第71話 再会、そして
夜明けを知らせる黒鳥が、明けきらぬロマの空をゆったり飛び過ぎて行く。私は魔術院の窓辺に立って、その優雅な羽ばたきを見つめていた。黒鳥が遠く飛び去ると同時に、金色の朝陽が一筋、私の頬を照らす。そして私はまた変貌するのだ……この恐ろしい、化け物の姿に。背後から、ニコのあくびが聞こえた。
「ふわーあ……クレア……? あれ……もう朝なの? ねえ、ご主人様は?」
「おはよう、ニコ。ルークは……まだ戻っていないわ。心配ね……」
私は両手を組んで目を伏せた。一晩中、私はルークが心配で眠れなかった。少しまどろんではハッと起きて、の繰り返しだ。ニコが「なんだあ、そっか」と大きなあくびをしながら、体を起こして伸びをする。柔らかなブランケットが、その白い背から滑り落ちた。その平和な様子に私は微笑み、再び窓の外に視線を向ける。東から上って来た太陽が、城下町を黄金に染めていた。ニコが、私の隣にトコトコ歩いて来て言った。
「テオが、ご主人様はすぐに帰って来る、って言ったのに。ねえ、ご主人様、まだ? どこに行っちゃったの?」
「分からないわ。マイルズが、『時の狭間』と言っていたけれど。私達には、とても行けない所だもの……心配でたまらないけど、ここで待つしかないのよ……」
その時、階下から人が上って来る気配がした。テオだ。私と同じく、鋭敏な感覚を持っているニコが、私を嬉しそうに見上げた。
「テオだ! 朝ご飯かなあ?」
ニコは言うが早いか、さっさと衝立を回って行った……と思ったら、突然ニコの悲鳴が上がるので、私は驚いて駆けつける。
「どうしたの、ニコ!」
「フロガー!! ねえ、見て、クレア!! フロガーが、起きそうだよ!!」
「えっ?!」
私達は、豪華な室内に浮かんでいる回復球を見上げた。金色に淡く輝いていた魔法の球は、もうほとんど消滅しかけている。私達が固唾を呑んで見守る中、フロガーを包む、蜻蛉の羽のように透明な魔法の膜が、一枚、二枚、と、花開くように溶けて消えて行き……やがて。
「「あっ!!!!」」
私達は、同時に叫んでいた。回復球が消えると同時に、フロガーの赤茶色の体が、ぽんっ、と空中に放り出されたからだ。私は咄嗟に手を伸ばしたが、ニコの方が一足早く、落下する親友の体をその背で受け止めていた。
「「フロガー!!!」」
私とニコは、大声で呼びかけていた。暫しの沈黙。しんと静まる室内に、懐かしい、あのだみ声が聞こえた。
「ゲコォ……へっ? な、なんだぁ、こりゃあ?」
ニコが、歓声を上げてドカッドカッと飛び跳ねた。フロガーが「うおぉ?!」と叫ぶ。
「お、おいっ?! 何してんだ、ニコ! そんなに飛び跳ねたら、俺様が落ちちまうじゃねえか……って、うわあああ!? ほんとに、すべっ……」
「フロガー! 良かった、良かったわ、本当に!」
私が、ニコの背から滑り落ちて行くフロガーを両手でキャッチしてその顔に思わず頬ずりすると、フロガーは「ぶふぅ?!」と噴き出した。
「お、おいっ、何してんだよ、クレア!! ……ほんとに、いきなり何だってんだよ、おめえら!」
フロガーは、目を白黒させている。その時、コンコン、と控えめにドアをノックする音がして、私は慌てて衝立の影に隠れた。マントを身に付けるのを、すっかり忘れていたのだ。
テオは、目覚めたフロガーを見て、大層喜んだ。私はマントの下からさりげなくテオの様子を見ていたが、彼の、あんなに柔和な笑みは初めて見たので驚く。これまで冷淡な印象しか受けていなかったが、今彼がニコとフロガーに見せている笑顔は、親切で愛情溢れるものに違いなかった。まるで大切な孫を見守っているみたいだ。テオは、ひとしきり再会を喜ぶといつもの無表情に戻り、ニコの背に乗ったフロガーに言う。
「フロガー、待ちかねたぞ。ご主人様も、大層お喜びになるだろう」
「うへえ……まさか、そんなことがあったなんてなあ。このフロガー様ともあろうものが、抜かったぜ」
フロガーは、一連の事態を、何も覚えていなかった。ルークが言った通り、この記憶の欠落は、恐らく闇魔法の後遺症によるものなのだろう。フロガーは言った。
「すまねえな、みんな。湖の底で、すんげえ美蛙に誘惑されちまってな……こりゃあ有難く交尾させてもらうかと近寄ったんだが、そっから、なんも覚えてねえ。話を聞くところによると、どうやら、あいつが魔女の手先だったんだな。そんなことも見抜けなかったとは、このフロガー、一生の不覚」
フロガーは神妙な顔でそう言って、テオが小皿に注いでくれたミルクに顔を突っ込んだ。急な目覚めだったから、残念ながら、今朝はフロガーの大好物……新鮮な虫……は準備されていない。テオは、手早く私達の朝食の卓を整えながら真顔で言う。
「フロガー。お前がここに戻って来れたのは、ご主人様はもちろん、ここにおられる奥様と、このニコのお陰でもあるんだぞ。せいぜい、礼を言うんだな」
「おうよ。不精フロガー、ガマガエル族の名に懸けて、受けた恩はぜってえ忘れねえ。……クレア、ニコ。ありがとよ。腹の底から、礼を言うぜ」
そう言って、フロガーは私達に深々と礼をした。ニコは照れてぶひひひ!と鼻を鳴らし、私は静かに首を振る。
「いいえ、いいのよ。それより、私がもっと早く、貴方の異変に気付いていれば、あんなことには……ごめんなさい、フロガー」
「ちっちっ、何言ってんだ、クレア。ほら、あんたの良くないところは、そういう、優しすぎるところだぞ。そんなんだから、うちのご主人様の傍若無人にすっかり振り回されて……って、そういや、どこだ、ご主人様は?」
「……ルークは今、少し遠い所にいるの。でも、すぐに私達の所に帰って来るはずよ。ねえ、テオ?」
「左様でございます、奥様。我が主が、いつまでも奥様をお一人にするはずはございますまい……さあ、ご心配も尤もですが、まずはご朝食を」
テオはそれだけ言うと、さっさと下がって行った。マント姿の私を気遣ってくれたのだろう。今では私も、あの一見冷淡に見える老人テオの勤勉さと実直さに、密かに尊敬の念を抱き始めている。特に、彼のルークへの忠誠心は相当なものに思えた。
私がほっと息を吐いてフードを脱ぐと、顔中ミルクだらけにしたフロガーが、辺りを見回しながら言った。
「しっかし、御大層な部屋じゃねえか。ご主人様は、いつもこんな所で仕事してんのか」
「そうね。私も初めて入ったけれど……『魔術院の長』様に相応しい、豪華なお部屋ね」
ニコが、チーズ入りオムレツをぱくんと食べて、あどけなく首を傾げた。
「そうかなあ。ボク、ここも辺境のご主人様の部屋と、あんまり変わらないと思うけどな。だってさ、見てよ、クレア。昨日あそこで寝たら、ボクのたてがみ、こんなになっちゃった」
ニコがぶる、と首を振ると、フロガーのミルク皿の上に灰色の埃が舞った。フロガーが「ゲコオッ!」と喉を鳴らす。
「おい、こら、ニコ! 俺様の朝飯に、埃撒き散らすんじゃねぇ!」
私は笑って、ニコのたてがみの埃を払ってやる。確かに、昨夜は美しい銀白色だったたてがみは、今や灰白色に薄汚れていた。私は、頭を摺り寄せて来るニコを撫でて言った。
「仕方ないわよ。あのルークだもの」
「それもそっか。あーあ、ご主人様、早く帰って来ないかな! やっとフロガーも起きたのに」
「ご主人様には、感謝してもしきれねえ。あの人に命を助けてもらったのは、これで二度目だ。俺は決めたぜ、ニコ。何があっても、俺は一生、あの人に付いて行くってな」
フロガーは、ゲコォ、とげっぷをしながら言い切った。私は彼に微笑み……ふと、尖った耳をピクリと動かした。
「……待って。何かしら。下が、騒がしいわ」
私は、食べ終わった朝食のテーブルを離れ、ドアに駆け寄る。階下で、多数の人間の動き回る気配。それに、誰かが、こちらに駆け足で上って来る。この足音は……テオと……レインだ。私は急いでフードを被った。直後、荒々しいノック音と共に、レインが室内に飛び込んできた。
「失礼します……奥様! 良かった、ご無事ですね! 申し訳ありませんが、急いでお仕度を整えて下さい。そして、決して、この部屋からお出になりませんよう!」
「レイン! どうしたの、一体何が……」
私の問いに、テオが、食器をワゴンに片付けつつ早口で答えた。
「あの女が、魔術院に姿を現したのでございます、奥様。昨晩、舞踏会で奥様に不届きを働こうとして姿を消した……」
「……アゼル!!」
私の小さな叫び声は、激しい爆発音にかき消された。




