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帰りの車の中で会話が上滑りしてしまって続かない。どうやらホノカちゃんは私があの男と会っている間に、ハードケースの中をのぞいたようだ。仕方ないだろう。鍵もかけずに置いていたのだから。
見られるのは大したことじゃ無い。ただ、私がそれの説明をしても今の彼女は認識できないだろう。
私が腕を負傷したことも知られたくなくて、思わず体を避けてしまったのも良くなかった。拒否に感じただろうか。彼女の中の疑念が膨らんでも、聞くこともできない雰囲気にしてしまった。そんな雰囲気にした、私が全部悪い。
そうして出来上がったこの居心地の悪い空間をどうにかしたかった。こういう時自然に空気を変えたり、さらりとこれからも仲良く暮らしていきたいことを伝えられればいいのだけれど、どうやら自分にも歌や泳ぎ以外に苦手分野はあったようだ。あまり人とコミュニケーションを取っていて険悪になったことがないので、その対処がまだうまくできない。
具体的に何か喧嘩したわけでもないし、謝罪しても拒否の上塗りのようで相手に届かないような気がした。
このままは嫌だった。家に着く前にどうしても仲直りがしたい。またホノカちゃんに、自然に笑ってほしい。また歌も聴きたい。そう思ったら、思ったことがそのまま声に出た。
「私、ホノカちゃんの、歌が、聴きたい」
彼女は私の言い方に笑ってくれて歌ってくれたけど、その歌詞が要約すれば、私たちの関係は簡単に壊れてしまう関係だけれども、お互い大切にしていこうね、壊れちゃっても仲直りしようね、という内容だったので今の私に刺さって仕方がなかった。
これを今歌う?!
そう思ってホノカちゃんに聞いてみたけれど、歌詞はあまり気にしていなさそうだった。
私が表現できなかった仲直りのセリフをサラッと歌にのせて伝えてくれているようで、私は安心したのに。同時に、自分よりも年下の彼女がこうやって何でもないように私にできないことをやってのけてしまうことに、感謝と己の情けなさを感じる。面目ない。
彼女は普段は幼く感じるところが多いのに、急に大人びたように微笑んでこちらを全て赦してくれるような行為をしてくる。
それに私は毎度救われているような気持ちになると共に、己の不甲斐なさも痛感する。
ホノカちゃんの前ではどんなに平静を取り繕っても、内面がグチャグチャに掻き乱されているような、そんな滑稽な自分がいることを自覚している。
ずっと緊張していたからなのか、歌の続きを聞きながら私はいつの間にか眠ってしまっていた。久々にいい夢を見た気がする。
***
何だか一気に空気がひんやりし始めた。朝起きるのもちょっと億劫になってきた。
そろそろ冬が来る。霜が降りたら野菜達も可哀想だから、そろそろ寒さ対策しなきゃな。そんなことを考えながら、朝ごはんのトーストをかじる。
あの温泉から帰ってきた日から、私は学校に通いたいとは言い出さなくなった。
何となく、もうそのままでいいと思った。今穏やかに生活できていればいいや。
学校には通ってないけど、やっぱり作物を育てるのは好きだったので、実はレイさんの家に植えきれなかった小麦などの穀物も、鬼籍に入ったおじいちゃんの放置された畑にこっそり植えた。大丈夫しばらくはバレないでしょう!
学校の友達から連絡はきているけれど体調不良ということにしてあるし、まだそんなに日にちも経ってないからか親にはバレていない。
どうせ、ここから冬にかけて受験生が一番ピリピリする時期が来る。私は邪魔者だろう。
レイさんには申し訳ないけど、しばらくまた居候させてもらおう。この間お世話になっていることだしお金を渡そうとしたら、家事もしてくれてるしいらないと言われてしまった。
どうしても、と受け取ってもらおうとしたら、『じゃあ私もジビエ食べてみたいな』と言われてしまったので今度罠でも仕掛けに行かなくては。免許がないことをレイさんに伝えると、ちょっと困った顔をした後に『うちの裏の山、買い取ったって聞いてるし私有地だよ。バレないんじゃないかな?少なくとも誰も入らないだろうし』と言ってくれた。
まあ、そう言ってくれるならやってしまおうかなあ。狩猟解禁は確かまだ先だ。もう少し経ったら始めようかな。鹿さん、害獣だからね。
レイさんも最近私がちょっと遠出しても何も言わない。出先を伝えれば、あまり遠くない限り特に止められない。一ヶ月経ったのに、学校に行かないことにも特に言及してこない。
私たちは曖昧にしてふわふわした状態のまま、大事なことに触れずに生活している。それがいいのか悪いのか、分からない。でもそれでも幸せだから、今はとりあえずこのままで。
朝ごはんを食べ終えるとレイさんを見送って、一通り庭の作物のお世話をしておじいちゃんの畑も見にいく。午後は家に帰って軽くお掃除してご飯作ったりしよう、なんていつもの変わらないルーティンを頭に思い浮かべながら自転車に乗る。
この自転車は自宅のもので、レイさんのものではない。おじいちゃんの畑へ向かうときにちょっと借りてる。一旦家に寄って自転車を返してから、レイさんの家に向かう。そろそろ冬物のコートも家から引っ張り出さなくちゃ。
そんなことを考えていると、エンジン音が聞こえてきた。目を凝らすと、家の前でフラフラ走っている軽トラックが見えた。かなり蛇行している。
あ、と思った瞬間には道から逸れて田んぼの方へゆっくり落ちていった。自転車を慌てて乗り捨てて、軽トラへ走って近寄る。
片側のタイヤが浸かるような形で、軽トラが田んぼに落ちている。
「大丈夫ですか?!」
とりあえず道の端から大声で呼びかける。返事はない。中を覗くと、運転席で女性が気絶している。顔がぐったり俯いていて、見えない。ど、どうしよう。ドアに手をかけてもロックがかかっているので開かない。若干パニックになりながら、私はレイさんへアプリ経由で電話をする。コール音一回でレイさんが出た。
『もしもし?』
「あ!レイさん、大変です!今うちの前で軽トラが田んぼに落ちちゃった!女の人が中で気絶してるの!どうしよう」
『え?知らない人ってこと?』
「そうです、助けないと!ドアはロックかかって開かないし、割るしかないかな、どうしよう」
『そうだね、割るしかないと思う。レスキューハンマーは家にないかな?無いなら、端っこを何か棒とかスコップとかで突いてみて。気をつけてね。私もそっち向かうよ。電話喋らなくてもいいから繋ぎっぱなしにしておいて。分からないことあったら、聞いて』
「わかりました!」
そう言って私は走って家の物置からスコップをもってくる。先が尖ってるので割れるんじゃないだろうか。ガンガンと体重をかけて突くとあっさりヒビが入り、最後は慎重に突いた。穴が空いた。スコップの先でガラスを払い、そこから腕を入れる。
先程まで農作業をしていたので、持っていたガーデングローブをつけて一応怪我には気をつけた。ドアのロックを外し、開ける。
「大丈夫ですか?!」
「な、なんとか……」
窓を割る作業で気がついたのか、女性が返事をしてくれた。
「あ、ごめんなさい、意識もなくてドアも開かなかったのでガラス割っちゃいました……」
「え?ああ、いいよそんなの……」
心底怠そうな声で言われる。どこかぶつけてしまったのだろうか。
ーーーあれ?この声聞き覚えあるな?
女性の顔を今一度よく見る。苦しそうに顔を歪めて、息も上がっている。
ーーーあ、この人、田中さんの娘さんだ。多分、レイさんと同じくらいの年齢で村の外の総合病院に看護師として働いているはずだ。働いてからは全く顔を見なかったが、昔はよく遊んでくれた。
ちょっとキツイ性格で、思春期以降田中さんは手を焼いていたイメージがある。
「美沙さん?美沙さんだよね?」
私が聞くと、美沙さんは怠そうに視線を私へ向ける。そして驚いたように目を見開く。
「え?穂乃果?生きてたんだ」
「……美沙さんこそ」
久々に会って、生きてたんだなんて挨拶、普通しないんじゃないかと思ったけど、美沙さんならありえるかもと飲み込んだ。
「は、じゃあレイって女のワクチンはやっぱまともだったんじゃん。結局全員死んでさ……馬鹿みたい」
荒い呼吸でそんなことを言われる。久々に聞く単語だ。あの男もワクチンって言ってた。胸がザワザワする。
「ねえ、その、ワクチンって何のこと?」
私は怖々聞いてみる。美沙さんはバカにしたように鼻で笑った。
「は?何って?あんたが打ったんじゃん。てか、あんたしか打たなかったやつ。よく打ったよね。あの状況で。あいつ、パンデミック引き起こした張本人じゃん。そんなやつのワクチンなんて、誰が打つかっつーの」
「え……?」
パンデミック?いつの間にそんなことが?というか、レイさんが原因?何で?何を言っているのか分からない。頭がぐるぐるする。
美沙さんがうう、と呻きながらシートベルトを外して、こちら側のドアから降りようと動く。思ったように体が動かないらしく、ズルズル這うように移動する。
「大丈夫……?」
「なわけないでしょ。あたし感染してんの。……レイってやつに会わせて。あいつのワクチンあたしに打つように言って」
「え、でも、田中さん……美沙さんのお母さん呼んでこなくていいの?業者呼んで、軽トラ引き上げないと……病院も……」
私がそう言うと、美沙さんはギョッとした顔する。
「はあ????何言ってんの???あのババアはもう非常事態宣言が出たあたりで首括って死んだでしょ。見つけたのあんたじゃないの?」
「え?え?でもこの前も会ったし喋ったよ……?」
「……穂乃果、ワクチン打って頭でもおかしくなった?やっぱ安全じゃないんだ」
私がそう言うと、思いっきり顔を歪める。
「…………」
田中さんが、死んだ?嘘だよね、だって私1週間前にもご挨拶したよ?何で?
ドキドキドキドキ、心臓がうるさい。この人何言ってるんだろう、病気になって頭がおかしいのはそっちじゃないの?
「み、美沙さんこそ、何言ってるの?だって、私、その、えと、田中さんが嫌なら、うちの親でも呼んで、」
私がそう言うと、美沙さんは声を出して笑う。呼吸が苦しそうなので、弱々しいけれど、明確に私を馬鹿にしていた。
「穂乃果の親〜??あんたの両親、弟と婆ちゃん連れて北の方に逃げたじゃん!あんたにだけ家と畑守るように言って!かっわいそ〜〜あれにはさすがに同情したよね!搾取子ってこんなことされても律儀に約束守ってんだ、って!」
息も絶え絶えで弱々しい美沙さんが、悪意を持って言葉の剣で私を刺そうとしてくる。何で?どうしてこんなこと言ってくるんだろう。
「ゲホッ、はは、傑作、全部忘れてんだ?それともあの女に頭でも弄られた?ハ、うらやましい!何も覚えてないって、めっちゃ幸せだろうね!いいな!私もワクチン打って、免疫獲得して、こんな馬鹿みたいに壊れた世界忘れて、暮らしたい、ハハ、ハ」
ゲホゲホ、と苦しそうに美沙さんが咳き込む。
この人ももしかして、あの薬物中毒の男みたいになってるんじゃないだろうか。だからこんな支離滅裂なことを言ってるんだ。きっとそうだ。
それなのに、震えが止まらない。ガタガタ震えて、心臓も壊れたのかってくらい早いリズムを刻んでいる。
違うって言い切れないんじゃない?レイさんも私もずっと触れてなかった、ふわふわして曖昧にしていたところ、見透かされて馬鹿にされて抉られてるんじゃないか。
不意に肩を掴まれて、無理矢理後方に下げられた。意識が現実に戻る。
「ーー用件、何」
レイさんが私を庇うようにして前に立つ。息が上がっている。急いできたんだろう。レイさんの車がチラリと後方に見えた。急いで準備して、急いで来てくれたんだ。研究所からここまでこんな短時間で着くわけ、ない。
全身から緊張が抜ける。レイさんがちゃんと、来てくれた。レイさんの服の裾を少しだけ握る。
「は、来た。ワクチン寄越しなよ、今なら打ってあげるから。打って欲しかったんでしょ?せっかく作ったのに誰も打ってくれなくて、挙句弟にまで拒まれてたもんね、ゲホッ」
少し助けたことを後悔している。レイさんにまでこんなひどい態度を取るなんて。尖っているな、とは思っていたけれど、ここまでトゲトゲしていたっけ。美沙さんは変わってしまった。
「打っても意味ない。私のワクチンは、感染前なら免疫を獲得できる。感染しても発症前なら、発症を遅らせられる。見たところもう発症から3〜5日は経ってる。打っても意味ない。特効薬は、ない。遺言あるならどうぞ。残す相手もいないだろうけど」
レイさんが冷たい声音で告げる。言葉の内容以上に態度は冷たい。
レイさんの言葉を受けて、美沙さんは愕然とした顔をしてから顔をみるみる真っ赤にして険しい表情になった。燃えている音が聞こえそうなくらい、目には怒りの炎が燃えたぎっていた。
こんなに具合悪そうで今にも意識が途切れそうなのに、目だけ異様にギラついている。
「っざけんな!!自分だけ能天気に幸せに生きていけると思ってるわけ?!あんたのせいで世界中の人間が死んでんだ!!!!!のうのうと生きてんじゃねえよ!!!普通の生活を返せ!!!!!!てめえが死ね!!!!!!死ねっ死ねっシネシネシネシネ」
口から唾を飛ばしながら悍ましい表情で美沙さんが叫ぶ。獣の断末魔に似ていた。
レイさんは微動だにしない。背後からはレイさんの表情を見ることができない。
「それが遺言?死体の処理だけは後でしておくから、安心して」
そう言ってレイさんが服の裾を握って硬直していた私の手を取り、振り向いてそのまま車へ向かう。
表情は、ない。何の温度も感じないし、何の感情も感じない。
それは私には、この手の言葉を何度も何度も何度も受けて、最後には慣れてしまった人の顔に見えた。
「え……ねえ、ねえ、待ってよ!!!!ゲホッ、嫌、嫌だ、このまま死にたくない、いやぁ……ねえ、お願い……」
背後から美沙さんの悲痛な縋る声が聞こえてくるが、レイさんは足を止めない。まるで聞こえていないようだ。
私も振り向く勇気が出ない。何と声をかけていいかも分からない。私が何か言ったって相手にされないだろう。私は2人の会話に全くついていけてない。蚊帳の外だ。
「ま、待って、待って、お願い…………わ、私体には自信あって、それで結構重宝されてたから、役に立てるよ……」
レイさんがぴたりと足を止めた。私がレイさんの方に視線を向けた次の瞬間、私の手を振り払って何かを美沙さんへ向かって投げた。それは軽トラの車体に当たって高い音をあげて砕け散り、ガラスの破片と液体が辺りに飛び散った。
見覚えがある。あの日ケースの中に入ってたワクチンだ。
「分かった、あの温泉の男のグループの一味だ、お前。この村にいた時も弟の取り巻きの1人だったもんな。男に媚びて、女を捧げて生き延びてきたってわけ?お前みたいな女のせいで、他の女がどれだけ迷惑被ってるか分かってんの?男に助けてもらえば?その体とやらで」
声音から軽蔑の色が滲む。レイさんが他人へ感情を剥き出しにしてぶつけるところを初めて見た。
「行こう。こんな奴にこれ以上付き合ってられない」
レイさんは怒りを隠さず、私の背中をグイッと少し強めに押す。背後から美沙さんの何か叫ぶ声が聞こえてくるが、段々その声が弱々しくなってくる。
そのまま私たちは車に乗り込み、私がシートベルトを閉めている途中でレイさんは乱暴にアクセルを踏んだ。
「レ、レイさん……」
自分が思っているより、弱々しくて小さな声が出た。レイさんが私の声にハッとして、徐々にブレーキをかけてゆっくり停車する。
「……ごめん、今、冷静じゃない……ちょっと落ち着くね……」
ハンドルに顔を埋めて深くため息をつくレイさんの背中を撫でる。
「……美沙さん、キツイ性格でしたけど、あんなこと言う人じゃなかった……私が助けたせいで、レイさんに嫌な思いをさせちゃって、ごめんなさい」
私が謝ると、レイさんは顔を上げないまま微かに首を振る。
「アイツが全部悪いよ。ホノカちゃんは何も悪くない」
「そうかな……」
「そうだよ」
顔を上げながらレイさんが言う。
「……美沙さんって、あの男の人の仲間だったんですか……?何で分かったんですか……?」
背中を撫でていた手を膝に戻しながら、恐る恐る聞いた。レイさんが確信する要因はあったんだろうか。
「あの男が持ってた無線機と同じ種類のものが足元に転がってた。あと、ダッシュボードにスペアキーみたいな鍵が置いてあって、それがあの男が乗ってたバイクで使われてる鍵形だったんだよね。それだけじゃ偶然だとも思ったんだけど、あの軽トラの鍵に付いてたストラップ、あの男が無線機につけてたのと対になるタイプだったのを途中で思い出した。それで確信した」
「…………」
淡々と事実を羅列するレイさんの喋り方にはもう怒気は含まれていなかった。
あのやり取りの中で一瞬で把握したんだろうか。レイさんはすごい人だと思っていたけれど、想像よりも一段階も二段階も上だったようだ。
普通、バイクの鍵型なんて把握してる?どこかの名探偵みたいだな、とちょっと思った。
「……ダメだね、感情的になるのは。向いてないな。ごめんね」
そう言ってレイさんは私がシートベルトをきちんとできているか確認した。
「……レイさん、美沙さんと知り合いなんですか?」
「…………」
レイさんが黙る。視線は遠くにあり、私と交差することはない。長いまつ毛が瞳に影を落としていて、それがすごく綺麗に思えた。
「知り合いではないかな。ちょっと喋ったくらい」
私はその答えに何とも言えない気持ちになる。レイさんはいつも、そうやってぼかして答える。伝えられることはすごくハッキリ事実の羅列をするのに。視線を膝へ落とす。
「……レイさん、今、世界ってどうなってるの……?」
先ほどよりも、ずっとずっと小さくてか細い声が出た。
何の音もしない、2人きりの車内で私の声が響く。ギュッと膝の上で拳を握りしめる。これを聞いてしまったら、もう、どうにもならない気がした。
私とレイさんの、暗黙の了解で触れていなかった部分、そこに触れてしまっても私たちは一緒にいられるのだろうか。
答えが返ってこない。レイさんの顔を見ることもできない。
「……私って、おかしい……?」
美沙さんは言っていた。ワクチンで頭をおかしくしたか、頭を弄られたんじゃないかって。誰が私にワクチンを打ったの?誰が私の頭を弄ったの?
「おかしくないよ。それで言うなら、私の方が、もうとっくにおかしくなってる」
レイさんのいつものように落ち着いた声がすぐ返ってきた。
「車出すよ。帰ろう」
先ほどより、ずっと優しく車が動き出す。レイさんは、ずっと優しい。レイさんとの生活も、ずっと楽しい。
でも、レイさん以外はずっと優しくない。田中さんは猫について、のらりくらりと居場所を教えてくれない。温泉に行ったらタイヤをパンクさせられた。美沙さんは明確に私を傷つける意思を持って、意地悪を言ってきた。
レイさんが話したくないなら、それでいい。美沙さんが言ったみたいに、この世界が壊れてて、その原因がレイさんだったとしても、それが何なのだろう?
窓に水滴がつく。雨が降ってきたようだ。私たちは無言で車に揺られ、ワイパーの動く音と車のエンジン音、雨音だけが車内に響いていた。