第一章「星の国」-1
・一九五三年一月二七日 ワシントン
無垢色の雪のベールをまとった河川敷を従えたポトマック河が、太古の昔と変わらぬゆるやかな流れを作り出していた。
ここはワシントンD・C。
現在、いやこれから百年にわたり新たなローマとなるべき政治的位置を持つ都だ。
都の中枢には、国家の規模を思えば控えめすぎる瀟洒な佇まいを持つ白亜の建造物があり、雪化粧した周囲の芝や緑と見事な調和を見せていた。
人が作り上げた理想の都の姿がここにある。
中枢にある建物を人々はホワイトハウスと呼び、実質的に世界一の権力と武力を持つ支配者がいた。
そしてこの一週間前、権力者の座るべき椅子には新たな人物が腰掛けた。
人物の名をドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワーという。
「すまないハリー。いや、そう呼ばせてもらっていいかな、ミスター・トルーマン」
世界の覇者となった男は、優れた知性を持つであろう事を示す額以外、人なつっこいアメリカのオヤジそのものの顔を対面の男に向けた。
しかし彼の瞳は、冷静さと知性を兼ね備えながら、さらに人としての魅力を強く放っていた。
彼の瞳を見るだけで、さすが連合国最高司令官を務めあげ、大統領の椅子を手にしただけの男だと納得させられる。
目の前の男を見ながら頭の片隅でそんな事を考えていた男、顔立ちとメガネのおかげでウォール街に務める堅物銀行員のような男は言葉を返した。
「いえ、ミスター・プレジデント。そう親しく呼んでいただけるとは光栄です」
「ウン。じゃあボクの事もアイクと呼んでくれ。私的な会話を楽しむために呼んだのに、いちいちミスター・プレジデントと呼ばれたんじゃ、仕事を続けているのかと思ってしまうよ」
「はい、分かりましたアイク。しかし、よろしいのですか、その……」
トルーマンは、口ごもった。
自分が民主党に属し、プレジデントが共和党出身だったからだ。
しかし、フランクな口調の当のアイゼンハワーは気にも留めていない風だ。
「ハハハ、知らないのかいハリー。ボクの得意技は、立場の違う者と親しくうち解けられる事なんだよ。オマーやジョージだけでも大変だったのに、ウィンストン、バーナード、シャルル、ヨシフ、ゲオルギー、カール、いろんな人と会話を楽しまないといけなかったからね。おかげで今も遠くの友人には事欠かないよ」
トルーマンは、今の友達の名前を数え上げるような会話を聞いただけで、目の前の人物がひと回りもふた回りも大きくなったように思えた。
最初のオマーやジョージは、現在統合参謀長のオマル・ブラッドリー将軍と、今は無き英雄ジョージ・パットン将軍。
そのあとに続く名前については、考えるのも恐ろしい人物ばかりだった。
今二度目の英国宰相の地位にあるウィンストン・チャーチル、英国の宿将バーナード・モントゴメリー元帥、フランス解放の英雄シャルル・ド・ゴール、ソ連赤軍最高の将軍ゲオルギー・ジューコフ。
そして今死の床に伏していると言われる赤い帝国の暴君、ヨシフ・スターリン。
最後の人物に至っては、ナチスドイツ二代目総統に指名されたカール・デーニッツ提督だ。
彼は全ての人物と一〇年も前に交渉や交流を持ち、ナチス・ドイツを倒すという困難極まりない任務を完遂したのだ。
そう、彼はなるべくして今の地位に就いたといって間違いないだろう。
プレジデントの椅子は、単なる権力者ではなく彼のような実行力のある英雄にこそ相応しい。
そうであってこそ、ステイツの威光は世界に広がるというものだ。
トルーマンは頭の片隅で様々な事を思いながらも、彼がかけた談笑の橋を渡ることにした。
「あなたの友人の輪に私も加えていただけるのですね。それはますますもって光栄です。じゃあ、私はその恩返しに何か気の利いた小話の一つでもしなくてはいけませんね」
「そりゃいい。
けど、実はボクの方から聞きたいことがあるんだけど、話してもらえるかな」
あくまで私的な会話という体裁をとっていたが、最初からこれが目的なのは明白だった。
欧州を解放した英雄にも知らないことはいくらでもあるのだ。
そしてそれを自分は知っている。
世界をひっくり返したとある事件を。
そして事件の原因の一つとなったのが、目の前の男が成し遂げた英雄的行為にあった。
トルーマンの内心を知ってか、アイゼンハワーは彼の口が開くのを親しげな顔を向けつつ待っていた。
(かなわないなぁ)
アイゼンハワーの顔を見ながら思ったトルーマンは、苦笑を浮かべつつあの日の事、そして知る限りの舞台裏を話し始めた。
多くは、自分を含め数名しか知らない事だった。
・一九四四年六月九日 ワシントン
その日ワシントンは快晴だった。
しかも、アメリカばかりでなく世界の全てが晴れ渡っていた。
もちろん後者は心象面で、ということになる。
何しろ数日前に、連合軍はフランス本土に対する上陸作戦に成功。
ナチスドイツが支配する欧州大陸本土に、大きなくさびを打ち込む事に成功したのだ。
市民ばかりか将軍達の間ですら、年内にはナチスとの戦争は終わるだろうと言われるほどだ。
明るい空気は、アメリカの政治中枢ホワイトハウスの中にも充満していた。
あと一週間ほどで決定的瞬間を迎えるといわれる、日本との戦争など些細なことと言いたげなほどだ。
そうした空気を代表したような言葉がオーヴァル・オフィスを満たした。
「悪いなミスター・トルーマン。急に呼び出してしまって。しかし、国家のために献身的に働いてくれる君に、良き日の雰囲気が残るうちに話したいと思ってね」
「いえ、ミスター・プレジデント。昼食にまでお呼びいただき光栄です」
車椅子に腰掛ける初老の男に対して、実直な銀行員のような男が慇懃に腰を折った。
実直な銀行員、ハリー・トルーマンが礼をした男こそ、合衆国史上前人未踏の四選を果たすだろうと噂される名声を勝ち得た男、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領その人だった。
彼の車椅子姿の元凶となったポリオについては、一般にはほとんど知られていないが、病気など問題ないほど覇気に溢れていた。
いかにも勝利しつつある国家の元首の姿だ。
ただ、慇懃に礼をしたトルーマンには疑問がいっぱいだった。
なぜ自分が呼ばれたのか、明確な理由が思い浮かばなかったからだ。
近年軍事費の不正使用を調査することで名声を得た、そうした間接的な戦争努力に対する感謝を兼ねた報酬だろうと思うしかなかった。
ただ理由がそうだとしても、今この時期というのは少し変だ。
呼ぶなら、名のある将軍などの軍人の方が相応しいだろう。
様々な考えが浮かぶが、トルーマンの内心を無視したように会話は進む。
どうやら昼食会には大統領と副大統領、そして自分だけによるものらしかった。
しばらくルーズベルトとトルーマンは、家や家族の事などとりとめのない話をおこない第三の人物を待つが、彼も三十分ほど経つと現れた。
時刻は午前十一時半ちょうど。
昼食にはまだ早い時間だったので、三人は喫煙室でワインを味わいながら談笑することになった。
大統領と副大統領、そして自分。
呼ばれて有頂天になってよいだろうトルーマンから見ても、取り合わせは奇妙と言わざるを得なかった。
(まあ、外見については自分も大差ないな)
トルーマンの見たところ、副大統領ウォレスは学者肌の凡庸な政治家に見えた。
得意分野こそ違え、自分とさして変わらない平凡な男だ。
だがルーズベルトについては、笑顔の向こうに何かをみつける事はできない。
会話が進むなか、凡庸な男のウォレスが心配げに自らの主君に語りかける。
そしてその言葉の内容からトルーマンも続いた。
「ミスター・ルーズベルト、少々お酒が過ぎるのでは。お体にはくれぐれもお気をつけください」
「全くですプレジデント。今が最も大事な時期です。閣下が今倒れるような事あれば、ステイツばかりか世界の進路が揺いでしまいます」
「ハハハ、ありがとう。だが自分の体の事だ、十分に分かっているよ。何しろこの体とは生まれたときからの付き合いだからな。それよりも、少し早いが本題に入ってもいいだろうか。今日は気分もいいし、本題はさっさと片づけて昼食はゆっくり楽しみたい気分なのだよ」
ルーズベルトは、二人の心配など気にする風もなく、ワインで少し赤くなった顔を二人に向けてきた。
顔は笑っているが、目は真剣だった。
つられて二人も重々しく首を縦に振る。
そうして始まった会話の内容は、席を同じくした二人にとって衝撃的だった。
今この部屋に盗聴装置が仕掛けられていたら、マイクの向こうの人間も卒倒していたことだろう。
会話の内容が、ルーズベルトが四度目の大統領選挙に正式に出馬声明を出すと決めたこと。
そして、副大統領にトルーマンを据える意志を示したことだったからだ。
確かに民主党内でも、リベラルすぎるとされるウォレスよりも、近年名声を上げているトルーマンを副大統領にという声もある。
党内での声は、日増しに強まっていると言ってよいだろう。
しかし、あくまで下評判や噂に過ぎず、トルーマン自身あまり期待は抱いていなかった。
だが直に大統領から話を聞くとなると、衝撃は格別に大きなものだった。
また、四年間副大統領としての勤めを果たしたウォレスに対しては、次の副大統領に推薦しない代わりに商務長官の椅子を用意していると告げた。
見事な権力の行使だ。
だてに十二年間も大統領の座にあったわけではない。
返事は今でなくても良いと笑ったが、大統領がわざわざ呼び出して告げたのだ。
決定事項と言ってよいだろう。
有無を言わせぬ真剣な眼差しからも明らかだ。
会話の内容にトルーマンは小さな混乱に襲われ、ウォレスは明らかに落胆していた。
いや、ウォレスの場合はむしろホッとしていたのかもしれない。
トルーマンは混乱しつつも、ライバルといえる人物の観察を忘れなかった。
そんな二人の様子を興味深く眺めていたルーズベルトは、人事を権力として使うことに満足したのか、手にあったワイングラスの中身を一気に飲み干すと、テーブルの上に置こうとした。
「さあ、そろそろ昼食の時間だ。急がないとコックの視線が痛い……」
彼の言葉は最後までつむがれる事はなく、置こうとしたグラスは手から離れ、足が沈むほど分厚い緋色の絨毯上でにぶい音をたてた。
それに合わせて身体もゆっくりと崩れ、目からも急速に光が失われていく。
何が起きたのか一瞬思考が停止した二人だったが、落ちたグラスの音を合図に二人の叫びが部屋を満たした。
「プレジデント! ミスター・プレジデント!」
「SP、主治医を呼べ! 早く!」