知恵の女神の施し
その国は知恵の女神に愛されていた。
何せ、国に住む者たちはあまりにも無垢であったから。
人々は困りごとがあると、すぐに女神の下へやってきて希った。
「神様。どうか私達をお救いください」
その願いを受けると知恵の女神は必ず応えた。
「愛しい者たちよ。私の祝福を受けなさい」
女神は彼らが願えば願った分だけ祝福を授けた。
無垢な人間たちは自分たちを庇護し、温かく包んでくれる女神を敬愛していた。
ある日、遠い国から一人の旅人が訪れた。
旅人は国の様子を見て呆れ果てた。
何せ、国に住まう者達は誰一人努力というものをしていないからだ。
日々を食うだけの食事を得るために人々は生きている。
自分が赤子として生まれ大人へと育ったので今度は自らが子供を作る。
その繰り返しなのだ。
この国の者達は努力というものをしない。
知恵の女神の下に守れられた国に生きていながら、知識を求めたり、知恵を追及したりしないのだ。
遠い国から来た旅人からすると、彼らはあまりにも怠惰に見えて仕方なかった。
そこで旅人は女神に会いに行き、彼女へと言った。
「あなたはただ願われるまま考えもなしに祝福を与えています。そのようなことをすれば人は成長の機会を失う。これが知恵の女神と聞いて呆れてしまいます」
女神は微笑みながら旅人へ問い返す。
「では、あなたはどうすれば良いと思うのですか?」
旅人は自信満々に答えた。
「私の国に限らず、他国に住まう人間は知恵や知識を追い求めます。それをすることで神の手を借りずとも自らを成長させることが出来るのです。お分かりですか。あなたは知恵の女神でありながら、その実、彼らに知恵を与えていないのです」
堂々とした立ち居振る舞いをする旅人へ女神は穏やかに問う。
「成長の果てに人はどうなりましたか?」
問の意味をうまく理解できず旅人はしばし閉口する。
そんな旅人に対し女神はさらに言葉を投げかけた。
「この国より平和で争いのない国は存在していますか?」
旅人は女神が何を言いたいかを悟った。
確かに外の世界では知識や知恵故に多くの諍いが起きている。
成長するが故に人々は他者と競争することを知り、やがて小さくない争いや差別を生む。
そして、それは時に無関係な者達を巻き込むような戦争にさえ発展していく。
「人間にとっても最も平和で幸せなこととは神に支配されていることなのです」
旅人は反射的に言い返した。
「神に永遠に支配されていろと?」
「神に支配されていない人間はどうなりましたか?」
旅人は口ごもる。
その様に知恵の女神は穏やかに微笑んで告げた。
「身の丈に合ったままに生きること。どんな命であれ、それが最も幸せなことなのです」
その言葉が旅人にとって忌々しく響く。
今まで見て来た人間たちと愚かなほどに知恵の女神に全てを任せきっているこの国の人間たち。
果たして、どちらが平和で幸福なのか。
旅人は浮かぶ答えを振り払いこの国を立ち去った。
その後ろ背を女神は穏やかに見送った。
知恵を持たない人間というのは何故こんなにも愛おしいものなのだろう。
今日もまた、女神は人々に祝福の光を与え、人々もまたそれを穏やかに傍受する。
知恵の女神に支配されたこの国は世界のどこと比べても最も幸福で平和な場所だった。