生活も長くなってきた。

 親からは連絡もこない。冬って受験生は殺気立つから、そちらの対応に忙しいのだろう。

 弟はここから電車で1時間近くかかるちょっと都会にある、有名な高校を受けるらしい。がんばってね、と連絡を本人に送っても何の反応も返ってこない。やっぱりピリピリしてるのかな。

 何だかなあ。いろいろ難しい。


 レイさんとは相変わらず仲良くできている、と思う。レイさんは最近前よりは目の下のクマも前より薄くなった。

 私の体調が安定してきて、前のように高熱を出すことも無くなったので安心したらしい。本人がそう言っていた。


 会話しているときに、薄氷の上を恐る恐る歩いているような気分になることもなくはないけど、特に喧嘩したこともなかった。これからもこんな生活が続いたらいいな、なんてのんびり思う。

 

「わーーー、寒い!帰りたい!」


 重ね着をたくさんして、上半身が膨らんでいる姿で外に出ているのに、ひんやりして寒い!アウターは内側が起毛素材で外側がキルトになっている。マフラーや帽子や手袋、一式身につけていて、レイさんには赤ちゃんペンギンみたいと笑われた。


 農作業するので汚れてもいいような格好にはしているけれど、絶対寒いのは嫌だ!多少動きにくくても寒さを感じない格好にしている。そのはずなのに、私は震えながら外へと足を踏み出した。

 冬はこれだから苦手。星が綺麗とか、空気が澄んで綺麗とか、農作業が夏よりは楽とかいいところもあるけれど。


 せめてもの抵抗で、朝日が昇ってから活動している。暗いうちに家を出るのはやめたほうが、とレイさんも言っていたのでお言葉に甘えることにした。


 レイさんにジビエを所望されたので、獲れたウサギや鹿のお肉を料理して出したら、驚いたあとに神妙な顔をして大事に食べていてちょっと面白かった。


 その後レイさんから、害獣はこれからも出るだろうし外側の畑に影響が出ても困るから、狩猟は続けてほしいと言われたので続けている。仕掛けた罠の確認も毎日のルーティンとして組み込んでいる。


 朝は雑草抜いたり傷んでいる葉の整理したり壊れてたらマルチングの修復をしたり、あと収穫できるものがあればしてしまう。寒いので、陽が高く上る午後に水やりなどをするので朝はそんなに時間はかからない。


 お庭の畑のお世話をして一回家に帰ってレイさんと朝ごはんを食べて、一旦家事をこなしてからまた外に出る。そこから罠の確認や水やりやおじいちゃんの畑を見に行ったりする。

 でもそんなに冬なのでやることもなく、毎日結構ゆるく過ごしている。罠に毎日動物がかかっているわけでもないし。まあかかっていたら解体などで時間がかかってしまうんだけど。


 今日も早々に作業を終えて、家へ向かう。レイさんは今日は部屋で缶詰になっているらしい。邪魔にならないようにリビングでドラマでも観ようかな、なんて思っていると家の高い塀が見えてくる。


 

 その高い塀の中へ通用門から足を踏み入れた瞬間、聞いたことのないような甲高いサイレンが鳴り響く。



「……えっえ?!なになになに?!」


 急に大きい音が鳴ったので、心臓が飛び跳ねる。不安を煽るような不気味な音で気持ち悪い。地震が起こったわけでも、津波がくるような位置でもないので、こんなサイレンが鳴る理由が分からない。


 それに過去一度訓練か何かで誤作動が起きた時、こんな音ではなかったような気がする。なんだろう。

 私がその場で戸惑っているうちに、玄関からレイさんが出てきた。その表情からは緊張が見てとれた。


「レイさん?これなんですか?」

「……多分村の入り口に置いてあるセンサーが反応したんじゃないかな。クマとか?」


 レイさんの肩には黒いリュックが掛けられていて、手には車の鍵が握られている。

 相変わらず他人と会う可能性がある時は以前温泉に行った時と同じ、性別も顔もよく分からないようにダボダボして顔も隠す仕様だ。


「そうなの?クマ?初めて聞いた……」


 熊が山の奥にいるのは知っているが、村まで降りてくることもそんなになかった。それに警報が鳴るようなことは今までなかった。今年から新しくなったのかな?


「レイさん見に行くんですか?」

「えーと、うん、そうだね。やっぱり一回は見ておきたいかな」


 レイさん、そういう野次馬っぽところあったんだ?意外に思いつつ、私はレイさんの後ろをトコトコ付いていく。


「ホノカちゃんは待ってていいよ」

「え!私も熊見たいです!」

「いや熊かどうかも分からないし……」

「えー何だろう、じゃあキツネとかたぬきとか猪とか?」


 そういうわけでもないんだけれど、とレイさんが口ごもる。


「……付いてっちゃ、ダメでしたか?」


 熊なら見てみたいと思ったけど、ダメだったかな?ちょっとシュンとしてしまう。熊はさすがにおじいちゃんも連れて行ってはくれなかったしなあ。

 私のその様子を見て、レイさんは髪の毛をガシガシとかきあげた。


「ええ……うーん、じゃあ分かったけど、絶対車から出ないでね」

「やった!わかりました!」


 私はそう言って、車に乗り込むのに汚れたアウターでは気が引けるので玄関横にあるクロークから別のアウターを取り出し、靴も履き替えた。

 レイさんが車を車庫から出し、すぐ近くに付けてくれる。この間も不気味なサイレンは鳴り止まない。車に乗り込むと、すぐにサイレンの鳴る方へ動き出した。


「……あ、止まった?」


 目的地へ向かう最中に、サイレンが鳴り止む。


「誰か止めたのかもね」


 レイさんの言い方にすこしピリッとした緊張が混じっていた。何でだろう?近くにいた誰かが止めたんじゃないだろうか。うるさいし。


 しばらく走ると、隣町と村を繋ぐ道路の出入り口付近に一台の車が止まっているのが見えた。

 車の前面部はどこかにぶつけたのかボコボコに凹んでいた。パンクしているのか、タイヤもぐにゃぐにゃになっているように見える。


 車の外には女性が1人いて、車の運転席の扉を開けて中の人物と喋っているようだった。

 私たちが近づくと、女性はこちらへ驚いたような視線を向ける。

 レイさんはその近くへ車を停車させる。シートベルトを外しながら、私へ言う。


「絶対外出ないでね。もしも私に何かあったら家引き返して」


 ゴソゴソと鞄を漁り、私にマスクを手渡してくる。疑問に思ったが素直に身につけた。


「え?そんなに大変な状況なんですか?」

「まあ、ね」


 そう言ってレイさんはサッとマスクをつけて車を降りていった。レイさんは相変わらずの心配性だ。

 私は窓からこっそり様子を伺う。


 女性はかなり線の細い人だ。背筋がシャンと伸びていて、身を抱くように腕組みをしている。眉間に皺を寄せ怪訝な表情を浮かべ、薄い唇をキュッと結んでいる。

 ジロジロと遠慮なくレイさんを観察するその視線は、どことなく神経質そうな印象を受けた。年齢は私やレイさんとはだいぶ離れているだろう。


 レイさんが話しかけると、二言三言話したあたりで、車から大柄な男の人が出てきた。背も高いが恰幅も良く、まさに熊みたいだった。

 優し気に目が細められているけれど、単に糸目なだけなのかな?穏やかで優しそうな、物語の中のクマさんを連想させるような人だ。この人はマスクを着けていた。女の人の方はしていない。


 この2人は夫婦なのかな?この人が降りてきてレイさんとやり取りし始めて、女性の方が先ほどよりも少し和らいだ表情になる。

 3人は話しているうちにちらりとこちらの車に視線をよこす瞬間があった。私のことを話してるのかな?見えているのかは分からないけれど、とりあえずペコリと頭を下げた。


 どれくらい長く話していたか正確な時間は分からないけれど、立ち話にしては長い時間3人は話し込み、そのうちレイさんが私の方へ歩いてきた。

 窓を開けるように指で合図されたので、一番下まで下げる。


「ーーー車が警報器にぶつかったんだって。覚えてるかな、尖ったものが温泉の道中で地面に撒かれてたでしょ?それ踏んでパンクしてここまで運転してきて、最後の最後でハンドルきかなくなったみたい。その衝撃で鳴ったらしいよ」


 確かに、警報器には折れ曲がっている箇所がある。あそこにぶつけたのかな?


「ご夫婦で東京へ向かう途中だったみたい。旦那さん、腕怪我してるみたいだし車も動かなそうだから乗せてってあげようと思うんだけどいいかな?」

「え、それは大変ですね。私は全然大丈夫ですよ」


 レイさんなら治療もできるだろうし、それが一番話が早い気がする。

 そしてレイさんは私に顔を寄せて小声で話しかけてくる。


「……ごめん、変な話だけどあの2人の前では私のことは『ヒカリ』って呼んでもらっていいかな」

「え?いいですけど……」

「ありがとう。名前もあんまり知られたくなくて」


 何か私の知らない複雑な事情があるのかな。必要があれば後で説明してくれるだろうし、深く聞かなくてもいいだろう。


「分かりました。ご挨拶した方がいいですよね」


 レイさんは頷いた。私は車から降りる。

 私が近づくと、旦那さんの方が目だけでも分かるくらい穏やかに微笑んでペコリと頭を下げてくれる。左腕を痛そうにさすっている。


「こんにちは。サイレンで驚かせてしまって申し訳ないね。ナリタ ケンイチと言います。こちらは妻のリカコ」


 奥さんがスッと隣に立つ。近くで見ると、ナリタさんの穏やかな感じがより奥さんの神経質そうな感じを引き立てる。

 こちらを遠慮なく上から下までジロッと観察し、口元はやはりキュッと結ばれている。ちょっと居た堪れない気持ちになる。


「あ、ご丁寧にありがとうございます。ホノカって言います。せっかく東京へ向かってる最中だったのに、事故なんて災難でしたね」

「いや、ははは、そうだね。助けてくれて助かったよ。ありがとう」


 ナリタさんが笑うとお腹が揺れる。笑うと怪我に響くようで、いてて、とちょっと顔を歪めた。ゆるキャラみたいでなんだかほっこりした。


「荷物移動するなら手伝いますよ。手、怪我されてるんですよね。どれ運びますか?」

「大丈夫よ。私がやるから。触らないで」


 私がそう言うと、すかさずリカコさんに制された。ピシャリとした言い方に甲高い感じの声、少し萎縮してしまう。


「リカコ、手伝ってくれると言ってくれてるんだから、まず感謝の気持ちを伝えないと。車にまで乗せてもらうんだから」

「荷物の移動は頼んでないわ」


 リカコさんは旦那さんにも同じ態度を取っていて、それが少し安心した。誰にでもこうなのか。私が何か粗相をしたからではないと分かって良かった。


「……。荷物は後からでも取りに来れるので、とりあえず移動の方を優先しましょう」

「そうね。そうするわ」


 レイさんがそう言うと、リカコさんは数点の荷物を抱えてこちらの車へ移動した。ナリタさんも腕を庇いつつ車に乗り込んだ。


 車の中では予想通りナリタさんが話を回してくれた。2人は北の方から下って東京を目指しているらしい。

 住んでいるところを聞いたらそんなところからはるばる来たのかとちょっとびっくりした。


「いや、なに、ちょっと東京に行く用事ができたものでね」


 私が驚いた声を上げるとナリタさんはそう言った。

 ナリタさんは製薬会社で働いていているらしいと聞いて、思わずレイさんと同じですね、なんてコメントしそうになったけれどレイさんが反応しなかったので私も黙っていた。


 リカコさんは子供専門の精神科医をしているらしい。顔には出さなかったけれど、意外に思った。子供たち怖がっちゃうんじゃないかな、なんて。ご本人が子どもを好きなのかもしれない。

 車に乗り込んでからもあまり喋らずにずっとこちらを観察しているかのようにジッと見つめてくる。やっぱりあの探られているような視線はちょっと苦手だ。


「……ところでヒカリさんは医者なのよね?専門は?」


 リカコさんが唐突にレイさんへ質問を飛ばす。車内の空気が途端にピリピリする。


「研修は内科でしたけど、すぐ研究へうつったので臨床はそんなに長くないんです」

「研究?何の?」

「感染症ですね。書類と検査数値ばかり見て、地味な仕事でしたよ。だから手技には期待しないでください。研修医と同じようなレベルです」


 レイさんが運転しながら肩をすくめる。

 製薬会社勤務だったことは伏せたいんだ。何でだろう。でもこの場で言及することじゃない。


「はは、それならリカコも同じようなものだろう」


 ナリタさんが笑って言う。途端にリカコさんはムッとした顔をした。


「何よ、この子よりはマシよ!何年医者やってると思ってるのよ!」

「精神科医じゃなあ」

「ちょっと!侮辱よ!医者ですらないあなたに言われたくないわ!」


 ちょっと面白い。この2人は正反対だけれど、こうやって長く2人で過ごしてきたんだろうな。リカコさんの神経質な感じもナリタさんのおかげで柔らかくなっている。


「じゃあ、今はお仕事お休みされてるんですか?」


 私がそう聞くと、リカコさんはスッと目を細めて黙る。ナリタさんは顎の下を触りながら答える。


「まあそうだねえ。長い休みの最中だね。正直ずっと働き詰めだったから、こんなに自由なのは初めてだよ」

「そう?あなた仕事の最中にも甘いもの食べに行ってたじゃない。私から見れば随分自由にやってたわよ」

「うーん、それを言われたら返す言葉もないなあ」


 はっはっは、とのんびりゆっくりナリタさんが笑う。

 

 それから家の前まで走ると、田舎の景色に急に現れた豪邸にリカコさんもさすがに驚き、ナリタさんも感嘆の声を上げていた。だよね、私も初見はそうなった。


 家に着いてまずレイさんとリカコさんがナリタさんの腕の応急処置を進める。

 とりあえず私は全員分の簡単なものだけどご飯を用意することにした。

 ナリタさんどれくらい食べるんだろ。とりあえずたくさんお米用意すればいいのかな。


「いやーーー折れてたね!あっはっは」


 頭の後ろを怪我していない方の腕で掻きながらナリタさんが出てきた。怪我したと言っていた腕は三角筋で吊ってある。その後ろを呆れたような顔でリカコさんが歩いていた。


「え?!折れてたんですか?!大丈夫ですか?!そんな軽く?!」

「折れてるっぽいみたいだねえ。まあくっつくまで待つしかないね。でもこれじゃ運転はできないなあ」


 ナリタさんはチラリとリカコさんに視線をやる。それに応えるように、リカコさんはキッとキツくナリタさんを睨みつける。


「その怪我じゃ旅路の安全も保証されないでしょ。第一、車がお釈迦じゃない!新しい足を見つけるまでは無理ね」

「タイヤ交換すればいけると思うけどね……。まあ、確かに僕の怪我が治るまではどこにも行けないな。何があるかわからないしね、このご時世」


 そう言って怪我をしている方の手をさする。

 車での移動にこだわっているのかな?確かに、荷物も多そうだけど、全て送ってしまって電車で移動じゃダメなのかな?


 まあここの近くにある新幹線駅は、研究所関係者限定しか利用できず、一般人は乗れないので在来線で都会まで出ないといけないのだけれど……。それを尋ねると、ナリタさんは首を振る。


「そうだねえ、それができれば一番だけど、車で目指さなくてはいけないから。荷物も送るにしてもねえ」


 そっかあ。それなら治るまで待つしかないのか。でもこの辺りには宿もないし、どうするのがいいんだろう?


「……リカコさんが運転するのではダメなんですか?」


 レイさんが後ろから歩いてくる。フードは外したが、マスクやメガネは着けたままだ。

 リカコさんはレイさんへチラリと視線をやり、フンっと鼻を鳴らす。


「してもいいけれど、分かるでしょう?()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……まあ、そうですね。……ちょっとホノカちゃん、地下室から荷物持ってくるの手伝ってくれない?」

「え?あ、はい」


 私はレイさんの後ろへ付いていく。あの2人を部屋に残していくのは心配じゃないのかと思ったけど、レイさんは大丈夫だと判断したんだろう。

 

 地下へ向かう階段の途中で、レイさんが止まる。私の方へ振り返り、その後ろに視線をやる。

 人の気配はしないし、あの2人の声も聞こえてこない。随分リビングからは離れている。地下の冷え切った空気がここまで上がってくる。レイさんは腕を組み、肩を壁に預ける。


「……どう思う?あの2人」

「え?」

「多分だけど、怪我が治るまでうちで過ごしたいって言ってくると思う。まあ、予想はしてたんだけど……こっち連れてこなければ良かったかな。ちょっと安易だったかも」


 小さくレイさんが溜息を吐く。素性をバラしたくないレイさんにとっては他人が家の中に入るというのはイレギュラーで耐え難いことなのかな。


「うーん、そうですね。リカコさんは顔に全て出るタイプですね。あの人は他人を警戒してるタイプなので、ここに泊まるのは嫌がるんじゃないでしょうか?ナリタさんはちゃっかりしてそうだし、ここで過ごすことを望むかもしれないけど、リカコさんが嫌がるなら無理強いはしないでしょうね」


 レイさんもきっと概ね同じ見立てなんじゃないかな?思っていることを伝えると、少し驚いたようにパチクリと瞬きする。


「……。でももしナリタさんがリカコさんを説得して納得させて、ここに滞在したいって申し出たら?」

「断ってもいいと思いますよ。レ……ヒカリさんが家主ですし。この村の中でも近くでも、過ごせる場所は他にもあると思いますよ」


 聞かれるかもしれないことを考慮し、一応名前は伏せた。

 私があっさりそう言うと、レイさんはちょっと黙ってしまった。口元に手を当て、視線を床にそらし考えている。あれ?断るのはダメだったのかな?


「……。分かった、そうだね。断ろう。この村内で過ごしてもらう分には構わないし……」



「それはちょっと困るなあ」



 のんびりとした、穏やかな声が頭上から聞こえてくる。驚いて振り向くと、ナリタさんが相変わらず目を細めたまま上段に佇んでいた。


「な、ナリタさん?!全然音しなかった!忍者ですか?」

「ははは、いや昔取った杵柄ってやつかな。存在感を消すのが得意なんだよねえ」

「……全部聞いてたんですか」


 レイさんが睨みつける。それでもなお悠然と構えるナリタさんがちょっと怖く感じた。


「全部ではないけど、僕らを屋敷内には置きたくないみたいだね。それは君が素性を隠したいからかな?カンザキ レイさん」

「!」


 レイさんの顔が更に険しくなる。レイさんのフルネームって、そういえば私知らなかったかも?私はレイさんとナリタさんの顔を交互に見ることしかできない。


「製薬企業で働いている人間は騒動になる前から、君のことを知らない人間はいないんじゃないかな?特に僕は人の顔を覚えるのは得意でねえ。君みたいな美人なら尚更だよ。……髪は切ったのかな?」

「は、お世辞をどうも」


 レイさんが片目だけ細めて皮肉っぽく言った。ナリタさんは前からレイさんのことを知っていたんだ。

 やっぱり有名な人なのかな。その界隈ですごい記録を作った人、みたいな?


「お世辞なんか言うもんかい。……素性がバレてるなら滞在しても問題ないだろう?」

「ありますね。出てってどうぞ」


 レイさんは拒否の言葉をサラリと吐いた。うーんと唸り、ナリタさんは怪我をしていない方の手で頭の後ろをボリボリと掻く。


「……じゃあ交渉しよう。君、こんな世の中でこんな田舎にいるってことは、この近くの製薬研究所が目当てだろう。中には入れたのかい?」

「入って勝手に使わせていただいてますよ。新しいだけあって快適です」

「はっはっは。噂に違わず優秀だなあ。……でも、入れない部屋もあるだろう」

「……」


 レイさんは黙ってナリタさんを見て目を細める。その通りなんだろう。


「いや実はね、僕はあの会社の管理職でねえ……設計段階から関わっていたんだよ。残念ながら正式に開所する前にこんなことになってしまったけどね……。そんなわけで、ほら」


 ナリタさんはゴソゴソとポケットから何かを引っ張り出す。チャリン、と音がして、首から下げる紐がついたカードホルダーが出てきた。中にはちょっとシュッとしているナリタさんの写真いり社員証と思われるものが入っていた。何やら鍵も複数付いている。


 それを見て、レイさんの目が大きく見開かれた。

 ナリタさんはその表情を見逃さないと言わんばかりに、細い目を一瞬だけスッと開いた。獰猛な熊を思わせる瞳だった。

 何だ、やっぱりあのサイレンは熊が出たという知らせだったのか。


「取引だ。怪我が治るまで僕とリカコをここに置いてほしい。その代わり、僕が同行の元ならば研究所の全部屋を開放しよう。……どうかな?」


 レイさんは私の方をチラッと見た。優しいなあ。私が嫌なら、断るつもりなんだろう。


「……私は家主のレイさんに任せますよ。どちらでも構いません」

「ちなみにリカコは農家出身だから、農業全般の知識は豊富だよ」

「えーーーー!!農家トークしたい!全然私は構いませんよ!」


 コロッと態度を変えた私を見て、レイさんは苦笑した。


「……分かりました。それでお願いします」


 レイさんがそう言うと、マスクをしていても分かるくらいナリタさんはニヤッと笑った。


「はは、交渉成立だね」


 そう言って手を差し出し、レイさんも握手に応じた。

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