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魔法少女壱湖は戦わない  作者: 大西 憩
1/10

魔法少女は忘れない


 壱湖(いちこ)は数日前、病院で目が覚めた。それはそれはまるで産まれたての赤子のような気分で目を覚ました。起きてからすぐ、一日で退院し自宅へまっすぐ戻ったのだが、壱湖は妙にフワフワとした気分だった。

 …自分の名前や自宅への道のりはわかる。けれど、それ以外の記憶がすっぽり無いのだ。

 目が覚める前、自分はいったい何をしていたのか。親はいるのか。働いているのか。学生なのか。自分のことがにっちもさっちもよくわからないのだった。


 壱湖はとりあえず、自宅の近くをふらついていた。運動不足解消のために医者が歩けと言ったからだった。

 ――ああ、あの時に記憶が無いことになんで気が付かなかったのだろう。医者に相談すべきだった。と、壱湖はがっくり項垂れながらあちこちをふらついた。あんまりにも自然に医者との会話が進み、なにも不都合なく退院手続きが済んだものだからこんなにもすんなり家へ帰ってしまったのだ。

 しばらくあちこちを歩き回っていたが、この辺りは変に自然が多かった。

 道脇の雑草はもうもうとし、しばらく車は走っていないのか道路はひび割れ、その割れ目からは道脇同様に雑草が生え道路の傷を覆っているようだった。


 しばらく太陽を背に歩いていた。

 西日がきつい時間帯だったからだ。ずっと眠っていたらしいから太陽を見るとまるで眼球を焼かれたような心地になるのだ。

 そろそろ自宅へ帰ろうか、と壱湖はぼんやり考えていた頃だった。

「壱湖?」

 背後から耳をすませば聞こえるかのような、か細い少女の声だった。か細く聞こえたのはきっと彼女の声が少しハスキーめいたかすれた声だったからだろう。


 壱湖は声の方を振り返った。


 そこには、控えめなゴシック風の服を着ている、”奇抜な”少女が西日を背に、立っていた。

 淡いとも濃いとも取れる髪は桃色でとても豊かだった。

 大きなウェーブがかかったその桃色の髪は、逆光も相まって生き物のようにぐわぐわ揺れ動いているように見えた。逆光だというのに、少女の薄い紫の瞳は光って見えて、壱湖はちょっと不気味に感じた。

「…」

壱湖は押し黙ってしまった。壱湖はその少女のことをもちろん知らなかったし、なんだかその少女から変な圧力を感じたからだ。

「…お散歩?」

 眉を下げ、悲しげに微笑んで桃色の少女は尋ねた。

 逆光でよく見えないがそこそこ整った、端正な顔立ちの少女だと壱湖は思った。こちらの名前を知っているのだから知り合いなのだろうが、壱湖が頭をひねらせてもどうにもやはり、彼女の名前は思い出せなかった。

「えーと、」

 壱湖はあまりに突然の質問にもじもじとしてしまった。何を切り返せばいいのかわからなかったのだ。

 それは無理もない。なぜなら病院からここにくるまで医者と看護士としか話していないし、”自分の知り合いらしい人間”誰とも会っていない。そして果てには壱湖は記憶が一片たりともなかったのだ。

 今の状況は全く知らない人に突然話しかけられているのも同然なのだから、誰だってもじもじもするだろう。

「…今から、機関へ行くんだけど壱湖もいく?…退院報告、しないと」

 彼女はいやに優しい声で話した。まるで怯えた猫にでも話しかけるようだった。彼女の表情は逆光故に読み取れないが、困ったように微笑んでいるのだろうと声色で壱湖は察した。

 …多分だが、この桃色の少女は記憶を無くす前の自分の知り合いであり、もっと多分だが、「機関」と言うのは壱湖の行かなければならない場所、なのだろうと壱湖は思った。


 しばらく少女についていくか悩んだ。

 何と言ったって突然現れた彼女はひどく怪しく思えた。しかし壱湖は少女に見つめられる中悩んだ末、桃色の少女について行くことにした。

 どうも、自分に敵意のあるようには思えなかったからだ。


***


 桃色の少女にのこのこついてきた壱湖は、自宅を通り過ぎて程なく自宅近辺とは全く雰囲気の違う街に出た。

 壱湖の自宅周辺は人のいない閑静な団地のようで道路はひび割れ屈折し、雑草が濛々と生えていた。

 しばらく歩いてたどり着いたここは、あちこちに白い背の低い建物が建っており、道路や街頭、何から何まで真っ白だった。どれもおしゃれではあるもののあまりにも無機質だ。

 そんな印象の建物で街は埋まっているものの、人の姿は見えず寂しげだった。

 清潔そうなこの街に、人は住んでいるのだろうかと壱湖は疑問に思った


 桃色の髪をした少女とやってきた場所は、自宅から合計すると徒歩15分程度のところにあった。その建物は街の真ん中あたりにまるで座禅する大きな仏のように鎮座していた。

 …嫌に大きく近代的、真新しく尖ったような建築のそれはそれは真っ白な建物だった。


 この施設のことも壱湖はすっかり記憶になかった。

 施設の前に立ち止まり、当たりを見渡すと先ほどまで居た自宅が見えた。丘の上にある小ぶりのマンションで、壱湖思ったよりもずっと高台にあったようだった。街の背景になっているような山の上に、洒落たデザインのマンションがぽつんと建っていて自分の住む場所ではあるものの、なんだか不気味に感じた。


 桃色の少女は戸惑う壱湖を余所に、まっすぐ近代的で潔癖なそれはそれは白い施設へと入っていった。壱湖はあわてて少女の後を追い、施設に入った。


肆井(よつい)しほりと、壱湖です。退院報告しにきました。」


 施設に入ってすぐにある受付で、しほりと名乗った桃色の少女は何やらノートを差し出され手際よく署名した。同時に壱湖の分の入館手続きもしてくれているようだった。

 壱湖はキョロキョロと施設内を見渡すがどこもまったく見覚えはなく、これといってなにも思い出せない。

 いまさらながら自分がこの場に関係あるのかすら疑問だ。しほりと名乗るこの少女に詐欺でも受けているのではと今更ながら壱湖は不安になってきていた。


 入館手続きが終わったのか、しほりは音もなく壱湖の隣に立っていた。

 壱湖はしほりの存在に声も出ないほど驚き、飛び上がってしまった。しほりはそんな壱湖を見て笑うのを堪えたように顔を一瞬覆ったもののすぐに元の少し困ったような表情に戻ると「奥、行くけど」と小さな声で壱湖に言った。

 壱湖からしたら初対面の少女に笑われて恥ずかしいやら自分が情けないやら、どう反応したらいいのかわからなかった。

 しほりの後をついていかなければ自分はどこへ行くというのだ、と壱湖はすごすごとしほりのあとをついて歩いた。


 施設の奥まで来た。受付から3分程歩いたあたりが突き当りで、広めの廊下に突き当たった。

 そこには複数人、同じ白衣を着た女性が屯っており壱湖は彼女たちはここの研究員だと反射的に思った。そして同時に、この嫌に潔癖な施設は何かの”研究施設”なのだと気が付いた。

 しほりはその白衣を着た中の一人の女性に声をかけた。

「清水さん、壱湖、連れてきたよ」

 ここまでしほりが一緒にやって来たのは壱湖を明け渡すのが目的だったようで、しほりは女性との一連の話が終わると壱湖のほうを振り向き「じゃあね」と、小さく手を振り、はにかみながら踵を返して廊下を引き返し去っていった。

「え?どこいくの?」

 壱湖の疑問と不安はしほりに届くことはなく、誰もいなくなった曲がり角に溶けてしまった。


 壱湖が恐る恐る振り返ると、"清水さん"と呼ばれた女性が仁王立ちをしてこちらを見ていた。

「…壱湖、私が誰かわかるか」

 仏頂面の女性が壱湖に淡々と話しかけてきた。彼女の髪は暗めのアッシュみ帯びた茶髪で切りっぱなしに肩口で切りそろえられている。

「…清水さん」

 壱湖はしほりとの会話を思い出して名前を絞り出したが、"清水さん"は、「まあ、それもそうなんだけどさ」と、困ったように頭を掻いた。壱湖は彼女、"清水さん"と呼ばれる人もまったく覚えがなかった。

「あんた、記憶ないんでしょ。まあはじめはそういう子もいるんよね。説明するからこっち来な」

 "清水さん"はすこし関西訛りにそう話しながらずんずんと壱湖を置いて廊下の先へ歩いていってしまう。壱湖は慌てて"清水さん"について歩いた。

 少し曲がった先の突き当たりにある部屋へと"清水さん"は颯爽と入っていったので、壱湖もそれ続いた。


 その部屋は学校で言う視聴覚室の様な作りで、部屋の突き当りにある広い壁には大きなモニターが据えられている。講堂のようにずらりとモニターを囲うように円形に曲がった机と椅子が並んでいた。

 既にモニターには映像が映し出されていた。それは楽しいアニメでも今どきのドラマでもなく、錆付いたような画質で見るもおぞましい怪物が映っていた。

 そしてそんな怪物と激しく戦闘を行う少女たちの姿が映し出されていた。まるでCGで作成したSFの映画のような映像だと壱湖は思った。

 そんな多少グロテスクなフィクション映像だけがひたすらモニターに流れている。音が出ていなかったのでそれこそまったくリアリティがなく、作り物の映像だと壱湖は思った。

「これが、あんたの仕事」

 清水は画面を顎で指し、ポケットから小分けになったラムネを出し口に入れた。壱湖がそのポケットに目をやると清水のポケットの奥にはたばこがチラリと見えた。

 壱湖は「仕事?」とつぶやき、少し頭の中で目の前の映像を整理した。

「…私、役者とかだったんですか?」

 壱湖はすこしおどけてみせた。しかし、清水は返事をしない。

 流れ続ける映像に目を凝らしてみると、確かに自分も映っていた。ヒラついた服を着て、大きな盾のようなものを持ち、ひどく必死な表情で何かを叫んでいる自分が。

 映像に映っている自分に現実味はなく、他人に思えた。

 今の記憶もない空っぽな自分とは違い、画面に映る自分は使命をもって生きているように見えた。


 清水は講義室の端に連ならされていたパイプ椅子を乱雑に引きずり出すとこれまた乱雑に広げ、ドスンと乱雑に座った。

「…だったら良かったんだけどね」

 清水の声色は一定で、本当のことを言っているのか、壱湖を騙そうとおちょけているのか、さっき会ったばかりの壱湖にはまったくわからなかった。

 モニターの映像がぐるぐる変わる。そこには先程の桃色の少女、"しほり"も映っており、壱湖と同業者であることを示していた。

「これさ、リアルなんよ」

 清水さんは本当に悲しそうにモニターを眺めていた。



 清水さんによると、どうも壱湖の職業は”魔法少女”、というものらしい。

 壱湖は休日の朝に放送される女児向けのアニメを想像したが、まったくもってそういうものではないそうだ。"魔法少女"は、地球を守る要になっている大切な現代人類の”職業”だというのだ。


 今、地球は宇宙からの敵襲に見舞われている。

 それはどれもこれもが説明しがたい造形のおぞましい怪物で、これまで幾つもの軍が壊滅させられた。戦闘兵器ももろもろ壊滅。人口も随分減らされてしまったらしい。

 どうして宇宙から敵が降ってくるようにやってくるのか、どうして地球が狙われているのか…。人類皆わからないままもがき、戦っている。


 …人類は百数年前、地球の核【マントル】にある”生命(イグジスタンス)エネルギー”と呼ばれるエネルギー体が暴発した。

 その爆発はあまりにも大きなもので、地球の【表皮】に住む人間たちは巻き込まれ、激減した。

 ほとんどの大陸は爆発の衝撃に耐えきれずに海に沈み、人類は壊滅的な打撃を受けた。その際に、世界をつないでいた海中ネットワークすら破壊され、日本は一部の地域を除いて沈下。沈んでいく土地を転々としながら、現在は第7都市と名前をつけた過去の東京の一部に全日本人が集まって暮らしている状態らしい。

 世界各国をつなぐインターネットが爆発の際に切れたため外国との交流もできず、現在はただひたすら敵襲に怯えて人類は生活している。


 暴発した”生命(イグジスタンス)エネルギー”…というのは、地球の中心部マントルから吹き出す地球規模の噴火のようなものだ。


 人類は、地球の爆発から無限に湧き出る生命(イグジスタンス)エネルギーを現在宇宙に放出し続けてる。人類には早すぎるエネルギーだったのだ。

 過去には地球のエネルギーを人間が吸い尽くすのではと不安を抱いていた頃もあったというのに、今はまったくの反対だ。

 放出をやめると再び地球が噴火する危険があるらしく、そのために人類はエネルギーを宇宙に放出し続けなくてはならなくなった。

 酷く厄介で扱いの難しい高エネルギー体なのだという。

 そのため、地球のあちこちからはマントルから繋がる大量のラッパ状の配管が宇宙に向かって伸びており、そこから直接宇宙にエネルギーを放出している。

 宇宙と言う海に人類の持て余したエネルギー体、所謂"ゴミ"を吐き捨て続けているのだという。


 そして今、現代の地球に生き残った人類を守るため”魔法少女”が戦っているらしい。

 魔法少女はエスパーや神通力と言った、”非科学的”な力を持つ少女たちを総称してそう呼んでいるらしく、現代化学の力でバックアップ、サポートを行い、能力を増幅させることで人類特別戦闘員という形で宇宙からの敵と戦闘させているらしい。


 生命(イグジスタンス)エネルギーが暴発した日を皮切りに、どういう因果か日本では神通力を持った子どもが産まれ始めた。

 そしてその特別な神通力は、敵襲が起こってから産まれてきた一部の”女の子”にだけ見られること、そして思春期を過ぎると消失してしまうと考えられていることから、神通力を持って生まれた子ども達を"魔法少女"と世間は呼んでいるそうだ。


 ”選ばれし子ども”として、魔法少女と呼ばれる神通力を持った少女全員がこの機関に招集され、人類存続のために力を貸しているとのことだった。


 壱湖は清水の説明を聞きくだらないSF映画みたいな話だと思った。あまりに実感が湧いてこない。自分にどんな力があるのかも記憶に無いのだから無理もない話だった。


 明日は”訓練”があるらしい。

 壱湖は頭の中で訓練…訓練…と数回唱えた。一応、"訓練"内容の一連は説明を受けたが、おおまかに言うと筋トレや走り込みでの体力向上や、ヨガや精神統一といった精神力の向上が主なようだった。壱湖はジムに運動に行く気分だ。と思ったし、そんなことならジムでいいのでは?と疑問に感じた。


***


 次の日の朝、壱湖は自宅を出てすぐの道路にて、『顔面蒼白』という四字熟語を思い出していた。 顔面の血管1本1本が広がるのがわかる。そんな血管の中を必死に血液が下がっていくのを皮膚下にはっきりと感じていた。


 ――目の前にいるものは…本当に生き物なのだろうか。


 壱湖の目の前にいるその生き物は、肉がどろどろに熔けたような身体に、燃え焦げたような4本のか弱い羽が生えている。そしてその肉塊はヒラヒラとした黒いレースを身体中に巻きつけており、果てには肉の中腹あたりから気孔的なナッツ状の穴がいくつも開いており、唸り声のような音と空気がその気孔から漏れている。


 壱湖の脳は軽く停止していた。初めてこんな生き物に出会ったのだ。無理もない。

 肉塊は昔の人形劇アニメのような動きをした。体を上から糸ででもつられたかのようにカクカクと気味悪く移動している。

 

 壱湖は後退った。この肉塊から目を離すのは危険だと判断し、視界には入れたまま少しずつ距離をとった。

 …不幸中の幸いか、この肉塊は動きが存外鈍かった。図体は100センチちょっとで小さな子どもほどあったが、動くスピードはナメクジ並みだ。

 何かの本で「クマと出会ったときの対処法」というものに、『目を離さない』『背中を向けない』と記述があったことを壱湖は思い出した。空っぽのはずのこの脳は、余計なことだけよく思い出す。


 肉塊の体はバーナーであぶられた肉のように、とろけたようなスライム状の風貌だ。

 観察したものの目の場所が全く分からなかったため、こいつがこちらを見ているのかどうかも壱湖には判別がつかなかった。

 数メートル程、壱湖は肉塊との距離をとったあたりで肉塊がゆらゆらと大きく左右に揺れ始めた。壱湖は冷や汗が止まらなかったが、ゆっくりと距離をとり続けていた。


 突然肉塊の身体、中腹あたりからボコンといくつかの(こぶ)が生えた。みるみるうちにその瘤は膨れ上り、その瘤は皮膚の上でのたうち回るように動き回った。

 壱湖はあまりのグロテクスさに目を覆いたくなったが目を離してはいけないと、肉の塊が行う気持ちの悪い挙動を見守り距離をとり続けた。


 しばらく瘤がのたうち回った後、前方にある肉片の隙間からびちゃびちゃと液体が噴き出るような音が立ち始めた。そしてそのまま先ほど視認できた気孔からべちゃべちゃと音の通りの勢いよく液体と臭気が肉塊から噴出された。

 …噴出音がやむや否や、目も開けられないほどの刺激臭が壱湖にまで届いた。壱湖は目をきつくつむり、鼻と口を手で塞ぎその場に文字通り(うずくま)った。

 皮膚すらもじりじりと刺激を感じる程の刺激臭だ。


 壱湖はしばらく瞼をあげられなかった。だがその間も、柔らかく重いものが地面を這いずり、 時々うめき声をあげながら一定のペースで壱湖に向かって近付いてきているのが分かった。

 その音は先ほどの肉塊だと壱湖は確信していた。だって今この場に、自分と肉塊以外は存在していない。壱湖は懸命に自身も這って肉塊の音のする反対側へと距離をとった。


 しばらくの間、一定の距離を保っていられたが、ついに壱湖の酸素が足りなくなった。

 あまりの刺激に息をするのも憚られるのだ。

 這っていた壱湖の動きが止まる。自分の顔に熱が集まっているのが分かる。酸素が足りず、血管が膨張しているのか顔面全部が膨れ上がったように痛い。

 壱湖は死を覚悟した。なぜだかわからないが、追い付かれたら死ぬ、と本能的に察知した。

 だんだん肉塊に距離を詰められているのが音でわかっていたが、どうしても壱湖は動くことができなかった。



 ――そんな時、壱湖の正面から大きな風が吹いた。


 風を感じたと同時に背後で這いずっていた肉塊も動きが止まったのがわかったが、壱湖はなかなか目を開けることができなかった。先ほど感じた刺激への恐怖と、肉塊への恐怖で目を開けられなかったのだ。息すらも止めはじめて数分、壱湖の頭は朦朧(もうろう)としていた。

「壱湖ちゃん、息を吸って」

 壱湖はうすく瞼を開け、目の前に青髪の少女が屈んで話しかけてくるのを確認した。柔らかそうな細く絹のような青髪が壱湖の鼻先をかすめた。

「もう臭く、ないと思うのだけど」

 こてんと首を傾け「ほら、息、息」と、笑顔で息をするレクチャーをしてくる少女に、壱湖はやっぱり見覚えがなかった。とても端正な顔立ちでいつまでも見つめていたくなるような可憐で美しい少女だった。

「あんな産まれたてにやられちゃうなんて、壱湖ちゃんらしくないよ~」

 壱湖は可憐な少女の声を後ろに、ヒュウっと思い切り深呼吸をした。

 久しぶりに呼吸だったものから、ひどくせき込んでしまった。肺が縮こまっていたのか、息するたびに胸には鈍痛が走った。

 外気は刺激臭もなくなり、いつも通りの清潔な空気に戻っているようだった。


「ご、ごめんなさい。…私、なんか、今、記憶、ないみたいで、あなたの、こと」

 壱湖はせき込みながら言った。息をするのに必死で変な言い回しになってしまった。と、思ったが青髪の少女はおおむね理解したようで、「うんうん」と、人当たりの良い笑顔のまま頷き話を聞いていた。

 座りなおした壱湖は、先ほどまで這いずりこちらへ向かってきていた肉塊がほぼ液状になり、道の真ん中で絶命しているのを確認した。

 この目の前の少女が倒したのだろうか。壱湖は一瞬の風しか感じなかった、というのに。

 肉塊のつぶれる音も絶命する断末魔も、何も聞こえなかった。

 このような細腕の少女がどのように倒したのか、壱湖には皆目見当もつかなかった。

「私はね。玖理羽(くりはね)蝶華(てふか)、壱湖ちゃんと同じ魔法少女よ。はじめましてではないんだけど、よろしくね」

 蝶華は弾むようにコロコロ笑いながら自己紹介をした。こんな状態じゃなかったらもっときちんと壱湖も挨拶できたろうが、今壱湖は息をすることで精一杯だった。

「今から訓練でしょ?頑張ってね」

 そういったと同時に大きく蝶華は()()()

 そしてそのまま、こちらが返事する間もなくその場から消え去ってしまっていた。まるで蝶々が花から飛び立ったかのように可憐に静かにいなくなってしまった。

「まだお礼も言ってないのに…」

壱湖は何もない虚空と、ひき潰され液状になった肉塊の死骸を見比べ、ため息が出た。



 壱湖は朝の事件のこともあり、清潔な機関へ到着した時点でもうすでにひどく疲れていた。まじめな性格のため約束をないがしろにしたまま自分の家に戻ることもできず、疲弊した体を引きずり機関へ訪れたのだ。

 壱湖は先ほど道端でエンカウントした気持ちの悪い肉塊が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 この前、視聴覚室にて清水から「現在の日本の生態系も歪んできている」という趣旨の説明は受けた記憶があったが、ああいった気持ちの悪い見た目のモンスターが横行しているとは聞いていなかった。


「壱湖、こっちだ」

 清水は受付近くで壱湖の到着を待っていたようだった。

 受付横に供えられたカウンターチェアをぐるりと回転させて、清水はコチラを向いて手を振っていた。壱湖は日常に戻った気がして安心し、足早に清水に近付いた。

 壱湖は今朝に出会った肉塊について、そして一緒に青髪の少女に助けられたことを清水に伝えた。

「青色の髪って、蝶華かな」

 清水は少しはにかんで話した。

「あの子はいい子よ」

と、清水は静かに笑った。「あの子”は”」ということは、他の魔法少女は変な奴がいるかのような言い回しだと壱湖は思った。


 清水に連れられるがまま壱湖は大きな貨物用のエレベーターの前に来た。「これで降りるよ」と、清水は言った。

 壱湖はこれから行われる”トレーニング”にさして緊張はしていなかったし、ワクワクもしなかった。これから”魔法少女“として、変な生き物と敵として対峙しなくてはならないという事実も受け入れがたかったし、今も現実味がまるでなかった。


 地下に着くと、そこは体育館のようなだだっ広い空間になっていた。

 部屋の端々にはジム等でよく見る筋力トレーニングの機械なんかがずらりと並んでいた。

 魔法少女というのだから戦いは基本魔法でどうにかするんじゃないの、と踏んでいた壱湖はトレーニング内容を聞いていたとはいえ、少し呆気に取られてしまった。

 本当に体力向上とか瞑想のトレーニングだけなの?と多少がっかりしてしまった部分もあった。魔法少女、と言われたら誰でもちょっとしたファンタジーを期待するものだろう。


 そんなトレーニング部屋に入ってすぐのところに、1人少女が佇んでいた。

 その少女ぼんやりとトレーニング部屋を眺めているようだった。くりんとした黒目勝ちの大きな目にカールしている長いまつ毛が特徴的なかわいらしい少女だ。

 しばらくするとその少女は壱湖と清水がいることに気がついたのか、こちらを見て小走りで駆け寄ってくると「おい、遅ぇだろうが」と、かわいらしい顔に反してドスの効いた声で壱湖を睨んだ。


「…壱湖、今日一緒に訓練する(むつ)恋夏(れんげ)だよ。ほら、同じ日に退院した」

 清水は先ほどの彼女の暴言が聞こえていないような顔で淡々と壱湖に説明した。壱湖は自分と同じ日に退院した人がいたこと自体知らなかったので、非常に困惑した。

「…今日の相手はお前か、壱湖」

 少女は乳白色の艶やかな髪を、頭の高い位置で緩く二つの団子に結っていた。頭のお団子が歩く旅にふよふよ揺れる。ずんずんとこちらにガニ股で近付いてくる姿はあまりにも見た目とミスマッチだ。

「お前さ、攻撃技まだ()ぇんだってな」

 壱湖を下から覗き込むようにして恋夏は言った。にんまりと大きく開いた口端からちょこんとしたこれまたかわいらしい八重歯が覗いた。

「この前は、馬鹿みたいにでかい敵だったみてぇだけど、その時出動した魔法少女全員がアタシみてぇな攻撃特化ならもっと街の被害は減ったと思うぜ」

 恋夏はニヤけた表情のまま、ぐだぐだと壱湖をまくし立て果てには返事をせずぽかんとしている壱湖に苛立ったのか「おい、なんか言うことはねーのかよ!」と、唾を飛ばして怒鳴った。


「いや、ごめん。私、今記憶ないんだ」

 壱湖はスッパリと恋夏に言った。すると恋夏は一瞬呆気に取られたような顔をした。

「じゃあお前いま、魔法少女でも何でもねエ、フツーの女じゃねえかよ」

 と、改めて壱湖のことを睨み、罵倒した。

「壱湖は今からリハビリも兼ねて筋力トレーニングをして、そのあと別室で脳見っから」

 ずっと口を閉じてた清水が、壱湖と恋夏の間に入った。脳を見られるというのは、壱湖は初耳だったので「昨日の時点で先に言えよ」と思った。

 恋夏は軽く舌打ちをし、「久々に組手でもできるかと思ったのに、来たのがお前じゃあなぁ」と言った。彼女は壱湖から離れると壁沿いの筋トレ機械に言葉通り飛び乗り、片っ端から破壊する勢いでトレーニングしていた。


 一通り筋力トレーニングを行った壱湖は、清水に連れられ別室に向かっていた。

 トレーニング中は恋夏とは極力関わらないようにつとめたが、近くを通過する度にまるでヤンキーのように絡まれて精神的にも疲れた。

 また、体力的にも少し動いただけですごく息切れをしてしまい、すぐに足がガクガクと動かなくなった。本当に私は入院するまでは何かとアクティブに戦ったりなんてしていたのだろうか…。と壱湖は不思議に思った。


「あの、清水さん。私、攻撃技使えないんですか?」

「あぁ、恋夏が言ってたヤツか。まあそうだな、能力的には」

「能力…?」

「大抵、魔法少女それぞれに得意分野があるんだよ。まあ、いうなりゃ…勉強なんかと一緒よ」

 清水はエレベーターの中だと言うのにポケットから取り出したタバコをくわえた。「国語とか…数学とか…得意科目があるだろ…」と呟きながら清水ははエレベーターの扉を見つめている。加えたタバコに火をつける気は無いようだ。

「壱湖はね、補助技が得意。バリア張ったり、仲間の足場創ったりさ。空間をつくんのよ」

 壱湖は1ミリもピンとは来なかったが、恋夏に批判された意味合いを理解し、なるほど。と、思った。

「まったく、覚えてねっす」

「これからこれから」

清水は火のついていないたばこをくわえながら、愉快そうにけらけらと笑った。


 エレベーターを降りると真っ白で永遠に続くかのように見える窓のない廊下にでた。そこはまるで病院のようだった。全体的にひんやりと空気が冷たく感じた。

 清水が「こっち」と案内板も見ずに壱湖を誘う。まっすぐ歩いてすぐに『処置室』があり、壱湖はそこに入るよう清水に促された。

「すぐに菊森がくるから、そこで待ってな」

 と、清水は言い残し部屋を出ていってしまった。


 暫くすると、菊森と名乗る女性が部屋へやってきた。

 いくつか質問をされ、清水に教えてもらったことは何となく答えられたが、深堀されるとなんにも理解ができない単語が横行し、壱個は困惑した。

「壱湖ちゃん、ひどいのねぇ。こーんなにすっぽり全部忘れちゃうなんて」

 壱湖はベットに寝かされながら、菊森の話を聞いていた。

「けど名前は覚えてたんでしょ?えらいえらい」

 菊森は優しく笑ってそういうと、壱湖の頭をなでた。清水よりも明るくて女性っぽい人だった。


「壱湖ちゃんには今からすこーし、眠ってもらうけど。…その間にショック療法で治療しちゃうわね」

「…それって荒治療では?」

「気付いた?」

 菊森はくすくすと笑いながら「副作用とかはないはずだから」と、壱湖の頭をまた、優しく撫でた。壱湖はごまかされないぞ…。と思いながらも頭を撫でられ続けていた。


 壱湖の寝かされているベットはカプセルのような形をしており、この中で全部治療は終わるらしい。中ではCTやMRIやらレントゲン色々検査ができちゃうらしい。何ともハイテクなことだ。

「じゃあおやすみ、壱湖ちゃん。起きたらあなたはきっと、本物の壱湖ちゃんになれるわ」

 壱湖は菊森の言葉に違和感を覚えた。カプセルの蓋がゆっくり閉じるのを内側から見送った。しばらくすると急激に眠気が襲ってきて、壱湖はそのまま瞼を落とした。


EP1 了

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