第78話 奪われた至宝
辺境に建つ自分の屋敷。つい先日まで、クレア達と笑って過ごしていたこの場所。だが今は。最愛の妻クレアはここにおらず、そこにいるのは、憎きサイラスだけ……。サイラスが勝ち誇った笑みを浮かべて言った。
「さあ、渡してもらおう。師の遺した至宝、古の塔の鍵を!」
至宝など、もはやどうでもいい。何と引き換えにしても、クレアを今この腕に抱きしめないことには、石のように硬直したこの心を元に戻すことはできない……。
(ミラー師匠……愚かな弟子を……この僕を、どうかお許し下さい……! あなたの遺言を、僕は守れなかった! あなたが深き海に沈めよと言ったあの鍵を、みすみすこの男に渡すことになるなんて……!)
ルークは敗北感に打ちのめされながら、無言で屋敷に入る。フロガーの襲撃で荒れ果てた自分の私室。結界魔法をかけた扉の前で、ルークはサイラスを振り向いた。
「……クレアを返せ。鍵は、クレアと引き換えでなければ渡せない」
「だろうな。だが、それは出来ない相談だ。先に、死の鍵魔法を解け。鍵をこちらに渡せば、すぐにでも、貴様の妻は解放してやる」
「そんな口約束が通るか!! 今すぐ、彼女をここへ連れて来い!!!」
怒髪天を衝く勢いのルークに、サイラスはふっと笑った。と同時に、虚空に見覚えのある大きな一枚紙が現れる。魔術師が非常に重要な取り決めを交わすときに使用する、契約書だ。水晶の羽ペンが浮かび、すらすらとそこに文言を書き込んでいく。サイラスは言った。
「……言った通り、貴様の妻は、我が眷属たる地底の精霊が捕えている。安心しろ。奴は私との契約により、女に指一本触れることは出来ん。奴が女に危害を加えられるのは、交渉が決裂した場合のみ、と契約で決めているのでな。と同時に、この交渉が終わるまで、いかな私といえども、精霊から女を取り戻すことは不可能。これもまた契約事項の一つ……貴様も知っての通り、魔術師がこの書面で交わす契約は絶対だ。決して、破られることは無い」
黄金の文字を書き終えた羽ペンが砂のように掻き消え、ルークの手元に契約書が舞い降りて来る。そこには、サイラスの署名入りで、鍵が渡された場合、クレアは必ずルークの元に生きて戻る、という内容が明記されていた。
サイラスの言った通り、この魔法契約書に署名した者は、そこに記載された事項を反故にすることは絶対に出来ない。それは、命を失うことを意味する。精霊とて、それは同じ。それだけ、この契約書は強力なのだ。つまり鍵さえ渡せば、クレアは確実に戻って来る。ルークは舞い降りて来た契約書を握りしめて言った。
「……貴様のいやらしさには、毎度感心するよ。今すぐにでも心臓を抉り出してやりたいが……僕が手を下すまでも無いな。どうせ貴様は、古の塔で命を落とすのだから。出来るだけ苦しんで無様に死ねよ? このクソ野郎が!」
ルークは悪態をつきながら小部屋に入り、黄金の小箱を手に取った。大粒のルビーで装飾されたそれはずしりと重い。古の塔! もしも、カエルムの賢者に会うことが出来たなら!
(クレアを、あの苦しみから解放してあげることだって出来たかもしれないのに……! だが……それは果たして、正しい事なのか……? 知らない方が良い真実だって、この世にはいくらでもある……ミラー師匠! この鍵は……あなたが言った通り、人の子たる我らが手にすべき物ではなかった……!!)
ルークは様々な思考と感情に翻弄されつつ、足取りも重く小部屋を出る。サイラスの瞳が、いつになく葡萄色に輝いた。
「やっとこの時が来たか!! さあ、さっさとその忌々しい術を解け、ルーク!」
死の鍵魔法。かけた本人しか解除できない危険な術だ。ルークはため息を一つ吐き、覚悟を決めて解除術を試みる。黄金の小箱を真っ白な光が包み込み……カシャーン、とガラスの割れるような音と共に、幾重にもかかっていた死の鎖が砕け散った。この箱を開けるのは何年ぶりだろう……ルークは、黄金の蓋をゆっくりと開けて言った。
「……古の塔の鍵だ。さあ、持って行けよ。そして……地獄に落ちろ、くそったれ!」
そこには、遥か神話の時代に作られたと思しき鍵が……眩いばかりの宝石で彩られた、目も眩む輝きを放つアダマント鉱石で出来た円盤が……収められていた。
サイラスは、堪えきれない、と言う様子で哄笑し、その鍵を奪い去った。嵐の夜の葉擦れに似たザザーッという音と共に、辺りは黒い霧に覆われていく。
「……さらばだ、ルーク。貴様の妻は、ロマにいる。せいぜい、下らん愛情ごっこでもするがいい……」
サイラスの忌々しい笑い声と黒い霧が消えると、ルークは衣裳庫にかかっていたいつもの仮面をひったくり、すぐさま転移魔法を唱える。ルークは瞬時に、魔術院の最上階へと転移していた。
「お……長!!! お戻りになりましたか!!!」
ルークがその場の惨状に眉を潜めた時。背後からマイルズの叫び声が響き、メイルバードがどこからか「ギャギャギャ!!」と言って舞い降りて来た。マイルズの声に振り向く、と、そこでは、半身を血に染めたマイルズが顔を輝かせていた。メイルバードが、ルークの言葉を伝達する。
「マイルズ!! お前、その怪我は……いや、ひとまず、状況を説明してくれ!!」
「長……! 貴方様のお戻りを、我々は、首を長くしてお待ちしておりました!! これは……地底の精霊による仕業です!! 現在、魔術院総出で怪我人の救護に当たっております!」
マイルズは感極まったように男泣きしてそう訴え、ルークの元へ駆け寄って来た。そして、ルークの耳元で鼻をすすりながら囁く。
「……我々は、長の奥方に救われました……! あの方が、私達の命を、あの悪しき精霊から守って下さったのです……!」
ルークは目を見開いた。マイルズの瞳には、秘密を知る者特有の……そして、その秘密を守り抜く意思を持つ者特有の……強い光が浮かんでいた。ルークは、それで全てを悟った……そして、サイラスに翻弄された我が身を呪う。奴は、クレアを人質になど取っていなかったのだ……!
マイルズは涙を抑え込むと、小声で続けた。
「私はこれから、執政院の聴取に出向いて参ります。魔術院がこれほどの損害を被った以上、長も必ず召喚されるでしょう……ですが、こちらはひとまず私共に任せて、長は別邸の奥様の元へ……」
「……ああ、分かった。だが……」
ルークは室内を見回した。半ば崩壊した部屋に、倒れ伏す魔術師たち……。ルークは、口惜しさと怒りに歯ぎしりする。
「……魔術院の責任者として、私は皆に詫びねばならない! 大失態だ……これほどの事態を、私は未然に防ぐことが出来なかった……!」
自身の未熟さに反吐が出る。サイラスに翻弄され、クレアを危険な目に合わせ、あまつさえ、地底の精霊にここまでの暴挙を許すとは……! だが、マイルズはきっぱりと言い切った。
「いいえ。それを言うなら、私共の方なのです。私は、長に、ご不在の間の一切を任されていたにも関わらず、何も出来なかった。ここにいる傷ついた者達も同じ気持ちです……貴方様がいらっしゃらない間に魔術院をこれほど破壊されてしまったことを、皆心から恥じていますよ」
ルークが思わずマイルズを見下ろすと、彼は胸を張って言った。明るい笑顔だ。
「意外でしょう? 長と私がいつもヤキモキしていたあの怠け者の魔術師たちも、貴方様の率いるこの魔術院に、ひとかたならぬ愛情を感じているらしいのですよ! これで、彼らの勤務態度にも身が入るでしょう。今後の彼らの活躍が楽しみですな!」
マイルズは冗談めかしてそう言い、ルークをしきりと別邸へ促す。ルークは彼の忠誠に心から感謝し、別邸への道をひた走った。エントランスに駆け込むと、そこにいたニコとフロガーが飛び上がった。
「「ご主人様!!!」」
「クレアは!? クレアはどこだ!!!」
テオが厩から足取りも早くやって来た。
「ご主人様! ……奥様は、私室で貴方様をお待ちです、どうぞお早く!」
言われるまでもない。ルークは廊下を駆け抜ける。クレアの私室に辿り着くと、ドアを開けるのももどかしく室内に駆け込んだ。
「クレア!!!」
声を掛けるより早く、クレアが腕に飛び込んで来た。そうだ、この子は、僕が帰ってきたことに、とっくに気づいていたのだ……。固い鱗の体を抱きしめながら、ルークはぼんやりとそんなことを思う。仮面を投げ捨ててその頭に雨の如くキスを降らせながら、ルークの瞳には、知らぬうちに涙が溢れていた。
「……ごめん、クレア。本当に……!! きみが無事で……本当に、良かった……!!」
お読み頂き、誠にありがとうございます。
次話より「最終章 この地の果てで」、どうぞお楽しみに!
完結までもう間もなく、引き続き、どうぞ宜しくお願い致します。




