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虚構の守り手 〜二つの日本の物語〜  作者: 扶桑かつみ


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14/31

第五章「醜き世界」-2

 一九五〇年六月二五日午前二時半、海上での遭遇戦から開始された「東亜動乱」。

 その初動は、双方とも混乱に満ちたものだった。

 

 海戦の約一時間後の黎明より、空からの奇襲攻撃を予定していた大東亜人民共和国空軍、海上強襲を予定していた日本本土解放軍集団・第一挺身団ですら例外でなかった。

 

 しかし、ミスが少ない方こそが戦争のイニシアチブを握るという原則は、ここでも冷徹に機能していた。

 

 完全な戦略的奇襲を受けた日本自衛軍と在東亜アメリカ軍は、開戦から一週間は為す術がなかった。

 福岡市の無防備都市宣言がその結果となる。

 

 比較的まともに抵抗したのは、即時待機していた各空軍基地の防空戦闘機隊と、防人として北九州沿岸防衛の任務に就いていた陸上自衛軍・第四師団だけだった。

 

 もっとも彼らですら、「ミグ・ショック」と「人海戦術」の前に善戦したという戦況レポートを書くのが限界だった。

 

 自衛軍に対して、いずれ日の丸に戻る予定の人民軍側は、暫定国旗とした満州国の旗を万民平等の象徴としてそのまま国旗として振り立てながら、北九州各地の砂浜に最初の足跡を記した。

 

 もっとも、第一歩を記したのは日本人ではなかった。

 そう言われている。

 

 陸軍司令の牟田口が考えつき、派遣軍司令の富永の下で最先任作戦参謀を務める辻が作戦にしたと言われる、歴史上悪名高い戦術が取られたのだ。

 

 だが、上陸第一歩を記した者たちは、陸上自衛軍・第四師団の猛烈な水際攻撃を受けほとんど全滅したので、歴史上では実態を伝えられていない。

 しかし、その過半は中華人民共和国成立により祖国を追われた、旧中華民国の兵士だというのが冷戦時代の西側の研究結果だった。

 

 人民軍の第一挺身団は、輸送船舶の関係から四〜五個師団規模、約十万人とされる。

 だが実数はより多く、すし詰めにされた一部輸送船によって、その総数は第二次元寇に匹敵する約十五万人とみられている。

 そして兵士の半数が、旧中華民国の兵士だったのだ。

 

 彼らは、初期の阻止砲火を生き残ったすし詰めの輸送船から、旧式火器による貧弱な火力で、海岸線がまだ遠いのに貧弱な舟艇で上陸を開始。

 ヒロポンとアルコールにより戦意を昂揚された彼らは、友軍による敵味方を問わない支援砲撃によって「援護」されつつ、北九州沿岸に考え抜かれて構築された水際陣地を人の海で覆い尽くしたのだ。

 

 そして、人の海が最前線を突破する頃には、せいぜい人の池ぐらいに小さくなり、現地を死守した陸上自衛軍の兵士と共に消え去った。

 

 人民軍側の記録にもほとんど残されていないが、いまだに北九州の海岸線の各所で人骨が発掘されたり、海岸に打ち上げられたりする事こそが歴史の証人だ。

 そして生き残った僅かな者達は、功績により家族共々日本人としての籍を手に入れ、黙して語らなくなったと言う。

 なお一説には、作戦を立案した当の辻政信が、この作戦に立ち会って滂沱の涙を流し、戦後も生き残った者の世話をしたと言われている。

 


 そんな砂浜に、上陸からたっぷり二十四時間近くが経過してから、西少将が直接率いる独立重戦車旅団が上陸した。

 

 重戦車で構成されているだけに、今後の突破戦力としての遅れた登場だった。

 

 前に人一人を抱えた歩兵が歩き、戦車が走れる地盤を確かめつつの上陸となったが、小山のように大きな戦車が揚陸艦から九州の大地に上陸するたびに歓声や万歳が聞こえてくる。

 

 戦車には二種類あり、一種類は数年前から運用しているティーゲル・ツヴァイ。

 若干形や装備の違う車両もあるが、努力のかいあって二十四両に増勢していた。

 これらが第一、第三中隊を構成している。

 そして第二、第四中隊を成すのが、ソ連からプレゼントされたばかりのヨシフ・スターリン3型重戦車だった。

 この他、突撃砲中隊、増強編成の機械化歩兵大隊、砲兵大隊、対空、工兵、整備、輸送、衛生など全てを中隊から大隊規模で持つ、独立編成の重機甲旅団だ。

 重装甲、重火力の戦車、突撃砲だけで七十両近くある。

 重砲もソ連製のもので、ご丁寧にカチューシャまである。

 部隊の大半も大戦中にソ連に供与された、アメリカ製のトラック、ハーフ・トラックで自走化されている。

 

 名称は独立第十一重戦車旅団となっているが、実質は諸兵科連合のミニ師団に近かった。

 満州の荒野ばかり見慣れた大陸の日本人達は、欧州では独立編成でしか運用できなかった重戦車の群をまとめて、違った形で運用しようとしていたのだ。

 

 その戦力は、参謀として従軍したドイツ出身の少佐から、アミーやトミー製の貧弱な戦車で構成された装甲師団なら、十分撃破できる装備と編成だと、お褒めの言葉をいただいていた。

 

 また、人民陸軍でも四つしかない戦車師団、二つしかない戦車旅団の一角を占めており、軍から選抜された兵から編成されているだけに練度も高かった。

 くだんの少佐も、一九四四年の東部戦線でも十分やっていけると太鼓判を押していた。

 

 そしてこのドイツ人少佐や西に付き従ってきたような曹長の存在にあるように、各所にドイツ人の顧問や志願兵がいた。

 

 最大の原因は、人民政府が従軍することでドイツ人に完全な自由を与えると、ソ連と折り合いを付けた事にあった。

 この部隊以外にも数千人単位で、シベリアから新たな地獄へと足を運んだといわれている。

 他にも軍事顧問や技術顧問として国内で数万人のドイツ人が活躍中だ。

 

 また未確認の資料によれば、日本が促成で近代的な軍を育成し技術者の不足を補う為に得たドイツ人の代償として、数十万もの中華民国難民をシベリアや中央アジアに送り届けたとも言われていた。

 

 新京の「お城」に詰めるエリート軍人にとって、地獄の東部戦線を経験したドイツ人将兵一人の価値は、着の身着のままで逃れてきた国府軍百人分の価値があったのだ。

 

 これが真実なら、実に彼ららしい取引といえるだろう。

 彼らの盤の上には「歩」がたくさんあるより、もっと役に立つ「駒」が沢山あった方が気分がいいのだ。

 

 西少将は「お城」の内情を少しばかり肌身で知っているだけに、上陸したとき広がっていた地獄に、思わず唾を砂浜に吐き捨てたほどだ。

 

 たまらずタバコの火を付けようとすると、いつの間にか旅団最先任曹長のような役割になっていたアイゼンビュット曹長が火を差し出した。

 

 水晶色の瞳はお察ししますと言いたげだ。

 

「すまんな曹長。みっともない所を見せてしまって」

「いえ、とんでもありません。ただ自分は、五年ほど前の東部戦線で似たような情景を数多く見てまいりました。その、そう言う事であります」


 あえて妙にしゃちほこばったドイツ語が彼の口から出てきた。

 部下への命令以外で彼がそう喋るのは珍しい。

 

 そんな曹長に西は彼の肩をポンポンと叩くことを感謝の印として、次の瞬間指揮官のフェイクをつけると矢継ぎ早に命令を発し始めた。

 

 そう、ここは戦場であり、この地を奪われた者達から見れば、彼の祖国とは言い難い場所なのだ。

 


 上陸から数時間、時計の針が天頂を差そうと言う頃、ようやく部隊の前進準備が整った。

 

 こうも展開が速いのは、参謀の辻少将が事実上の第一陣で乗り込んで陣頭指揮をとったからだとされるが、別の一説では辻少将の為にむしろ遅れたとも言われている。

 

 そんな彼らが上陸した場所は、唐津湾の虹の松原と呼ばれる名勝。

 

 この砂浜から国鉄沿いに一気に南下。

 夕刻までに一路有明海目指して突破戦闘を行うことになっていた。

 突破により、博多と海軍の拠点となっている佐世保や大村基地を遮断するのだ。

 

 また次の突破戦闘では、筑紫平野を旋回しつつ博多の後背を絶ち、玄界灘に上陸した軍主力と共に包囲戦を行い、一気に北九州の主要部制圧を計ることになっている。

 

 突破用の機動戦力は、玄界灘から博多と北九州の間に上陸した部隊を併せて三個師団にしかなかったが、対する自衛軍は初期の戦闘で壊滅した第四師団を含めて編成上の二個師団。

 作戦は十分勝算があると見られていた。

 

 侵攻軍の総司令官の富永恭次大将、最先任作戦参謀の辻政信少将は、共に七十二時間以内に北九州での勝利を決すると断言していたほどだ。

 

 また、この時上陸する第一挺身団は、この三日間の戦闘で消耗してもよいとされていた。

 

 なぜなら、次の上陸部隊がすでに釜山を発っており、初期の空爆だけで捨て置かれた対馬を制圧する部隊をすり抜け、第一挺身団が消耗するまでに戦線に現れる予定だったからだ。

 

 どこかソ連軍の戦闘方法に似ているが、一週間で北九州全土の解放を目指していた人民軍としては、初期兵力の消耗は仕方ないものと認識されていた。

 また補充は、解放軍として迎えられるであろう現地で補充すればいいという皮算用も考えを補強していた。

 この点実に旧軍的といえるだろう。

 

 なお、初期の突破戦力の中に、陸軍最精鋭である筈の西の部隊が含まれていたのには理由がある。

 

 西達が強く志願したというのもあるが、初期の宣伝のような突破戦闘を行わせた後は、凱旋軍として帰りの船で戻す積もりだったのだ。

 

 そして裏の事情も知らされていた西は、上層部のやり方に不満を持ちつつも、今は任務遂行に専念する事にした。

 

 それが彼が行った軍人としての誓約の履行であるし、既に倒れていった兵士達への義務だった。

 

 だからこそ、硝煙と血の臭いが渦巻く戦場で強く命令を発した。

 

「独立第十一重戦車旅団前進!」


 唐津沖から、大規模な機甲部隊が出発する土煙を見ながら、立花は当面の任務が終わった事を実感していた。

 

(やっぱり見えないなぁ……まあ、後は頼んだよ)


 西少将の姿を一目見れないかと思ったが、残念ながら高倍率望遠鏡でも海岸付近の人はアリンコぐらいにしか見えない。

 

 そして彼が眺めているように戦場は陸に移り、敵戦艦も予定よりはるかに早く蹴散らした以上、あとは旅順に帰って次の任務に備え整備補修する時だった。

 

 なお、上陸初日の戦闘で、「山城」と駆逐艦二隻を失うというアクシデントはあったが、こちらはアイオワ級戦艦二隻、ボルチモア級重巡洋艦一隻の撃沈。

 普通なら勝利といってよい戦果だった。

 

 しかし、当面兵力の補充のきかない人民海軍にとって、戦艦喪失は取り返しの付かない損害でもあった。

 たとえそれが棺桶に片足を突っ込んでいるような旧式艦であっても、たった二隻しかない戦艦の片方だったからなおさらだ。

 幸いにして海軍の象徴たる「武蔵」と重巡洋艦など他の大型艦は軽度の損傷で済んでいたが、素直に喜べるものではなかったのだ。

 

 もっとも新京の司令部は、海戦の勝利と上陸成功で今にも自分たちが提灯行列に加わりそうなほどのお祭り状態だった。

 陸軍司令の牟田口などは、新京を離れ自ら陣頭に立つと言い出して実行しそうになったほどだ。

 

 造反以来初の大勝利であるにしても浮かれすぎだった。

 あまりの感情の爆発ぐあいに、立花や護衛艦隊宛の電報を見ただけで、頭がくらみそうになったほどだ。

 

 過半の戦力を投入していた海軍は、損害の深刻さ、日本列島とその周辺部にある敵海軍力の強大さを前に多少冷静だったが、それでも勝利は嬉しいらしく、海軍司令の石川信吾の名で祝電が寄越されていた。

 

(石川さんって戦艦は好きじゃないと思ってたけど、そうでもないのかもな)

 電報を見ながらどうでもよい事を思った立花は、それを一瞥すると麾下の部隊に旅順への帰投を命じた。

 

 戦争はまだ始まったばかり、ここで消耗してしまうわけにはいかないのだ。

 立花の属する海軍にとって、これからが本当の戦いだからだ。

 

 ◆



 劇的な海上戦闘を号砲とする開戦から三週間たった。

 その間世界は激動を続けた。

 

 開戦翌日にアメリカは、戦争当事国となった日本など多数の国々と連名で、大東亜人民共和国を僭称する集団に対する国連軍派遣を要請。

 

 国連安保理はソ連の拒否権によって機能停止したので、急遽国連総会を開き三分の二以上の賛成を得て派遣が決定された。

 

 しかしアメリカ本土から日本まで海路で約一ヶ月。

 たとえ即時待機している部隊があったとしても、到底間に合うものではない。

 

 しかも戦争当事者の列島日本は、戦後から続く連合国による軍縮により必要以上に弱体化。

 なけなしの戦力も、日に日に脅威を増しているソ連に備えるためオホーツク方面に吸い取られていた。

 

 それでも北九州には二個師団を配備していたのだが、人民軍第一派だけで十万人以上いる戦力を前に、限定的遅滞防御戦闘が限界だった。

 もちろん付近から慌てて戦力を集めたが、北九州主要部が敵に制圧されたため、中国地方はおろか四国の防衛まで考えねばならず、適切な増援が送れぬまま北九州の戦線は瓦解。

 

 開戦から僅か一週間で、博多市と北九州市は無防備都市宣言をして開城しなければならなかった。

 

 その後も人民軍は、対馬海峡に設定されたソ連から大量供与されていたミグ15ジェット戦闘機による「ミグ回廊」を使って第二派、第三波を送り込み、総数二十万人を越える戦力を北九州に送り届けた。

 

 しかも解放軍としてやって来た彼らは、九州出身者が比率的にという注釈付きであったが多数を占めていた。

 彼らは、民間人への攻撃や強権を用いる軍政は徹底して控え、先の欧州であったようなパルチザン運動を現地住民に期待することは相当難しかった。

 

 幸いにして南九州での動員師団が間に合い、また敵の当面の物資が不足したことから戦線は一時停滞。

 佐賀から福岡の県境が戦線として構成されるに止まっていた。

 

 そんな列島日本側から見ると絶望的な状況に変化が訪れたのは、最初の一週間を境にしてからだ。

 

 主な理由は、米空軍の航空機がそれこそ太平洋中から北九州を作戦圏に含める場所に展開したのが始まりだった。

 

 これに呼応するように、初期の奇襲から立ち直った日本の航空自衛軍と共に積極的な制空権獲得競争を展開。

 また、対地攻撃を熱心に行い始めた。

 

 そして極めつけは、「ミグ回廊」を強引に突き破った、空母二隻による空襲だった。

 

 戦闘に参加した約五十機のA1Hスカイレイダー攻撃機は、釜山から北九州への突破を図ろうとした輸送船団を圧倒的破壊力で殲滅。

 補給物資と増援を失った人民軍の歩みを完全に止めるに至ったからだ。

 この空母の活躍は、用済みと考えられていた空母の価値が再認識され、アメリカなど多くの国で空母が再び運用される大きな契機となった程だ。

 

 だがこれは始まりに過ぎなかった。

 その後も人民空軍のミグ15と激しい制空権獲得競争をしながらも、物量戦を仕掛けることで補給線をズタズタに引き裂く。

 

 攻撃は主に主補給線となっていた、朝鮮半島南部の鉄道、港湾と東シナ海に集中した。

 日本政府の要請もあって、北九州には毛ほども関心を示さない。

 

 そして三週間後、メイド・イン・USAの懸絶した軍事力が発揮される。

 

 一九五〇年七月一五日午前八時、二つのアシストジェットと六つのレシプロエンジンを持つ巨大な怪鳥数機が、高度一万五千メートルから釜山上空に飛来。

 その怪鳥、B36ピースキーパーが、都市を構成する港湾部に史上初めての核兵器実戦使用を行ったのだ。

 

 落とされたのは、二〇キロトンの爆縮型プルトニウム爆弾。

 都市部の被害を避けるためより威力の大きな新型や大型原爆は使われず、低威力型があえて選択された。

 

 もっとも不発を考え隣接した場所に二発も落とされれば、相乗破壊効果は目を覆わんばかりだ。

 港湾部の施設は、重コンクリート製の岸壁の他、数千度の炎でガラス片となった地表以外何も残らなかった。

 ところどころ、墓標のように鉄筋コンクリートの建造物の残骸が見えるぐらいだ。

 

 しかも人民軍は、この攻撃の少し後に二度目の人海戦術の準備をしていたらしく、この時多数の兵士が港湾部に犇めいていたといわれる。

 おかげで被害者数は、国連軍の予想をはるかに上回ってしまう。

 

 正確な損害数は現代に至るも出ていないが、一般市民を含めた短期間での死者数は二十万人以上。

 釜山港にあった地上兵力、軍艦、輸送船の殆ど全ても失われた。

 もちろん、港湾関係者や港湾施設の被害は壊滅的というレベルを超えており、今後数年間釜山が港湾都市としてまともに機能することはあり得ないと言われた。

 

 この史上初の核攻撃を、人民政府はもとよりソ連が激しく非難。

 ソ連に至っては、国連軍を騙るアメリカの横暴を抑えるため、自らが開発したばかりの核兵器を人民共和国に供与する用意があるとまで発言した。

 

 もっとも、投下から数日で行われた発言に、自らパンドラの箱を開けたのではとも恐れ、戦時動員を進めていた合衆国政府はむしろ安堵した。

 

 共産主義者達がすぐさまアジテーションやプロパガンダを振りかざすと言うことは、当面直接拳を振り上げる気はないという何よりのサインだったからだ。

 また南朝鮮は、ソ連にとって破壊されても許容範囲の場所だと確認できた事も大きな収穫だった。

 後は、順次数が揃う通常爆撃で吹き飛ばせば良いのだ。

 

 だが、非人道な兵器を使用したアメリカへの国際的非難は高まり、かつての敵だった日本人同士の争いと言うこともあって、国際社会の国連軍の熱意も一気に低下してしまう。

 

 そして核攻撃をターニングポイントに、東亜動乱は一瞬にして停滞期を迎えた。

 

 攻撃側の人民側は次の攻撃戦力と最も効率的な補給線が破壊されて進撃どころではなく、対する日本側は本格的な動員を行い兵器の数を揃えるまで反撃どころか防衛にすら兵力を事欠くからだ。

 

 しかも、原爆を落としたことで国際非難が高まったアメリカは、短期間で北九州に地上兵力を派遣することが政治的に難しくなった。

 

 その代わりとばかりに、列島日本への大規模援助と海空戦力の提供はしたが、原爆投下の政治的ショックがおさまるまで動きを抑えるのは確実だった。

 その証拠にアメリカの海空戦力は増加の一途を辿り、人民軍側支配領域に対する戦略爆撃にも代表されている。

 また、自軍の代わりに世界中の軍隊で構成された、本当の意味での国連軍の編成に時間がかかるのも間違いない。

 

 親日的な国家、反共産主義的な国家が多数、日本本土を共産主義の脅威(大陸日本は実質的に東側だ)から守るべきだと援軍の派兵を自ら打診していた。

 これには、辛くも国家分断の危機を回避したドイツが、いまだ独立を回復していないのに何らかの援助をできないかと言ってきたぐらいだった。

 

 結果として、原爆を落として評価を下げたアメリカはともかく、被害者としての列島日本という構図は、世界的に見て確立されていると判断できるだろう。

 


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