第三章「虚ろいの国」-2
そのような水面下での剣呑さに満ちた街を訪れていた立花清だったが、彼は女中のマリアを合流場所を決めて買い物に送り出すと、開放感と清潔感に満ちた街の中心街を進んでいく。
彼は、旧満鉄付属地だった整然とした駅周辺部から、まずは旧長春地区へと進む。
ここは古くから満州族や漢民族を始め様々な人々が住んでおり、今もここだけは日本人以外の居住が認められている。
その影には、中華ヤクザの存在があるとされるが定かではない。
だが彼の用は、旧市街にはない。
旧市街のさらに南東側の区画にあった。
新京市の北部を東西に貫く伊通川のほとりの一角が彼の目的地だ。
だがその一角は、一見整然としていながら、どこか違っていた。
まず目につくのが、街区を大きな壁で囲っている事。
まるで城壁のようでもあり、監獄の塀のようでもある。
だがそれぞれの街路に面する門扉は、派手やかであり、艶やかでもあった。
彼は、その艶やかにデコレートされた門を、阿吽のごとく立つ屈強な男にチップを渡して中に入る。
その方がこの中では都合が良いからだ。
そして一歩彼が歩みを進めると、周囲の景色は女中と別れた清潔で洗練された市街中心部とは似ても似つかない色合いと雰囲気へと変化した。
そこは現世から離れた場所に至らせるための場所。
つまり彼が足を運んだ場所は、首都特有の男性社会に無くてはならないもの。
大規模な歓楽街。
そう、色町だ。
いかに人工の街、砂上の楼閣とは言え、人の世には必要不可欠な街の「設備」だ。
新京の都市計画には、この歓楽街の区割りまでが計画・実行されており、都市計画の徹底度合いが見て取れる。
当然と言うべきか、上下水道も完備の各区整理までされた「計画的」な歓楽街だ。
もちろん彼が昼間からそのようなものを求めたわけではない。
彼の目的は別のところにある。
その目的地が、その巨大な歓楽街の外れにあるロシア風建造物の飲食店だった。
丈夫で重厚な焦げ茶色の木材の柱と抜けるような白壁のコントラストが見事で、さらに鮮やかな赤い屋根瓦がエキゾチックと言うよりはメルヘンチックな色合いを醸し出している。
店構えも建造物に相応しく、周囲から浮き上がるような清潔感を漂わせている。
建物だけを見ていると、日本橋通の洒落たロシア風喫茶として十分やっていける外観だ。
(普段はどんな客が来るのだろう?)
そんな事を思いつつ、軽やかな呼び鈴を鳴らしつつ扉を開くと、待ってましたとばかりに驚くような美形のロシア人給仕が派手やかに出迎えた。
黒と白を基調にした衣装をまとった給仕は、一度にこやかに笑みを浮かべると、全てを心得ていますとばかりに彼を奥まった席に案内する。
入った場所は外見通り喫茶店となっており、他とは少しばかり違った趣向で現世から客を引き離してもてなす場所らしかった。
上品な装飾が施されたロシア風サモワールが店の片隅で豊かな湯気を出しており、純粋に食指をそそるほどだ。
だが、彼を軽やかにテーブルへとエスコートした給仕は、表面的な社交的態度と笑顔の仮面とは裏腹に、全く油断無い気配を放っていた。
陰謀や謀略、スパイ行為に無縁な立花にあえて見せているらしい。
彼がある目的で訪れたように、剣呑な事を行う場所でもあるのだ。
そして他の店の者が尾行などない事を改めて確認すると、彼専属となってしばし会話を楽しんでいた美形の給仕が彼を店の奥へと誘った。
他者から見れば、これからお楽しみというわけだ。
だが、部屋の扉を閉じると、美形の給仕の態度は一変する。
全く隙のない動作へと変化し、たおやかな絹がナイフへと変化した感慨を抱かせた。
そして絹のレースなど可憐な物品で飾り立てられた個室に入り、部屋の一角を押しのけた先にあったのは、店の構造を余程知らねば分からないよう作られた裏口に続く狭い通路だ。
入室と同時に着替えさせられ、給仕に案内されて狭い通路を抜け、さらに何度か通路を折れ曲がると小さな裏口へと出た。
さらに、狭くどの建物からも窓が見えない通路の先には、シボレーの最新型がアイドリングで停車しており、彼が素早く乗り込むと走り出した。
残念ながら、美形給仕のエスコートはここまでだ。
確かに、あれ程目立つ人間を連れ添っていては、今の行動の意味がなくなるだろう。
その後、街中を複雑な経路で長時間走り、その間二度車を代えてようやく案内された先は、新京郊外に新しくできた巨大な倉庫が並ぶだけの陸軍の練兵場だった。
車の方も幌付きの機動車だ。
アメリカ製らしく、英語表記が各所に見える。
立花の格好も、陸軍将校のそれだ。
施設の方は一見なんでもないが、新しく造成されたと分かる丈夫な道路が街の中心部に向けて伸びており、それがこの駐屯地の重要性と目的を伝えていた。
かなりの重量を持つ装備が置かれている、もしくは置かれる予定なのだ。
「ほう、ここに面白い玩具があるのか」
立花はチョットした緊張を前に軽口を呟き、従兵案内されるままにかなりの規模の施設内へと足を運び入れた。
そして何度もボディチェックをされてたどり着いた先は、暗く巨大な空間だった。
大量のガソリンとかすかな硝煙の香りが、この場にあるものの存在が何かを伝えていた。
高高度な鋼鉄の独特の匂いもある。
だが、暗くて何があるのか正確には分からない。
「オイ、私に見せたいものがあるんじゃないのか、元戦車第二十六聯隊聯隊長殿!」
彼は珍しく倉庫中に響くぐらいの声をだした。
こんな大声を出したのは久しぶりだったが、倉庫に充満する臭いを嗅いで叫ぶと戦場を思い出すような気分になった。
そして彼の叫びがこだまするように響いた直後、奥から順番に鈍い照明が一列ずつともりだす。
おかげで、彼はその場に軍艦が鎮座しているのかと錯覚したほどだった。
眼前に並んでいるものが、重厚な威圧感を放ってこの場を支配していたからだ。
「ようこそ、大東亜人民共和国陸軍第十一独立戦車連隊へ!」
立花の少し斜め上の位置から、おおらかな声が響いてきた。
彼が、「元戦車第二十六聯隊聯隊長殿」と呼んだ西竹一その人だった。
彼は、一番前の巨大な戦車の砲塔の上に陣取り、にこやかな笑みを浮かべていた。
ちょうど子供が自慢の玩具をみせびらかした時の笑顔だ。
(こんな国にも陽気な奴はいるもんだな)
内心で人物評と付けた立花だったが、彼はある意味不幸な人間かもしれないとも思った。
なぜなら彼は、硫黄島への移動直前に予定された輸送船が撃沈。
次の船を待っているうちに停戦し、軍の造反に巻き込まれたくちだからだ。
もし順調に移動できていれば、日本本土でもう少し安穏とした日々を送れていたことだろう。
もっとも優れた戦車指揮官にしてオリンピック馬術競技の金メダリストという肩書きは、貴族という肩書きがあったとしても赤いロシア人にも有効だった。
元貴族、元騎兵将校出身者を中心に、ロシア人との友好も広かった。
家族も人が移動しあった時に呼び込んでおり、今では完璧なまでの大東亜人民共和国軍高級将校だ。
だから、今ではこの国の大佐で連隊長。
軍どころか国内外でも階級以上の有名人。
そして恐らくは、目の前に鎮座する巨大な戦車軍団の支配者だった。
「どうですか立花さん、私の自慢の戦車たちは。私はこいつらにぞっこんですよ」
思いの外丁寧な言葉使いだった。
さすが貴族、いかなる時も礼儀は忘れないと言うことなのだろうか。
「いや、立派なもんですなぁ。私はまるで軍艦がここに鎮座しているのかと勘違いしそうでしたよ」
「ハハハ、海軍さんにかかれば、ゲルマンの誇るティーゲル・ツヴァイも軍艦ですか。まあ確かに、軍艦の砲塔に少し形が似ていますね。でも、立花さんの言葉、間違いだとは思いませんよ。私はこれこそ陸の戦艦だと、見るたびに再認識している次第ですからね」
(上機嫌ここに極まれりってやつだな)
目の前の快男児の丁寧な言葉使いの一端が、会話の内容にあると判断した立花だった。
そして、彼の上機嫌とこの鋼鉄の怪物を見ていると、彼も気分が浮ついてくるのを感じた。
だからしばらく、上機嫌のまま会話を続けることにした。
そうすると、西少佐あらため大佐は、気前よく自分の新たな乗馬たちについて解説してくれた。
「ティーゲル・ツヴァイ」。全長十メートル越、総重量七十トンに達する巨体は、立花のような軍人から見ても、とうてい戦車とは思えない大きさだった。
かつて帝国陸軍が主力としていた戦車を、縦横高さ全て二倍にしたほどもありそうだ。
また、目の前にある車両の全ては、第二次世界大戦において東部戦線で放棄されたものと、戦後ソ連軍がドイツ本土の工場で接収したものらしい。
西大佐も、詳しい出所と経緯は知らないとのことだ。
それをソ連側が、自分たちがとうてい運用できないので、捕虜にした整備兵と戦車兵をシベリアの林の中から選び出して、早いうちに大東亜人民政府にまとめて「プレゼント」したものだった。
一番最初の便は、建国前に既に届いていた程だ。
これを西大佐は、ソ連がドイツを破るだけの軍事力を持っている事の誇示と、我々に対する皮肉を効かせた示威だと断言した。
もっとも西にとっては、ドイツ最強の鉄の獣が手元にあることの方がずっと重要のようだった。
彼の説明では、総数約四十台分(ドイツの総生産数の約一割に相当)がソ連赤軍によって状態のよいまま捕獲された。
さらに工場で確保された部品や治具といっしょにもたらされ、それを共食いして再生したものだという。
ただし一部のエンジンは、無理矢理取り付けたアメリカ製やソ連製だ。
稼働数はちょうど二十両。
ドイツ軍なら増強戦車中隊ぐらいを編成する数らしい。
だが、贅沢など出来ない人民軍では、十台ずつで中隊を編成。
これにソ連から供与されたT34/85を定数編成で二個中隊組み合わせ、旧陸軍の戦車を改造した指揮車と専門教育された選り抜きの整備中隊をつけて連隊としていた。
しかもこの部隊は人民陸軍唯一の重戦車連隊であり、だからこそ彼に指揮が委ねられたのだ。
宣伝にはもってこいだろうが、今は秘密兵器で純粋に兵器としての能力を求めた末の結果らしい。
もっとも西大佐は、そんなことはどうでも良いと言いたげに鋼鉄の虎の話を続ける。
彼がドイツ人顧問から受けたレクチャーと実地で得た教訓では、大重量の「ティーゲル・ツヴァイ」は、足回りに細心の注意は払わないといけないし燃費は最低だが、遮るもののない大平原の広がる満州にこそ相応しい戦車だそうだ。
そんな西の自慢話のような説明を受けた立花だったが、実物を前にしていると「まあ、そんなもんだろう」と思うことにして、そろそろ本題に入るべく口調を切り替えた。
「ねえ、西さん。そろそろ中も見せてくれませんか?」
「ええ、もちろん!」
屈託無く答えた西だったが、目がすうっと細くなる。
立花の言葉が、今回の事件への了解を伝えるサインだったのだ。
そしてこれこそが、人民海軍の重要なポストにある立花清大佐がここを訪れた理由だった。
その日の夕刻、駐屯地を後にした立花は、遠く大連への帰宅を急いだ。
彼は、駅舎を東京駅風にさらに増築中の新京駅で、大同大街(街のメインストリート)の三中井百貨店まで遠出していた女中のマリアと合流。
その後大和ホテル近辺で遅めの夕食を済ませると、予約をとっていた寝台特急型「あじあ号」(新型車)で急ぎ大連へとって返した。
独特の蒼、プルシャンブルーに彩られた二重連の「あじあ号」に寝台車を多数接続した16両編成の夜行型「あじあ号」は、夜10時新京中央駅(新京では他3駅がある)を発つ。
同列車はソ連国境の街満州里始発の寝台特急で、朝出発するとまずはロシア人の街ハルピンへ至る。
一部路線はそのままウラジオストクを目指すが、この列車は満鉄主線に入ると一路大連を目指す。
そして午後6時にハルピンから乗った場合でも、豪勢なフルコースとサービスを楽しむことができる移動する一流ホテルだ。
サービスを行うために従業員用の車両があると言えば、豪華さの度合いが分かるだろう。
オリエント急行同様に従来の二等客車も多数連結されているが、ロシアの新たな貴族、テクノクラート向けの観光列車である。
彼らは、赤い帝国から貴族趣味を満喫するため、わざわざこの人工の国へと足を運び、自国では味わいにくい贅沢と引き替えに多くのルーブルを落としていく。
今の満州を象徴するような列車だ。
だがこの時の立花達は深夜新京からの途中乗車なので、寝台車両で就寝している間に列車は進む。
人によっては、夜間はバーとなる最後尾のサロンで過ごす者もいるが、彼らは少しばかり飲物を所望したぐらいだった。
そして翌朝6時半、列車内の豪華な食堂車で少し早めの朝食を取れば、終点の大連駅、東側最大の不凍港へ到着という寸法だ。
そして翌朝。
着替えもあったので一度お屋敷と言えそうな我が家に戻ると、家の者全てに今日から明日にかけて仕事で戻れないこと同時に、今晩は出来るかぎり外出しない事をそれとなく伝え、彼の今の職場へと向かった。
事前に呼び寄せていた軍の公用車で整備されたばかりの高速道路を走ること数十分。
目的地は、大連から少し離れた場所にある、高地で囲まれた入り江の中心部だった。
眼前では、いくつも巨大な土木機械が、天地創造を果たすべく任務を遂行している巨龍の群のようにうごめいていた。
中心部はすでに一部が稼働しており、そこに彼の職場があった。
巨大な縦長の溝と、廻りに敷かれたレールの上に据え付けられた巨大なクレーン。
距離感を間違えそうになる巨大な倉庫。
まわりでうごめくアリのような大きさの作業員たち。
かつて見慣れきった光景の再現に他ならなかった。
そこは、人民海軍の新たな拠点として徹底した大改造の進む旅順軍港だったのだ。
ドガガガガ、バババババ、カンカンカン。
機械の森で響き渡る様々な音が周囲を埋め尽くす中、立花は迷いなく歩みを進める。
彼の先には新品の巨大ドックに据えられた、鋼鉄の海獣が横たわっていた。
戦艦「武蔵」。人民海軍最大最強の戦闘艦であり、同時に東側や共産主義陣営と呼ばれるようになったソヴィエト連邦を中心にする国家グループ最強の水上戦闘艦でもあった。
そして希少価値故に、人民政府が持つ有力な外交カードの一つでもあった。
(政治のゴタゴタにクーデター、くだらん事が続くものだ、まったく)
心の中で現状に悪態をつく立花だったが、数年間も彼が根城としてきた巨艦を眺めていると、自然と心が明るい気分になるのがわかった。
彼も西大佐と同類なのかもしれない。
そうして彼が、自分の分身ともいえる存在を眺めていると、少し離れた場所からがなり声が押し寄せてきた。
「オイ! 立花の旦那! 何この武蔵様に見とれてやがる。それじゃまるで妾か娘を眺めてるみてえだぜ!」
元気な初老の男が声の主だった。
いかにもな白のつなぎと帽子をまとい、手には様々なメモや書類が挟まったクリップボード、首には汗と油まみれのタオルをかけている。
「おやっさん! どうですか私の娘の調子は?」
立花は首を声の方に向けると、彼に負けじと大声で問いかけ、そのまま彼の方向に大股で歩き出す。
その言葉にガハハと大笑いしたおやっさんと呼ばれた初老の男は、まだ距離が離れているにも関わらず、大声で調子よく言葉を続ける。
「どうですか、だと。馬鹿言うもんじゃねえよ。旅順全体の浚渫が終わったのが四ヶ月前。海水を引き入れ直したのが三ヶ月前。このドックが完成したのはつい二ヶ月前。このデカイ穴が座り込んで一ヶ月、昨日やっとばらし終わったばかり、ときたもんだ。調べるのはこれからだぜ!」
「では、しばらくは動かせませんね!」
「おうよ、ここの施設じゃ、しばらくどころか一年は無理だな。まあ、少しでも早く完成させたきゃ、露助から色々せびり取ってきてくれや。そしたら期日もうんと短くしてやるよ!」
そうしたやり取りをしているうちに、近くの事務用の小屋に歩みを進める。
小屋の中に入って二人してどっかと腰を据えると、おやっさんが入れた冷えたウーロン茶を飲みながら仕切直した。
「で、実際のところどうですか?」
「んん? まあ見た通りだ。船体は二年も海に浸かりっぱなしだったからな。まずは徹底した掃除と錆落とし、あとはボイラーの整備だな。知っての通りそっちはだいぶ進んでる。だが、露助がくれるってもんや倉庫で眠っているやつを載せるかどうかはそれからだ。作られた国や場所の違うもんだ、図面すらない艦艇に積み込むわけだから、まともに使えるかどうかすら分からん」
「やはりそうですか……」
「おうよ、吉原に来たばかりの泥くさい田舎娘を太夫や花魁にするようなもんだ」
「おやっさん、そりゃ洒落になんないよ」
立花のあからさまな落胆を紛らわせようとしたおやっさんの気遣いだったが、違った面で立花を苦笑させてしまった。
おやっさんの言った太夫や花魁という言葉が、この国の現状と「武蔵」の姿を端的に表現し過ぎていたからだ。
軍人ばかりの日本人社会。
ソ連が供与した電波兵器や高射兵器で覆い尽くされる予定の「武蔵」。
まさに徳川時代の江戸の街と遊郭の花魁だった。
そして田舎娘から花魁にしてもらう予定の「武蔵」が今の状況になったのには、いくつか理由があった。
最大の原因は、人民政府の支配領域に巨大な「武蔵」が入渠できるだけのドックがない。
深さ十二メートル以上に浚渫された港もなく、最大規模の港湾である国際港湾都市大連の沖に仮泊するしかなかったからだ。
朝鮮半島南端の釜山が多少は母港の役割を果たせたが、釜山は日本列島に近すぎた。
しかも唯一の軍港になる旅順は、明治時代に帝政時代のロシアが作り上げたままと言ってよく、喫水や施設の問題で武蔵ほどの巨艦は、港に入ることすらできなかった。
日露戦争でロシア海軍が、戦艦の修理を干潮時の干上がったときに行っていたと言えば、旅順の水深の浅さが分かるだろう。
このため逃走から二年以上にわたり、大連の片隅で隠れるように過ごさねばならず、整備兵と部品の不足など整備状況の悪化から、ここ半年はまともな稼働状態にすらなかったほどだ。
もちろん人民政府も人民海軍も「武蔵」の重要性は認識していた。
ソ連すら早く使えるようにしろと催促して色々用立てたほどだ。
そして急ぎ彼女の新たな家を用意したのだが、完成したのが数ヶ月前ということだった。
もっとも、軍艦を隠すのにもってこいの旅順だったが、浚渫してなお巨体を隠すには少しばかり狭く、「武蔵」にとって快適な場所とは言い難い。
ドックからの出し入れの時は、戦前に流行った空想科学冒険小説の秘密基地真っ青の出渠プロセスが必要なほどだ。
少なくとも船台型の大型造船施設などは作れない。
一度に満載七万トンの巨体が海水を押しのけると、旅順の港湾施設が水浸しになってしまうからだ。
なお、ようやく新しい家の寝床にしけ込んだ「武蔵」だが、これから最低三ヶ月は徹底したオーバーホールが予定されていた。
本来なら、第二の仮想敵であるアメリカに対抗するため、時代の進歩に伴う改装工事を実施したいところだったが、まずは使えるようにするのが先決だった。
もっとも、政府も軍、ソ連ですら、今や東側最強となった軍艦に殊の外気を使っていた。
このためオーバーホールの間に、どのような改装をするかを上層部で決定し、実施される予定が立てられていた。
現在の予定では、完全に旧式化した対空火器の刷新、ドイツとソ連製の電子機器の搭載と、それに伴う発電力の強化が予定されていた。
おそらく対空砲はソ連製の新型十センチ両用砲、三七ミリ機銃で全身を覆い尽くす事になるだろう。
火砲の新設に連動して射撃統制装置の変更も行われ、ソ連からの供与も決定していた。
今のところ、海軍用装備を設計、製造する能力のない人民海軍には、国産や日本製のものを使うことはできなかった。
主砲弾についても、ソ連の技術者を交えて新開発される予定の榴弾以外、日本から出てきた当時のもの以上は補充されていない。
特別サイズの被帽付徹甲弾を量産するには、技術、コスト面から難しかった。
そうした技術的な会話をしていた二人だったが、おやっさんの方はこんな時ぐらい少しは違う事を話さねばと考えたようだ。
再びべらんめい口調で話し始めた。
「そうそう、新しいドックには色んな連中が増えたぜ。後で挨拶がてら見ていっちゃどうだ。是非会いたいっていうヤツもいるよ」
「ほう、どんな連中ですか?」
「おう、レニングラードから来たっていうガチガチの共産党技術士官殿はおいとくとして、付き合わされた露助の技師連中は意外に話せるヤツらだ。あと、是非にってのが、捕虜になってシベリアでエゾマツの数を数えていたっていうドイツの技術者と海軍の人間。で、ドイツの連中ってのが生真面目で腕もたってよお、俺ぁ連中にもし祖国に戻れねえんなら、こっちに永住しちゃどうだって話してるのさ」
「ほお、ドイツさんですか。何だか第一次世界大戦みたいですね。永住希望するなら、私が海軍に働きかけましょう」
「そいつぁ頼もしい。露助の連中も海の事となったら、からっきし弱い。ソ連共産党の連中もこっちには腰が低いから、案外うまく行くかもな」
おやっさんと呼ばれる男は、闊達に話を続けるが、立花の見たところ彼もそのドイツさんとさして変わらないのではと思う。
もともと彼は、戦中にシンガポールのドックの面倒を見にいって、そのあと点々と占領地の港や造船施設を回り、天津にいたとき日本のためと請われて旅順に来て、部下などのしがらみもあって残らざるを得なかったと聞いたからだ。
自分のように、家族や一族を守るためというような理由の者は、やはり少数派だ。
誰だって、不毛なケンカ別れなんて止めて、内地に帰りたいのが本音だろう。
(軍中央にいるおめでたい連中は例外だが……)
少し暗い気分になっていた立花だったが、彼は最後に本来の成すべき事をおやっさんに告げ、事情を知る一部の部下や同士と共に事件発生の瞬間を待つことになった。
そしてその瞬間は翌日の深夜に訪れる筈だった。