第76話 賢者の秘薬
レインは驚きに目を見張り、私の腕から手を離した。治癒魔法をかけられた傷口は癒えず、赤い血が滲んでいる。レインは再び目を閉じて、今度は何か小さく呟いた。先程よりも大きく魔力が高まっていくのが私には分かる。けれど、傷口を包み込んだ聖なる光は、やはり私の傷を癒すことは無かった。レインが険しい顔で呟いた。
「私の魔力が足りない……!? いや、まさか! これは治癒の最上級魔法……これが効かないなどということが……」
私は気まずい思いで囁いた。
「その……ごめんなさい、レイン。私の体は……普通の人とは違うから……」
床に膝をついたレインは、何と言っていいか分からない、という困った顔をして椅子に座った私を見上げた。私を傷つけないように、彼女が言葉を選んでくれているのが伝わって来て、申し訳ない気分でいっぱいになる。私は、以前ルークが言っていたことをレインに伝えた。
「あの……前に、夫が言っていたの。私はもしかしたら、魔術を受け付けない体質かもしれない、って」
「長が、そんなことを?」
「ええ。私は魔女に名前を取られても、意識を支配されることはなかったわ。私には魔力がないのに。夫が言うには……とても珍しいのでしょう? そういうことって」
「それは……非常に珍しい、というか、奇跡と言ってもいいんじゃないでしょうか。魔力の無い者が魔術を生業とする者に名を取られて、それでも自我を保てるというのは、ちょっとこれまで聞いたことがありません!」
「……そうみたいね。それで、てっきり私、自分に危害を加えるような魔術にかからないのかと思っていたのだけれど。回復や治癒の魔法でさえ、私は受け付けないのね……。私、これまでの人生で治癒魔法を受ける機会なんて無かったから、知らなかった」
治癒魔法は、相応の知識と練度のある魔術師でなければ扱えない。モーガンの家にいた時に、そんな人に面会する機会なんてあるはずもなかった。レインが「うーん」と頭をかいた。
「そうですか……でも、困ったな。となると、魔法での回復は出来ない……けど、この流血は一刻も早く止めないと。院に置いてある、魔法傷用の薬を試してみるか……いや、でもあれも、魔力を注ぎこんであるから効かなかったりするのかな」
ぶつぶつ言いながら考えているレインに、私はおずおずと問いかけた。
「ごめんなさい、お手間をかけてしまって。……その……レインは、バナシアの傷薬って知っている? ……ここに置いてあったりするかしら?」
「バナシアの傷薬!? もちろん知ってます! そんなもので良ければ、下の薬品倉庫にいくらでもありますけど……でも、あんな簡単な薬が、アゼルにやられたこの傷に効くとは、とても……」
バナシアの傷薬。ロマ王国ではどの薬品店でも簡単に買える安価な薬だ。小さな薬瓶に入ったこの薬の歴史は非常に古く、新しい薬が続々と売り出されている今では、店の片隅に追いやられていることが多い。薬の成分は、森に自生しているバナシアという薬草を煎じただけ、という至ってシンプルなもの。今流行の、薬草を複数ブレンドした高級傷薬とは大違いだ。私は首を振りつつ、言った。
「確信は、無いのだけど。子供の頃から怪我をすると、いつもそれを使っていたの。刷毛で、傷に塗ってね。だから、もしかしたら、効くかもしれない、と思って」
「そうですか……分かりました! バナシアの薬瓶だったらいくつも在庫していますから、下に取りに行ってきます! あ、私が不在の間、外から鍵魔法をかけておきましょうか?」
「いいえ、大丈夫。レインも、魔力を使いすぎて疲れているでしょう。この部屋には内鍵があるから、それをかけておくわ。幸い、私は声だけは変化しないから、誰か来たら開けないでくれるように伝えればいいし」
「……分かりました。でも、絶対に、何を言われても、ドアを開けないで下さいね? 魔術院は、好奇心旺盛な変わり者だらけなんですから!!」
「絶対の絶対ですよ!」と神妙な顔で何度も念を押すレインに、なんだかルークを思い出して笑ってしまう。あの夜ベルの店に行った時にも、ルークは随分何度も、私に外に出ないように念を押していた。皆の心遣いに、私は胸が温かくなる。
「ええ、分かったわ。心配してくれてありがとう、レイン。私、あなたが戻るまで、絶対にドアを開けないわ」
レインは真面目な顔で頷いた。そしてドアを薄く開けて左右を確認したあと、「すぐに戻りますんで!!」と囁いて、するりと抜け出て行った。私はドアの鍵をかけ、ほっと椅子に座り直す。ニコが私の傍にすり寄って来た。
「クレア、大丈夫? 血だらけだよ……ああ、ご主人様がいてくれたら……!」
ピスピス鼻を鳴らすニコの背から、フロガーがぴょん、と飛び降りた。フロガーは、私の膝の上でしかめ面をする。
「……随分派手にやられたな……ご主人様が見たら、発狂するに違いねえ!」
私はふふ、と笑い、フロガーの頭をそっと爪先で撫でてやる。
「そうね……きっと、すごく心配してくれるわね。……今、どこにいるのかしら。逢いたいわ……」
ニコがピクリと耳を動かした。
「あ。あの人、戻って来た! ……馬みたいな足音だ!」
フロガーが慌ててニコの背に飛び乗り、彼らが壁際に寄った時。「奥様? 入りますよ?」と密やかな声がして、レインが入って来た。彼女は顔を真っ赤にして肩で息をしながら、麻袋を掲げた。
「奥様、お待たせしました!! バナシアの傷薬です! 早速試してみましょう!」
「ありがとう、レイン! じゃあ、私、自分で……」
「私にやらせて下さい! 補佐官に、奥様の治癒を仰せつかっているのですから! 薬品用の刷毛はありませんでしたが、倉庫に絵筆があったので持ってきました。もちろん新品ですので、ご心配なく!」
レインは恐縮する私の腕に、慎重に薬を塗ってくれる。鱗に覆われた私の肌に薬を付けるには、刷毛や筆で薬剤を塗り付けるのが一番効率的だ。バナシアの薬が傷に達すると、驚くことに、出血が収まって来る。レインが「おお!」と目を輝かせた。
「すごい!! まさか、こんな古い薬に、こんな効果があるなんて!!」
「良かったわ。本当にありがとう、レイン!」
平気、と口では言っていたものの、ズキズキと痛む場所も多かったのだ。レインには本当に救われた。私がレインに心からお礼を言うと、彼女は「いえいえ!」と笑顔で次々と薬を塗ってくれる。レインは、小さな薬瓶に筆を浸しながら言った。
「へえー、でも、こうしてみると、伝説も本当なんじゃないか、って思っちゃいますね!」
「伝説?」
「はい。奥様は、魔術を学んでいないからご存じないかもしれませんが。魔術院の古文書にあるんですよ! カエルムの賢者の伝説!」
「カエルムの……」
「はい! 絵本なんかにも良く出て来るから、名前だけは知っているかもしれませんね。我々人類に文明や知恵を授けたと言われている、伝説の存在です。古文書の伝承では、このバナシアと言う薬草は、彼らが地上に残してくれた物、と言われているんですよ」
「そう、なの……」
カエルムの賢者! 以前、ルークが私の存在に関わっているのでは、と言っていた、あの……。レインはペタペタと薬を塗りながら、気軽に続けた。
「はい。今では、この古い薬を使っている人はあまりいませんが。実は、記録に残る最古の傷薬なんですよ。古文書では、カエルムの賢者が人間に与えて行った最後の恩恵だろう、と記載されています。愚かな人間を嘆いて世を去った賢者が地上に残してくれた、最後の恵みだろうってね!」
私の胸がドクドクする。では、この薬が私の傷を癒してくれるのは……。レインが薬を塗り終えた時、控えめにドアがノックされた。この気配は。
「……レイン。いるか? 私だ、テオだ。マイルズ殿が、奥様の手当てが無事に済んだら、上に来て欲しいそうだ。怪我人が多くて、治癒者が全然足りん。……奥様。そちらにいらっしゃいますね? 別邸より、ローブを届けさせました。こちらをお召しになって、このテオと別邸にお戻り下さい」




