episode 2:1
微かな息づかい。
上半身を起こそうとしたけれど動かなかった。
両肩に負荷を感じる。
柔らかい手の感触だ。
ボクは彼女の名前を囁く。
返事はなかった。
女の静かな息づかいだけが繰り返されている。
眠っているのだろうか?
ボクはゆっくりと瞼を開く。
真昼の太陽みたいな位置に女の顔があった。
彼女ではない。
知らない女だった。
「生きていたんだ?」女が訊く。
「みたいだね」ボクは応える。唇が微かに持ち上がっているのが自分でもわかる。「もしかして、待てなくてボクを迎えに来たとか?」
無言でいることで女はボクに応えた。さっきの女の発音はまるっきり抑揚が喪失していたから、人間ではないと思っていたけれど。
視線だけを動かして辺りを見る。ボクと女以外には誰もいない。右肩に白い指が根っこみたいに貼りついていて、そこから細い腕が伸びていた。左肩も同じような状態だろう。見るまでもなかった。要するに女はボクの上に乗っているのだ。
女の皮膚には体温が感じられない。まるで幽霊にでも触れられている感じ。だけど、両肩の圧力と上半身に掛かる彼女の体重はやけにリアルだ。少なくとも、これがボクの妄想でないのは明らか。
時間を確認したかったけれど、かろうじて時計の形が視認できるだけで、あとはブラックホールみたいに暗くてわからなかった。
試しに彼女の名前を思い出してみる。
名前はすぐに思考に浮かんだ。
尾長鳥の尻尾みたいに結ばれた髪。
猫みたいな大きな目。
冷たい。
ボクの手を握る彼女の手のひら。
唄。
僅かに開かれた彼女の唇。
鼓動。
身体中の皮膚に伝播する彼女の体温。
彼女を定義している記号がしだいに鮮明になる。
なるほど確かにボクはまだ生きている。
日付けはまだ変わっていない、恐らく。
視線を元に戻して女を眺める。
女は相変わらず澄ました表情でボクを見下ろしていた。動いているのは、ときどき思い出したように瞬いている睫毛と、彼女の中で収縮している小さな鼓動くらい。あとはマネキンみたいに静止している。
女が彼女ではないのは明らか。
だけど女は、死神でもなければ天使でもない。
女の指が、ボクの肩から剥がれる。
ボクに漸近していた顔がしだいに離れていく。
黒髪がボクの皮膚を這う。
白い指が皮膚の上を滑らかに移動している。
思考は霧みたいにぼんやりしていた。
ふと、胸に違和感。
見てみると、女の人差し指が胸の真ん中に停滞していた。
「傷跡が見当たらないわ」女が言った。「それすらも忘れてしまったの?」
その瞬間、
胸に衝撃が伝わって、
鉄の匂いが鼻腔をくすぐって、
身体が跳ね上がるような錯覚、
女の手が胸に埋まる妄想、
心臓に触れられているような痛覚、
思考を鷲づかみされたかのような焦燥、
そして、
女の匂い、
血液と混じって、
身体中に循環する女の匂い。
ボクは手を伸ばして女の頬に触れた。
そこで女は初めて笑顔を見せた。
どこかで見たような笑顔だった。