第77話 雪原の城
「別邸に……」
「はい。マイルズより言伝です。あとのことは彼に任せておけば宜しい」
レインが受け取ってくれたローブを羽織り、私は言った。
「分かったわ。……レイン、手当をしてくれたこと、本当に感謝します。あなたがいなければ、私は出血で倒れていたでしょう」
私はレインに深く頭を下げる。本当は抱きしめたいけれど、昼の私には、それも出来ない。レインは笑って首を振った。晴れやかな笑顔だ。
「いいえ! 奥様のお役に立てて、何よりです! 魔術院に来て初めてですよ、こんな充足感は!」
私達は階段でレインと別れ、騒然とする魔術院を抜けて別邸への裏道に入る。外から見ると、魔術院の最上階が激しく損傷しており、これだけの野次馬が集まるのも頷けた。私が人気の少ない路地裏から魔術院を見上げていると、テオが、私の気持ちを察したように淡々と言った。
「我が主は、必ず無事にお戻りになります。あの方が、最愛の貴女様を放っておかれるはずがない。ですから奥様は、お体の回復を第一に、主のお帰りをお待ち下さい」
「ええ……ええ、そうね。心配だけれど……今私に出来ることは、何もないわね……」
別邸に戻ると、テオは私に私室で休むように告げ、ニコとフロガーを厩へと連れて行った。テオが馬の手入れをしている間、そばで彼らを遊ばせてやるそうだ。彼らを見送り私室に戻った私は、ソファにどっと倒れ込む。これまでに経験したことのない激しい戦闘で、私の体はひどく疲弊していた。私はソファでうなだれ、ぽつりと呟いた。私の頬を、一筋の涙が伝う。
「ルーク……どこにいるの? お願い、早く帰って来て……」
私がいくらこの鋭敏な感覚を研ぎ澄ませても、ルークの居場所を探ることは出来なかった。
時は少し遡る。
時の狭間から抜け出たルークが目を開けると、そこは……。
「……六花の城か!」
サイラスの居城、『六花の城』。真っ白な雪原の果てにそびえる彼の城には六つの尖塔があり、雪の結晶になぞらえてそう呼ばれていた。ルークは15年前……敬愛するミラー師匠が存命の頃にたった一度だけ、この城を訪れたことがある。デイヴィスの実家を出奔して4年後の、14歳の時だ。ミラー師匠の誕生日を弟子2人で祝う、という、今思えば信じられないほど平和な理由で。
コツ、コツ、と冷たい大理石の床に足音が響く。
「懐かしいな、ルーク。お前がここに来たのは、あの夜以来だ。ふふ……なんとも可愛い弟じゃないか。師の誕生日を祝おうとは」
サイラスは小馬鹿にしたようにくく、と笑った。ルークの身中に、再び憎悪の炎が燃え上がる……が、ルークはそれを飲み込み、姿勢を正した。もう、あの頃の未熟な自分はいない。今はただ、この男と決着をつけて、一刻も早くクレアの元に戻るのだ……。
ルークが極めて平静な心持でサイラスと対峙した時。ふいにバルコニーから冷たい風が吹き込んで来て、辺りに雪の結晶が舞った。夜明けの雪原を渡って来た風に、白い雪片が所在なく舞い踊っている……まるで、誰かを探しているかのように。サイラスがふと眉を上げ、優雅な動きで右手を掲げた。舞い込んできた雪の結晶は、くるくると名残惜しそうに彼のてのひらの上で幾度か踊り……沈み行く月を追うように闇に消えて行った。その結晶がどこか琥珀色に輝いていたのは、ルークの気のせいだったろうか。
サイラスが呟く。
「そうか、アゼルが……」
サイラスは右こぶしを顎に当て、瞳を閉じて沈思黙考している。ルークは、彼に冷たい声を掛けた。
「……準備はいいか、サイラス。僕はお前を退け……ロマに帰る」
ルークは言いながら、精神を集中し魔力を極限まで高めていく。急激な魔力増幅で、ルークの周囲には蜃気楼に似た揺らぎが発生し始めた。神焔の秘術。炎の魔術における、最終奥義だ。あのミラー師匠でさえ生涯にたった一度しか行使しなかった究極魔法を、今自分は放とうとしている。
(神焔の秘術であれば、奴の強力な魔防障壁をもってしても跳ね返すことは出来ない! この奥義は、いかなる障壁の影響も受けないからな! 今こそ、あいつを完膚なきまでに叩きのめし、クレアのところへ……)
「……貴様の妻は、こちらが預かった」
サイラスがぽつりと呟いた。ルークは一瞬何を言われたのか分からず、眉を潜める。最大まで高まりつつあった魔力が、ぴたりとその増幅を止めた。
サイラスは顔を上げ……悪魔的としか表現できない、美しく残虐な笑みを浮かべた。
「ルーク。その野蛮な術式を解け。もう一度言う。貴様の妻クレアは、私の眷属が捕えた。貴様が今余計なことをすれば……あの女はもう二度と、貴様の元へは戻らないぞ」
ルークの周囲に発生していた魔力の揺らぎが、瞬時に雲散霧消する。ルークは眉を潜めたまま、掠れた声で呟いた。
「……なんだと?」
サイラスは雪原の風に銀髪を揺らし、再び悪魔的に微笑んで言った。
「貴様の妻クレアは、私の手の物が預かっている。……残念だったな、ルーク。貴様の脆弱なる部下共には、私の眷属たる、地底の精霊を退ける力は無かったようだ」
聞きながら、ルークは血の気が失せて行くのを感じていた。喉が詰まり、頭がガンガンする。視界が暗い。サイラスがいなければ、この場に膝をついているところだ。
(クレアが……地底の精霊に、捕らえられた?! まさか!! 魔術院の結界が、破られた? マイルズやレインが、敗北したというのか?!)
ルークはちら、と右手に広がる大きなバルコニーに視線を向ける。六花の城から見える一面の雪原は、朝陽に照らされキラキラと煌めいている。ロマにも夜明けが訪れて、クレアの姿は間違いなく変化しているはずだ。ルークの脳裏を思考が駆け巡った。
(クレアは今どうしている?! 昼間のクレアは強い……が、あんな場所であの異形の姿をさらせば、あの子は無事では済まない! まさか……それでクレアは、抵抗することも出来ずに捕らえられたのか?! いや、待て、落ち着け。全ての可能性を考えろ……)
ルークは浅い呼吸を繰り返しながら、震える手で前髪を掻きむしった。
(落ち着け! サイラスが本当にクレアを捕えたのならば、それは僕との交渉材料にするためだ……サイラスがなんとしても手に入れたいのは、古の塔の鍵なのだから。ならば、奴はすぐにあの子に危害を加えるようなことはしないはず……もしもクレアに危害を加えて僕が逆上すれば、死の鍵魔法で保護してあるあの秘宝は、永遠にサイラスの物にはならない……ああ、くそっ!! こんな仮定に、一体何の意味がある!! 今すぐに、この瞬間に、無事なクレアの姿を見ないことには、どんな推測にも石ころほどの価値も無い!!)
どうにか身を保ってはいるが、クレアがサイラスの手中に落ちた可能性に、激しい動悸は収まらず、目の奥がチカチカしてくる。ルークは、途方もない後悔の念に襲われていた。全身から冷や汗が噴き出す。
(なぜ僕は、クレアをあの場に残した? なぜ僕が一緒にいてやらなかった? こいつをクレアから引き離すよりも、僕がクレアの傍を離れるべきではなかった!!)
コツ、コツ。ハッと気づくと、目の前にサイラスの黒いローブが揺れていた。サイラスは口の端を上げ、嘲るように微笑んだ。
「酷い顔色だな、ルーク。そんなにあの女が大切か。……ならば、もう答えは出ているだろう? 決断すべき時は、今なのだよ」
ふいに、対峙している二人を魔力が包み込んだ。転移魔法……歪んで溶け合う視界がやがて像を結んで行き……ルークは、自分達がどこに飛ばされたのか瞬時に悟った。ルークは呟く、感情のすっかり抜け落ちた声で。
「……辺境の、僕の屋敷か……」




