第53話 戸惑い
辺境から人目を気にしての道中で緊張していた私は、ルークの言葉にほっと息を吐いて、マントのフードを取る。銀色の豊かな髪が流れ落ちた。ふいに、背後から弾んだ声が掛けられる。
「あっ、クレア!! クレアだ! クレア、大丈夫だった?!」
鼻息荒く広間に飛び込んできたのは、ニコだ。私は、走って来るニコの首筋に抱き付いた。
「ニコ! ニコ、あなたのお陰よ。あなたがルークを呼びに行ってくれなかったら、フロガーと私は、死んでいたかもしれない。ありがとう……ありがとうニコ、本当に!」
私はそう言って、ニコの滑らかな首筋を抱きしめてキスをした。ニコは「えへへ……」と照れ臭そうに足で床を引っ掻く。背後でルークが大きく頷く。
「本当に、今回はお前のお手柄だったぞ、ニコ。ご褒美に、最高の干し草をやらないとな。あとは……そうだな、お前が行きたがっていた魔法の泉にも連れて行ってやろう。特別だぞ!」
「ええっ!? 本当、ご主人様? 絶対の絶対に、約束だよ!?」
「この僕に二言は無い! 必ずだ。フロガーの目が覚めたら、みんなで行こう。フロガーの傷を癒すのにもちょうどいいさ。楽しみにしていてくれ!」
ルークはそう言って、棚に置いた旅行鞄から、淡く輝く光の玉をそっと取り出した。その中では、フロガーが安らかに眠っている。ルークは、回復途中のフロガーから目を離すわけにはいかない、と言って、辺境の屋敷からここまで連れて来たのだ。フロガーを内包した聖なる光玉は、ルークの手のひらを離れて広間の空中に浮かび上がる。
ニコは喜んで、ドカッドカッとその場で飛び跳ねた。ルークが「おい、床が抜けるだろっ」と焦るので、私は笑ってしまう。そこへ、テオが入って来た。銀のトレイにティーカップとワイングラスを載せている。
「ご主人様、奥様。長旅お疲れ様でございます。入浴のご用意をしておりますので、お先にお飲み物をどうぞお召し上がり下さいませ」
広間には贅沢な調度品が並び、ルークに促されて腰かけた大きなソファも、深紅のビロード張りでふかふかだった。私は辺境の屋敷との違いに戸惑いながら、テオに供されたお茶を飲む。華やかな花の香りが立ち上った。
「……美味しいわ! こんなに香り高いお茶は初めてよ。ありがとう、テオ」
私は笑顔で、傍らに立つテオを見上げる。彼は相変わらず無表情に私を見下ろした。
「奥様は、王都で開催される花冠の祭りにはご参加されたことが?」
私は気まずい思いで首を振る。
「……いいえ、無いわ。私は、領地からほとんど出たことがなかったから」
テオは片眉を器用に釣り上げた。
「領地から出たことがない? それは大層お珍しいですね。失礼ながら、領主様のご長女というお立場でしたら、国内最大の花冠の祭りは当然のこと、各地で催される舞踏会やお茶会など、社交の場にご招待される機会はいくらでもございましたでしょうに」
私はちら、とルークを見る。彼は素知らぬふりをしてワイングラスを傾けている。どうやら彼は第三者として、テオと私のやり取りを傍観することに決めたようだ。私は仕方なく、適当な理由を答える。
「……ええ、そうね。けれど私は……静かな場所が好きなのよ。あの辺境の屋敷のように。だから、お誘いはあったけれど、お断りしていたの」
「さようでございますか。……失礼致しました、話が逸れました。奥様にお褒め頂きましたこの茶葉は、その花冠の祭りでのみ販売される特別な花茶でございます。貴族の女性の方々には大変有名なものですので、てっきりご存じのものとばかり」
私はそっと目を伏せる。継母のアイリーンは、もしかしたら嗜んでいたのかもしれない。彼女は華やかなことが好きで、彼女の娘2人……つまり、私の異母妹にあたる、父との間に授かった2人の娘……とは、様々な社交の場に出向いていたのだから。王都の花冠の祭りでのみ販売される、有名な花茶。あのアイリーンが手を出さないはずがない。メアリは質実剛健の素朴な人物だから、きっと興味はないだろうけれど。
私は急に、自分がこの場にはとても場違いな気がして、悲しくなってくる。この屋敷はモーガンの実家とは比べ物にならないほど豪華で、きっと貴族の来客も多く、なのに私は、そんなに有名なお茶一つ知らない世間知らずの陰気な女なのだ……それに。
さっきのロブと言う男が放った一言が、小さな、けれど思ったよりも鋭い棘となって私の胸に突き刺さっていた。私はそっと顔を上げた。向かいでワインを飲んでいたルークが、私の視線に気づき、にこりと笑いかけてくれる。でも、この笑顔は、私だけのものではなかったのかもしれない……。私は咄嗟に視線を逸らしていた。ルークが不審そうに「クレア?」と言った。
ルークは高位の魔術師で、国王の側近。彼の周りには、貴族令嬢だって、娼館の女だって、いくらでもいるはずだ。そんな当たり前の事実に、今更気づく。私は、初めて王都に来て、初めて辺境とは違う生活をしている彼を見て、動揺していた。目の前にいるこの人が、急に、とても遠い世界の人間に見えた。どうしてこの人は、私のような、引きこもりで陰気な女を妻にしているのだろう……。
気付いたら、私は立ち上がっていた。
「……ごめんなさい。私はもう下がらせてもらってもいいかしら? 一日移動して来たから、とても疲れてしまったの。お風呂の用意が出来たら、教えてね」
火の入っていない暖炉の前で毛糸玉を追いかけて遊んでいたニコが、「ボクが寝室に案内するよ!」と言って私の前を飛び跳ねて行く。私は逃げるようにニコの後を追った。
クレアが出て行って数分後。ルークはソファに身を預けてテオを睨んだ。
「おい、テオ。お前ってつくづく意地悪な奴だな。僕の可愛いクレアを困らせるなよ」
ルークの言葉に、テオは軽く頭を下げた。
「申し訳ございません、坊ちゃん。奥様が、まさか花茶のことであれほどお悩みになるとは思わなかったもので。何か、悪い思い出でもあるのでしょうかね」
ルークはグラス片手に暫く床を見つめて考えていたが、やがて言った。
「……いや、花茶が、というわけでもないだろうな。クレアは、僕と結婚するまで色々と……苦しんでいたことがあっただろうから。まあ、いいさ。今晩、ゆっくり話を聞いてみるよ」
「テオが無礼を謝っていた、とお伝え下さいませ。それにしても……どうにも腑に落ちませんな」
「何が?」
「奥様にございます。一体なぜ、奥様はあれほどの美貌でありながら、これまでモーガンの家に閉じこもっておられたのでしょう。領主のご息女という肩書以上に、あれほど美しくてお優しい女性でしたら、これまでいくらでも求婚してくる男性はいらしたでしょうに。坊ちゃんに失礼を承知で申し上げますが、クレア様が、坊ちゃんのような怪しい人物からの不躾な求婚をお受け下さったのは、もはや奇跡と申し上げても差し支えありますまい」
「本当に失礼な奴だな、お前。……でもまあ、僕がクレアに出会えたのは、確かに奇跡だ。僕の人生でこれほど幸運なことはないだろうな。やっと彼女を王都に連れて来れたし、これからは毎日あの可愛い顔が見られると思うと、それだけで仕事にも力が入るね」
そしてルークは、空になったワイングラスをじっと見つめる。その横顔が、何か大切な告白をする時の主人の顔だと知っている従者テオは、一言も発さずその場で直立不動の姿勢で待っていた。だが、やがてルークは、「いや、やはりやめておこう」と軽くため息をついて首を振った。
「……テオ。お前も知っての通り、クレアは僕のたった一人の最愛の妻で、世界で一番大切な存在だ。僕はクレアが喜ぶことならなんでもしてやりたいし、クレアが嫌がることは絶対にしたくない。だから、あの子が誰にも言いたくないことは、僕も誰にも言いたくないんだ。いつかあの子が自分から秘密を明かすと決意するまで、僕はその秘密を守り続ける。お前がいくら僕に忠実で、僕が心の底からお前を信頼していると言えどね。分かるな、僕が言っている意味?」
テオは涼しい顔で頷いた。
「はい、心得ております。御申しつけ通り、坊ちゃんが魔術院に登院されている間、奥様には誰も近寄らせませんし、そのわけも決してお聞きはしません。奥様の日中のお世話は、モーガンの家のメアリと言う女が来るまで、ニコに手伝わせましょう。全ては、坊ちゃんのお気に召すままに……」
「ありがとう、テオ。お前には、いつも本当に世話になるな」
「従者たるもの、当然でございます」
テオはふん、と鼻を鳴らして背筋を伸ばしている。ルークはくす、と笑った。
「……さっきも、お前のおかげで助かったからな。お前が馬を繋ぎに出て来てくれなければ、クレアと非常に気まずくなるところだった」
「ああ、先程お帰りの際の……。坊ちゃんが何やら騒いでおりましたが、あれは一体?」
「ロブだよ。あいつ、さっき通り過ぎざまに、僕のお気に入りの娼館の女、なんて余計なことを言ってさ。おかげで、こっちは気まずくて大変だったんだ。まあ、あの聡明なクレアのことだ。娼館の話なんて、気にもしていないだろうけどね!」
ははは、と気軽に笑うルークに、テオが眉を潜めた。
「坊ちゃん。女心と言うのは、そんなに簡単なものではございませんよ? 先程の、クレア奥様の沈んだご様子。もしや、その発言が影響しているのやもしれません」
「えっ?!」
「女性というのは、愛する相手の女性関係には、ひどく敏感なもの。そういった女心の機微に無頓着かつ鈍感な坊ちゃんには、なかなか理解しがたいことでございましょうが」
「いちいち失礼な奴だな、お前。……だが……うーん。これは困ったぞ! 僕の可愛いクレアに、何と言えばいいのか……」
「何も仰らないのが宜しいでしょうね。坊ちゃんのことですから、墓穴を掘りかねません。何も仰らずに、この先もずっと誠実に、奥様を大切になされば宜しいでしょう」
涼しい顔で言う従者を、ルークは「お前な……」と苦々しい顔で見る。
「だが……うむ。まあ、お前の言う通りだな、テオ。とりあえず何も無かったことにして、これからも毎日、クレアを可愛がってやろう! こうして晴れて彼女を王都に連れて来れたわけだし、実際、僕はクレア以外の女になど、爪の先ほども興味が無いからな。さて。そろそろクレアを風呂に案内して来るよ。クレアが、この別邸を気に入ってくれてるといいけど」




