10.岬 巧司
2023年6月26日(月) 5:00
明るくなりだすと自然と目が覚めた。
前日は一日釣りをして、夜は美味しい肴と美味しいお酒、そして美味しい釣り談議、普通は夜更かししがちなシチュエーションなのだが、今日の空子にはそこまでの体力はなかった。夜10時くらいになると談議をしていても自然と頭が垂れる。
10時半くらいには部屋に戻って眠りについてしまった。
元来ショートスリーパーで、あまり熟睡をすることがない空子にとっては充分すぎる睡眠時間なのだが身体に疲れが残っているのでもう少し寝ていたい気分だ。
しかし、昨晩は日課となっているSNSを放置したままで眠ってしまったのでそっちの世界の動向も気になる。
そそくさと起き出すと、スマホを取り出し他の人たちのアップした記事を見ては『いいね』をつけて歩く、普段なら気になる記事にはすぐにコメントを付けるのだが。。。
昨日は日曜日だったこともあり記事を上げているブロ友やフォロアーがたくさんでそこまでの手は回らない。
『九頭竜川は釣れてるなぁ、足羽もいい感じ。那珂川は今年も厳しいのかなぁ。使羽さんは大会ダメだったのか。でも、お友達は通ったみたいやなぁ』
梅雨時期とはいえ鮎釣りシーズン真っ盛りで大会も毎週どこかでは行われている。
ネット仲間からの情報が盛りだくさんだ。
そんな盛況なネット界隈に自分の記事もアップしないとなんだか落ち着かない。
なにせ、昨日はシーズンの自分解禁である。皆にも自分の釣果や旅の楽しさを発信したい。
記事を書いてアップすると時間は7時半を回っている。すぐに身支度をすると朝食を食べにカフェ向かった。
カフェに入ると待ちかねたように美和子が出てきて
「おはよう!これ見て」
と新聞を差し出した。
空子は新聞を受け取ると、美和子が指さした記事に目を落とした。
「ええぇ!?」
そこには決して小さくないサイズで空子の笑顔が写っていた。
笑顔だけでなく引き抜きのシーンや釣れた鮎も写っていて紙面には3枚も写真がある。
「すっごい、キレイでしょ?美人に撮れてるわねぇ。旗じいさんはあれでなかなか凄腕のカメラマンなのよ。あ、モデルも良いのよね?」
美和子は何故か嬉しそうに笑っている。
空子はもう一度記事に目を戻すとテキスト部分を読んでみた。
「岡山から一人で四国四郎三郎吉野川へ鮎釣りに来た、美人鮎釣り師の青野空子さんは上流のポイントで見事な腕で入れ掛りを演じた。前夜遅くの雨で水温が下がって地元の男衆でも舌を巻く難しいコンディションで夕方6時までの釣果は22尾と大漁、しばらく滞在予定でまだまだ、腕を振るうという・・・」
「って、え?昨日の釣果尾数はここに帰ってから教えたのにいつの間にこんな記事になってるの?」
聞かれた美和子は「さ~?」という素振りで手を広げて見せると、空子の朝食の準備をしにカウンタの奥へ入って行った。
「まいったなぁ。。。まさか、こんな大きな写真入りの記事にされるとは思ってなかったわ」
カラー写真でないのがまだ救いだが完全な身バレ写真だ。
悪いことをしているわけじゃないしSNSでは自撮りした写真をさらしている。顔が表に出ることにそんなに抵抗感があるわけではないが。。。
やっぱり、紙の媒体となるとなんだか違う気がする。
『ネット仲間に高知新聞読んでいる人いるかな?』そんなことを考えながら新聞の記事を自分のスマホで写真に撮った。
朝食を済ませ、釣りの準備をする。
昨日、履いていたタイツは軒先に干してあるがまだ全然乾いてはいない。
宿からタイツを履いて釣り場へ向かう空子にとって、朝から濡れたタイツを身に着けるのは気が滅入る。なのでタイツは2着準備して来ている。
昨日履いていない方の乾いたタイツを今日は履いていく。
いつもの調子で履いてみたらちょっとだけお腹がきつく感じ
「こっちは古い方のタイツやけど、こんなにきつかったっかなぁ?ちょっと、太ったのかなぁ」
お腹とタイツの間に手を突っ込んで、隙間具合を確かめた。
「うーん。旅行から帰ったら、ちょっとダイエットせなあかんかなぁ」
ぶつくさ言いながらも準備を進めた。
釣り用の身支度が整うと、庭の生簀からオトリ缶を引き上げて中を確認する。
昨日の夜は勇夫に任せてしまったので、どれだけオトリを残したのか把握していないが?
オトリ缶の水を半分くらいにしてふたを開けると6匹の鮎が元気に暴れていた。飛び出しそうなのですぐに蓋を締めると水を注ぎ足して駐車場へ運びCASTのラゲッジに積み込んでブクブクのスイッチを入れた。
車の中を見渡して指さし呼称をする。
「竿ヨシ!タモヨシ!曳舟ヨシ!シューズヨシ!ベルトヨシ!帽子ヨシ!偏光ヨシ!着替えヨシ!!」
「・・・」
「お弁当ダメ!」
不意に入ってきた美和子の声に後ろを振り返ると特性塩むすび弁当の入った包を差し出した。
「ちゃんと、食べないと、倒れちゃうからね!ダイエットはここから帰ってからね」
美和子の言葉に空子は頷きながらも『やっぱり、太ったの気づかれたかな?』と思った。
「今日はあんまり遅くならないように帰りますね。それじゃ、行ってきます」
車を走らせて昨日と同じポイントへ向かう。
川の石が大きく、水量が多く、渓流というか谷川の川相を持つ吉野川では空子が釣りをしやすいチャラ瀬のポイントは少ない。
流れの弱いトロ場か大石の裏の淀みに立って釣りをするしかない。しかも川底の起伏も激しくなかなか川を歩いてポイントを探るような釣りも難しい。
それでも、空子はこの川に引きつけられる魅力を感じていた。シーズン終盤には空子の好きな大鮎釣りもできるというのも理由の一つだ。
今回の釣行では、そんな秋の大鮎釣りに向けたポイント探しも行いたいと思っている。
でも、やれるポイントは絶対的に少ないから見つけたポイントは納得がいくまで試したい。
『兎に角やってみて、ダメそうなら他のポイントを旗じいに教えてもらおう』
旗野は今日は午後から同じポイントに釣りに行くと言っていた。
ポイントに到着すると昨日より停まっている車の台数が多いようだ。
まだ、準備中の人がいたので挨拶して隣に車を停めさせてもらい、運転席から降りて行くと声を掛けられた。
「岡山から鮎釣りに来ている方ですか?今朝の新聞の釣果情報を見ました」
「はい、まあ、そうです」
「昨日もここで釣ったんですよね?頑張ってくださいね。たぶんこの辺の車の人は新聞記事を見て来たのだと思います。地元の人は背景を見ればポイントわかっちゃいますからね。みんなよく吉野川で釣りをしている地元の人たちなので何かあったら聞いてください」
そういうと、川に下りる通路を歩いて行った。
『やっぱ、ネットでも新聞でも高釣果情報が入るとお客さんは増えるんやなぁ』
そんなことを考えながら支度をする。
『今日は日焼け止めも塗ったし、いざ!』
オトリ缶を担いで川へ降りて行くと、昨日のチャラ瀬を確認した。
この川ではチャラ瀬と呼べるような流れ自体少ないが、チャラ瀬は不人気らしく誰もやっていない。
「今日もここからにしよ」
呟くとオトリ缶からオトリを取り出し曳舟に3匹だけ入れた。
「明日は午後から行くんでな。生きのいいオトリを釣っといてくれ」
昨日の夜の旗野からの指令であるが、昨日の午前の釣果はわずか一匹である。自分が旗野にオトリを分けられるほど午前中のうちに釣れるとは思えない。
最初から旗野の分を取っておけば午後来たときにオトリで困ることはないだろう。
さて、昨日はフロロの太仕掛けが良かったように思うが、本日はどうだろうか?
『でも、フロロは帰り際にドンブリで高切れしているしなぁ』
予備の仕掛けはあるが仕掛け合わせもめんどくさいので昨日の朝使用した複合を取り出すと穂先にセットした。
針は朝は追いが悪いだろうし、3本チラシにしておこう。
道具立てが終了すると時間は9時、オトリに鼻カンを通して浅い流れの中へ送り出した。
「いってこい」
丁寧な竿操作を心がけるが、腕だの背中だのあちこちに痛みを感じる。
ここに来るまで気が付いていなかったが昨日の釣りの後遺症で筋肉痛になっているらしい。
「まあ、昨日がシーズン初日だから筋肉痛はしゃーないな。昨日の今日で痛みが出てきただけまだ若いわ」
釣り始めると、入れ掛りにはならないまでもポツリポツリと鮎は掛かる。
水温が昨日の朝よりは高めなせいか、それなりに追いも良さそうだ。
掛かってくる鮎は黄色い。
ただ、野鮎がいてもすぐには追わないらしく釣れそうなポイントで長く泳がせていると忘れた頃に急に掛る感じだ。
また、今日は釣りをしていると後ろから声を掛けられることも多い。
やっぱり今朝の新聞を見たという人が声をかけてくれる感じで、中には「ブログの読者です」そう言っていれる人もいて、ちょっと嬉しかったり恥ずかしかったりな気持ちにもなった。
結局、午前の釣果は6匹。
9時から初めて3時間で6匹の釣果はどこにでも好きなところに入って釣りができる身体能力がない空子にとっては決して悪くない釣果だ。
『腹ごしらえしよう』
仕掛けと竿をしまって、曳舟を固定して川をあがる。
少し急な坂を上って愛車CASTにたどり着くと、すでに休憩をしていた鮎釣り師たちが一斉に話しかけてくる。
「どうだい?今日の調子は?」
「昨日みたいに釣れたか?」
どうやら、今朝聞いたように、みんな新聞の記事を見て集まった釣り師らしい。
「まあ、まあ、ですよ。午前中で6匹でした。アタシとしては良い方です」
そう言うと聞いていた釣り師たちは、納得気な顔をしたり、ちょっと残念そうな顔をしたり、予想以上と驚いた表情だったりとマチマチの反応を見せた。
「皆さんはどうでしたか?」
空子も聞き返してみたが
「まあ、だいたい同じくらいだよ」
そんな当たり障りのない反応で、話の膨らむ感じではない。
車に竿をしまって装備を軽くし、クーラーボックスの中から宿を出るときに弁当と一緒に渡された水筒の麦茶を飲んだ。丁寧に煮出してある麦茶はキンキンに冷えているが香り高い。
食道を通り胃の中からクールダウンすると、同時に身体の隅々へと水分とミネラルが供給されるのを感じる。
『なんて、美味しい麦茶だろう』
たかが麦茶に凄い気遣いを感じる。民宿いごっ荘に改めて感謝した。
もちろん、お弁当の美和子特性塩むずびは、少し辛めの塩加減で釣りの間に失われた塩分を高レベルで補ってくれる。
また、保冷剤と一緒に包まれたタッパーにはキュウリとナスの漬物と丸のままのトマトが入っていて、夏の野菜が必要な栄養を補ってくれる。
『本当にもう感謝しきりや』
ご飯を食べながらスマホを取り出すとブログやSNSをチェックするが、今日は平日だからSNSも静かで、記事や写真をアップしている仲間は少ない。
とりあえず午前の釣果写真とコメントに「午前の釣果、午後も頑張る」とだけつけてアップした。
「主要なブログ巡りは終了したし、午後の釣りへGO!」
身支度を整えると、川へ降りて行った。
「午後はどうしようかなぁ?旗じいさんは何時に来るやろ?とりあえず来るまでは浅い所でやってた方がええかなぁ?昨日みたいに入れ掛りになるかもしれんしなぁ。。。まずはそうしよう。なんとかなれ~!」
『午後は昨日調子の良かったフロロ0.25で初めて見るかな』
そう考えると、新しい仕掛けを取り出して穂先に取り付けた。新品の完全仕掛けは長さ合わせをしなければならないのが少し面倒だが少しの面倒で釣果が増えるなら、めんどくさくてもやった方がいい。
「釣りはめんどくさいことの積み重ねで、最後の釣果に差が出る」
『そんなことを言っていたのは誰やったかなぁ、使羽さんやったか?使羽さんか?あの人の言うことではなんか胡散臭いなぁ』
そんなことを考えながらも長さ合わせは完了。
オトリに鼻カンを通すと流れの中に放してやった。
すると、ほどなくして目印が飛ぶ。
午後の一匹目が掛かり、無事に取り込む。
掛かり鮎をオトリ替えてリリースすると出し掛りで掛かった。
「やっぱり、この浅場は午後に活性が上がるらしい。ようしあっがれー!」
午後二匹目の鮎を引き抜くとうまい具合にキャッチできた。
そのとき
「あのう、失礼ですが写真撮らせていただけないでしょうか?」
後ろから声を掛けられた。
『また、今朝の新聞記事を見た人かな?』
「いいですよ、減るもんやないし」
振り返って見てみるとテレビの報道特番でしか見た事の無いような大きなカメラがこちらを向いている。
そして、瞬間に
「カシャ!」
振り向いた刹那、若い男から写真を撮られた。
写真を撮られた空子は思わず
「また、このパターンか?」
「え?」
「いや、こっちの話や。昨日も似たようなシチュエーションがあったもんやから。。。すまんけど、もう新聞は堪忍やわぁ」
「あ、いえ、自分は。。。こんなカメラ使ってますけど新聞記者とか報道の人じゃありません」
「でも、それってプロ用のカメラやないの?」
「はい、あの、これは大事な友人からの、大事な借り物でして、とても大事なカメラですが、僕は普通の人でして、普通というか写真は素人なのですが・・・」
「ふーん?兎に角、大事なを三回繰り返すほど大事なカメラで、普通の人で、普通の素人なんやな?」
「はい、普通の普通です。でも、大事なカメラで川の写真を撮っているところです」
「へー?川の写真なぁ?」
「はい、川の写真を撮っていたら、釣りをするあなたの姿が目に入り、その振る舞いが凄くカッコよく見えたので、つい、声を掛けさせてもらいました。ホントは声をかける前にも向こうから写真を取らせてもらっていたのですが。。。」
緊張しているのか、ちょっと、挙動不審な感もするが悪者ではなさそうな男の言葉を空子が聞いていると、旗野が現れた。
「なんじゃ、その男は?嬢ちゃんの知り合いか?」
「いや、今ここで初めておおた普通の人で川の写真を撮って歩いとるんやて」
「ほ~う?」
旗野は品定めでもするように男を上から下まで舐めるように見ると
「ほうほう、ニコンD6じゃな?ちょっと見せてくれんかのう?」
「え?これですか?はい、どうぞ」
男は首に掛けたストラップを外すと旗野に渡して見せた。
「へー、なるほどのう、ふーん?ちょっと弄ってもいいかのう?」
「はい」
男は少し不安そうな表情を浮かべたが旗野の言葉に応じる。
旗野はカメラのダイヤルを回してみたり、ファインダを覗きながらシャッターボタンを半押しして、オートフォーカスの反応を確認したりと、カチャカチャと触って
「何枚か撮ってもいいかのう?」
そういうと返事も待たずに川の流れや、空子にレンズを向けるとシャッターを押して写真を撮った。
4,5枚の写真を撮ると再生ボタンを押して写真の出来具合を確認する。
「液晶の画面じゃ小さくてようわからんが絵のつくりは如何にもニコンという感じで悪くないのう。もっとも高額のフラッグシップカメラが悪かったら困るがのう、ちょっとお前さんの撮った写真も見ていいかのう?」
「ええ、いいですよ。でも、川の写真がほとんどですよ」
旗野は写真を遡ってみはじめた。
「ふーん?うーん。。。」
暫く遡って写真を眺めると男の方を見て
「なっとらんのう、お前さんの撮りたい写真はなんじゃ?」
聞かれると、男は少し困った表情を浮かべながら
「川の写真を撮っています」
と答えた。
「それは分かるのじゃが、川の何を撮りたいのかじゃ」
「・・・」
男が答えに詰まっていると旗野は続けて言う。
「人は写真を撮るとき何かに心を惹かれてシャッターボタンを押すものでのう、それは意識していなようでもシャッターボタンを押したという事は、何か撮りたいと思わせたものがあるはずなのじゃ。だから出来上がった写真の中には心を惹かれた何かがあるのはずなのじゃが。。。その心が惹かれた何かを一枚の写真を通して、写真を見る者に伝えられるか否かが良い写真かただの写真かの違いじゃな、お前さんの写真はどこに心を惹かれてシャッターボタンを押したのかがさっぱりわからん。カメラの性能がいいでなぁ、写真のピントは合っているのじゃが、お前さんの心のピントが写真の中に入っておらんのじゃ」
男は旗野の言葉を真剣に黙って聞いている
「じゃがのう」
旗野は少しニヤついて男の方を見ると
「嬢ちゃんを撮った写真が何枚かあるが、この写真だけは少しはマシじゃな、明らかに嬢ちゃんに惹かれておる。これは惚れたおなごを撮った写真じゃぞ。ガハハハッ!」
そう言いながら空子にカメラを手渡し液晶部分で空子の写った写真を見せる。
空子もカメラを受け取ったので他の写真と見比べてみたが、あまり違いは判らなかった、どれもきれいに撮れている。
「そんなに、あかんのかな?」
空子なりの感想を述べてみるがあまり相手にされていないようだ。
しかし話を聞いていた男は旗野に対して意を決したように申し入れた。
「おっしゃる通りで川の写真を撮ってはいますが、正直言って何を撮って良いのか分からないのです。というか、自分でも何を撮っているのか分かりません。実はある知人から仁淀川の写真を撮ってくるように頼まれたのです。このカメラはその人からの借りものです。でも、川の写真なんてどう撮ってもみんな同じにしか見えないのです。なので、いきなり仁淀川に行くことも躊躇われ、近隣の川を回ってどうすればその人に喜んでもらえる写真を撮ることができるのかを考えていました。不躾な申し出なのはわかっていますが川の写真の撮り方を僕に教えて頂けないでしょうか?」
あまりに真っ直ぐな物言いに旗野も無下には出来ない様子で
「そしたら、先ずは、この嬢ちゃんの写真を納得いくまで撮ったらどうじゃ?ただし、シャッターボタンを押すときは、自分が何を撮りたいのか、どこに惹かれたのか出来るだけ意識してシャッターボタンを押すのじゃぞ」
「嬢ちゃんも、暫くこやつのモデルになってやってくれんかのう。嬢ちゃんの魅力がこやつの潜在意識を引き出すのにはもってこいじゃ、何せこやつは嬢ちゃんに惚れとるでのう」
言うと旗野はまた「ガハハハハ」と高笑いを上げた。
それを聞くと男は空子に向かって改めてお願いをした。
「すみません。モデル代は出せませんが暫く写真と撮らせてください。惚れているというのはちょっと違うと思いますがこちらの御仁が言うようにあなたの魅力は僕の写真を撮るヒントになりそうな気がします」
「そこまで言われたらNoとは言えんわ、減るもんやないしなんぼでも撮ってええよ」
「ありがとうございます。僕の名前は岬と言います。岬 巧司です。好きなように呼んでください」
「そんなら、巧司。私よりだいぶ若そうやし呼び捨てにさせてもらうわ。私は青野 空子、みんなからはクーと呼ばれとるからクーでええわ。それからこちらは旗野さん高知新聞の記者をしてるんやって」
「正確には高知新聞の契約ライターじゃ。小遣い稼ぎでたまに記事を書かせてもらっておる。本業はカメラマンじゃ、もっとも今は引退して趣味で写真撮っている程度じゃがのう。みんなからは旗じいと呼ばれておるので、そう呼んでくれればよいぞ」
「そうそう、それと巧司君。この嬢ちゃんを撮った写真はそのカメラの持ち主に見せたらいかんぞ、おそらく焼きもち焼かれるでな」
旗野は言うとまたも「ガハハハハ」と高笑いを響かせた。
巧司は旗野の言葉に『なんで、そんなことが分かるんだろう?』と思ったが少し苦笑いをするだけでなにも聞き返さなかった。
これまでカメラや写真の話題で少し置いて行かれた気分になっていた空子がやっと自分も番が回った来たと話に割り込む
「そんなことよりも旗じいさん、その竿使わせてくれるんやろ?まかさ、酒の席での勢いやないよなぁ?」
「はて?そんなことを言ったかのう?」
そう言いながら右手に持っていた竿を背中に隠す素振りをする。
「そんな、しらばっくれんで貸してぇ」
「昨日も言ったが、こいつは特別な竿じゃからなぁ、いくら嬢ちゃんの頼みでもなぁ、困ったのう。。。そしたらこうしよう、今から夕方までに20匹釣れたら貸してやろう。夕方と言っても今日は早く帰ると言っておったからのう夕方5時迄がタイムリミットじゃ、これでどうじゃ?」
「乗った!今度はしらばっくれたらあかんからな、巧司が証人や!ええな、巧司!」
巧司は、いきなり何度も呼び捨てにされて少し戸惑いの表情をみせたが、自分を受け入れられた様に感じて嬉しかった。
「わかりました、僕が承認になります」
すると、旗野も乗ってきたようで
「それじゃ、巧司が審判じゃぞこの嬢ちゃんの写真を撮りながら釣った鮎をしっかりカウントするのじゃ、言っておくがカウントするのは掛かり鮎だけじゃからな、鮎は釣れると2匹の魚がついてくるから下についている方だけをカウントするのじゃぞ、わかったな!ついでに嬢ちゃんの写真はさっき教えたことを忠実に守って撮るのじゃ、後で見て気が入っていない写真があったら、一枚につき嬢ちゃんの釣果を一匹減らすからな」
「そんなん、ずるいわ、あたしの釣った魚はあたしの釣果や、巧司がへっぽこ写真を撮ったら巧司のミスやから一枚につき一杯奢る!それで堪忍したる」
「旗じい、オトリはオトリ缶の中に3匹おるけぇ、勝手に出して使こうてええわ、あたしは忙しくなったんでさっさと釣り開始するわ!」
空子は言い放つや、川の中に入って引き船からオトリを出すと鼻カンを通して沖に放した。
巧司はそんな空子の表情を逃すまいと、空子に向けてレンズを向け、しきりにシャッターボタンを押すのであった。
16時30分腰まで立ち込んで返し抜きで入れ掛りを見せる旗野を横目に、空子は丁寧に丁寧にオトリを泳がせていた。時折りプチ入れ掛りはあったが毎回ショートで終わってしまいここまでの釣果は15匹。
あと、30分で5匹は入れ掛りポイントを見つける必要があるがあまり広範囲を探れない空子にとっては魚がついているポイントを見つけるのはなかなかに難しい。
【掛かるのは時間ばかり】とはよく言ったものだ。
野鮎の反応がなくなってからすでに30分以上経過している。
空子が楽に入れるエリアの魚は釣りつくした感が否めない。あと一歩奥に入れば流れの筋にオトリを入れられるのだが。。。
一か八かで少しずつじわりじわりと奥に入り込む。
普段の空子であればそんなことはしない。自分のボーダーはきちんと決めてありそれをきっちり守って釣りをすることこそが自分の釣りだと自負している。
安全に釣りをすることこそが家を送り出してくれた娘たちへの責務だ。
でも、今日は無理をしている。なぜだかわからない。
それほどまでに旗野の虹色の竿が借りたいのか?
巧司がずっと見守ってくれている安心感か?
単純に旅の解放感なのか?
兎に角、明らかにいつもの自分のボーダーラインは越えている。
それでも、立ち込むことを止められない自分がいる。幸い足場はしっかりとした石が入っていて足を掛けて踏ん張ることができる。
『ここからなら、あの流れに入れられる』
オトリは美味く泳いで沖へ向かって離れていく、狙いの流れに入った瞬間に目印が飛ぶ。
「やっぱり、そこにおったな!」
空子は両手、両足に力を込めると思いっきり踏ん張る。
ここは空子にとってはテリトリー外だ。一歩も下ることは出来ない。
流れの筋に入っていた野鮎の引きは強烈で竿が伸される。
「右手を下げて、腰も下げるのじゃ、そしたら左手を身体に引き付けろ」
旗野の声が聞こえてきた。
「タモの事は忘れていいから、両手でしっかり竿を支えてその角度なら魚は浮いて来る」
「ほら、オトリが水を切ったでな、掛かり鮎が水面に見えたらおもいっきり両手で引き抜け」
「よし、掛かり鮎が出てきた!今じゃ、引き抜け」
「両手を思いっきり上げて、天に向けてのの字を描くのじゃ、そしたら少しブレーキがかかる。糸を緩めんように後ろへぶん投げて、振り子の死点の位置で水に付ける。今じゃ、川に落とせ!」
「糸は弛めるな、流れに乗って自分のところへ泳いで来たら、ツマミ糸を左手で掬い獲れ!」
「あとは竿を担いで、ツマミ糸を右手に持ち替えて、左手でタモを準備」
「タモの中に掛かり鮎を落とせば」
「うむ、完璧な返し抜きじゃったぞ」
「そいつを覚えれば釣果は今より2倍になる。しっかり覚えておくのじゃ」
旗野から言われるままであったが、体は動いた。
『まだ、行ける!』
空子は掛かり鮎とオトリを交換するとまたすぐに送り出した。
『あと、4匹。時間はあと20分。入れ掛り来い!』
5分に一度のペースの入れ掛りが4匹続けば20匹になる。
「一つ」
・
「二つ」
・
「三つ」
・
「四つ」
「よっしゃー!」
叫んだ瞬間に4つ目はバレた。
そして、無情にもタイムアップ。
17時となった。釣果は19匹。1匹足りない。。。旗野との賭けには負けてしまった。
ひょこひょこと空子の傍に旗野が歩いてきた。
「どうじゃった?」
「19匹やった」
旗野は巧司の方へ目をやってみたが、巧司も首を横に振っている。公正なジャッジメントでも20匹には届かなかったという事らしい。
これまで、写真を撮っていた巧司も寄ってきた。
旗野は巧司に向かって
「どれ、ちょっと写真を見せてみぃ」
巧司は言われるとおりに旗野へカメラを手渡す。
旗野はカメラの再生ボタンを押して、その後の巧司の写真を確認する。
「うむ、やっぱり嬢ちゃんを撮った写真は光っておるわ、他の写真は、うーん。まあ、午後一に見たときよりはだいぶ良くなっておるかのう」
そして一枚の写真に目が止まり写真を送るのを止める。。。
「この鮎の写真、嬢ちゃんを撮った写真じゃないが、この鮎の写真はすごくいええのう」
そう言って、空子にも写真を見せた。
見せられた空子にはあまり良し悪しの区別はつかないが、確かにキレイな写真ではある。
「この写真に免じて、嬢ちゃんの釣果は1匹追加という事してやるぞな、これで20匹という事で良いことにしようぞ」
「ええ?ほんとに?ほんとにええんか?」
「うむ、まあ、ええじゃろ、もともと、普通に貸してやるって言った訳じゃしのう」
「ありがとうなぁ、巧司もええ写真撮ってくれてありがとうなぁ」
「さて、上がるとするかのう。巧司はどうする?」
「僕は物部のライダースインに泊っているので、そこに帰ります」
「そうかぁ、飯ぐらい一緒に食いたいと思ったのじゃがなぁ、明日はどうすのじゃ?ここに来れば明日も写真を見てやるぞい」
「本当ですか?それはありがたいです。写真の事とか川の事とかいろいろ教えてください」
「そしたら、明日はいごっ荘へ泊ったらどう?多分、部屋は空いていると思うし、キャンプサイトもあって、テント泊のレンタルもできるって言うとったしな。どうや?。。あ、いごっ荘、言うのはあたしが世話になっている民宿の事や、旗じいさんも顔見知りでよく遊びに来ているらしいなぁ。予算的にもそんなに高くはないと思うんやけど」
「そうですか、一度、お二人とちゃんとお話もしたいですし、明日はそちらにお邪魔してみようと思います」
「そしたら、帰ったら宿の大将か女将に聞いてみるわ、結果は連絡するから連絡先教えてもろうてもええか?」
空子はスマホを取り出すと手慣れた手つきでラインのコードを画面に出して巧司に見せた。
巧司も自分のスマホを出してコードを読み取りった。
「旗じいもついでや、これを読み取ってえや。まさかスマホくらい持っとるんやろ?」
「当り前じゃ、スマホぐらいもっとらんと仕事にならん!が、そんなめんどくさい操作はわからんから勝手にやってくれぃ」
そういうとスマホを差し出し空子に渡す。
「まったく、しゃーないなぁ。。。ほら、巧司のも入れとくからコードだして」
サクサクと三人のアドレス交換は終了した。
「それじゃ、上にあがるかのう」
旗野が口にすると三人は各々の荷物をもって土手の小道をあがり出した。
土手をあがり駐車場にたどり着くと、空子のCAST、旗野の軽トラ、巧司の大型バイクが停まっていた。
旗野は大型バイクに近づくと
「ほう、Wか、ええのう。わしも昔はダブサンに乗っておったわ。もうだいぶ前に手放してしまったがのう。ちょっと跨らせてもらってもええかのう?」
「はい、いいですよ」
旗野は鮎タイツを履いたままカワサキW800に跨った。
「ふむ、ポジションは楽だし、見た目よりは軽いのう」
「そうですね800ccある感じはしないですかね。メッキパーツが多いので重たく見えますが、見た目ほどでなないかもしれないです」
また、空子にはわからない世界の会話が始まった。
長くなるかと思って聞いていたが
「ありがとうなぁ」
そういうと旗野はバイクから降りて話を切り上げ
「今度、ちょっとだけ乗せてくれんかな?」
「もちろん、いいですよ」
それだけの会話でバイク談議は終了した。
「それじゃ、僕はここから帰るのに1時間くらいかかるのでお先に行かせてもらいます。明日は何時ぐらいに来ればいいですか?」
「何時でもええ、たぶん嬢ちゃんは9時くらいには釣りを始めるじゃろ。わしは明日は釣りはやらんでな」
「分かりました。それじゃ9時を目安にここに来ます。明日もご指導よろしくお願いします」
巧司はそういうとW800に跨るとエンジンをかけて走って行ってしまった。
空子と旗野も帰り支度を始める。
そうは言っても二人とも鮎タイツを履いたままの恰好で帰路につくのでそれほどの時間は掛からない。
旗野は自分の軽トラに乗り込むと窓を開けて
「あとで、いごっ荘に行くで、またな」
そういうと空子とは逆の方向へ走って行った。
空子もCASTに乗り込むといごっ荘へ向けて車を発進させた。




