後編
見えないドアを潜った。のどかだった世界は既に瘴気で満たされていた。
丘の急斜面を滑り降り、森に入ると、ユキナが言った。
「動物さんたちが……いない……」
「いや、いる」
イザンが二人に言った。
「気をつけろ」
そう言うなり、木の上からリスが降って来た。正確には、リスの身体をもつ牛の首だった。小さなリスの胴体の上に、巨大なそれが乗っているのだ。
イザンが左手を構えた。その指先から黄色い閃光が走る。リスの身体の牛の首の額をそれは貫き、絶命させた。
「ひぃっ……!」
ユキナが怖がり、兄に抱きつく。
「こっ……、これは!?」
アキラは地面で痙攣しながら死んでいるものを見下ろし、イザンに聞く。
「牛の首は獲物の頭部を斬り落とし、その断面にとりついて、胴体からエキスを吸うのさ。吸いきるまでは獲物の身体が牛の首の身体になる」
「さっきの黄色い光は何?」
「俺は元傭兵だからな」
イザンは指先に小さな穴の開いた自分の左手を見せた。
「レーザーが仕込んである」
森を抜けると前方に家が見えて来た。
ユキナが掴んでいたアキラの服から手を離し、走り出す。
「パパーっ! ママーっ!」
「バカ! ユキナ、戻れっ!」
イザンがそれを追いかけた。
家の中に、明らかに、いる。
窓から中にいるものの影が蠢いているのが見えた。
今のユキナの声で間違いなく気づかれた。
なんとかユキナを捕まえると、そのままイザンは玄関から出て来たそいつに左手を向けた。
「あー!」
ユキナが泣き崩れた。
「……パパ!」
現れた牛の首は触手ではなく、二本の足で歩行していた。着ている服は父が着ていたものだ。めちゃくちゃな動きで腕をぶらんぶらんと振りながら、それはこっちへ走って来た。顎の下の大きな鋏を広げながら。
イザンがレーザーを放つ。
娘の前で父の心臓に穴が開いた。そこから夥しい量の血が噴き出すが、父の足は止まらない。頭を狙い、もう一発撃つと、ようやく動力の切れたロボットのように足がもつれ、倒れた。
「アキラ! 離れるな!」
イザンが振り向き、声を投げる。
しかし手遅れだった。
アキラの身体に牛の首のついたものが、ゆっくりとこちらへ歩いて来ていた。向こうには少年の頭部が転がっている。
イザンは自分の家のほうを見た。入口の扉は、閉まっている。それならば中に牛の首はいないはずだ。
急いでユキナを抱え上げると、走った。アキラもたどたどしく走って追いかけて来たが、身体の操縦にまだ慣れていないのだろう。途中で転び、地面に頭をぶつけた。牛の首の鼻から黄色い液体が漏れ出す。
玄関のドアを開け、飛び込んだ。
鍵をかけ、窓の閉まり具合をチェックすると、急いで無線機のところへ行く。
「本部! 本部! 応答願います」
男性の声が返って来た。
『どうした? イザン・ツップ監視員。何か異常か?』
「原住生物に囚人が殺された。俺まで殺されそうだ。一般人の子供がいる。一人だ。地球へ帰したい。迎えに来てくれ」
『子供? なぜ子供がいる?』
「話せば長い。宇宙船が不時着したことがあった。その時の旅行者の子供だ。保護してる。迎えに来てくれ」
『上部と相談する』
「チッ! 早くしろ!」
無線は向こうから切られた。
「さて……」
イザンは窓を見た。
「保つかな」
窓を埋め尽くして、牛の首が覗き込んでいる。ざわざわとコンクリートの土台を踏む足音がうるさいくらいだった。
イザンが部屋の壁の小さな隠し扉を開ける。中に現れた赤いレバーを倒す。
ユキナが悲鳴を上げた。強いGが発生し、立っていられなかったのだ。床に倒れ、押しつけられる。イザンの小さな家は10mほど地上からせり上がっていた。
「非常用だ。牛の首に垂直を登って来ることは出来ねーだろ」
地中から鉄の柱が伸び、家を高く持ち上げたのだ。今、イザンの家は、木の上にあるようなものだ。
窓の下を見ると、牛の首が増えていた。30体はいるようだ。その中に混じって、アキラと母が並んで立っていた。二人とも頭部が牛の首になっている。アキラは母にやられたのだろうかとイザンは思った。正体は猟奇殺人犯の片割れとはいえ、長い間、愛する母親だと思って来たものに襲われれば、油断もするだろう。
イザンは壁の写真を見つめながら、呟いた。
「エレナ……。守ってくれ」
写真の中の恋人は薄青いワンピースを着て、笑っている。もうこの世にはいない恋人だった。イザンが一番好きだった服を着て、写真の中だけで笑っていた。
「ユキナ」
イザンが彼女の肩を掴む。
「安心しろ。やつらは登っては来れない。迎えの船が来るまで持ちこたえられる」
船へは空中乗船出来るはずだ。何も心配はないように思えた。
しかしイザンはもう一度窓の下を見下ろし、どきりとした。
アキラと母親の姿が消えている。
ぎしり、ぎしりと、何かが登って来るような音を感じる。
家を持ち上げている鉄の柱は、平面ではなかった。回転して上へ伸びる仕組みになっているため、ネジのような山が切ってある。
その山を伝って、二人が登って来ているとでもいうのだろうか。
『バカな! いくら人間の身体を得てるからといって、あんなところにぶら下がりながら登って来れるものか! フリークライミングにも程があるぞ? 自分の体重で指が千切れそうになるはずだ!』
しかし、二人には、おそらく痛覚はない。指が千切れようとも、登って来ても何もおかしくはない。
イザンの前に、窓の下から二つの影が、並んでせり上がって来た。
イザンは後ろへ弾き飛ばされた。二人が拳を揃えて窓を打ち破ったのだ。大きな目玉をぎょろりとさせて、二体の牛の首が並んで入って来る。割れたガラスに手をかけて、力を入れて身体を持ち上げる。手の甲から貫通したガラスが見えていたが、二人ともまったく意に介せず、止まらず入って来た。
「お兄ちゃん!」
ユキナが笑顔で叫んだ。
恐怖で狂ってしまったのだろうか、とイザンは訝しがりながら、先に入って来た母親のほうへ左手を向ける。
その動きが、止まった。
母親は薄青いワンピースを着ていた。
エレナにそっくりだった。
「エレナ……」
イザンの首が転げ落ち、床の上にどんと重い音を立てた。
「お兄ちゃん!」
泣き顔を笑わせながら、ユキナは兄の身体に抱きついた。
兄の両手が小さな肩を掴む。ぎょろりと大きな目玉がユキナを見つめた。顎の下から突き出した鋭い鋏が、その小さな首を、斬り落とした。
地球からの迎えの船が来たのはそれから数日後だった。