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episode 1:7

 テーブルの花瓶はカウンターに移されていた。その空間を埋めるようにして、空になったビールがそこに数本立っている。どれもひしゃげていて酷いものだった。原型を留めているのはどこにもない。かろうじて原型を留めているのはフローリングに転がっているやつが二本。でも、結局は、蹴られてしまうか踏み潰されてしまうかのどちらかだ。

 あえてどちらが良いかと問われれば、ボクは間違いなく前者を選ぶ。蹴られてしまえば損傷は少ないだろうし、そこから消えてしまったような、初めから存在していないような、そんな錯覚を覚えられるからだ。

 だけど、踏み潰される方は悲惨だと思う。ビルから落下したように中身を出して、かつては形になっていたという残滓を辺り一面に曝してしまうからだ。それは見る者の思考にねっとりと焼きついて、しかもガソリンみたいに脳に染み込んでしまうから、取り除くのはなかなか難しい。

 ウズメはボクのことばかり話していた。勿論、今ここにいるボクではなく、以前のボクの話だ。ボクは、ビールを少しずつ飲みながら彼女の話を聞いている。まるで、舞台の下から眺めているような、現実から乖離しているかのような、そんなぼんやりとした気分を覚えていた。つまり、それがボクという認識がまったくない。それは、以前の記憶がないボクには当然のことだけれど、彼女が話しているボクは、ボクが認識している人格そのものではなかった。例えるなら、ボクという仮面をつけたボクではない生きもの。

 そいつは、ときにはボクに限りなく漸近した思考を持っていたり、ときには捉えようのない複雑な思考を持っていたりする。彼女の話が変わる度に、そいつの、いや、そいつらの仮面も変化しているのだ。同一の仮面は存在しない。要するに、現れるのは一度っきりで、現れたら最後、そこで完結してしまう刹那的な状態だと言えた。これはボクが想像していた通りに、アマカセ・セトが生と死の循環を繰り返している証明になる。

 記憶を失うことは死んでしまうのと同義だ。

 だから、ボクは毎日死んでいるようなもの。

 でも……、完全には死に切れない。

 蹴られたみたいに消えてしまうことはない。

 オイルみたいに思い出に染み込んで、

 幽霊みたいに思い出に漂い続けている。

 きっと、

 ウズメの頭の中は、

 踏み潰されたみたいなボクの残滓でいっぱいだろう。

 明日になればボクもその仲間に這入る。

 ボクの仮面をつけた、

 ボクではない生きものとして……、

 彼女の中で漂い続けるんだ。

 ボクは寝室に戻った。ウズメはキッチンに残って片づけをしている。手伝う旨を彼女に意思表示したけれど、やんわりと断られた。

 壁に掛けられている時計で時刻を確認。分針は地上に向かって伸びていた。時針は遥か上空。傾いた姿勢のまま上昇している。天国までもう少しってところ。秒針は忙しそうに回転しながら、そんな二つの影をレーダみたいに捕らえ続けている。

 シャツを脱いでベッドに這入った。つけっぱなしのラジオは窮屈そうにブルースをひりだしていて、その音楽に攪拌された秒針の音がまるでノイズみたいに聴こえる。なるほど、要するにボクは気になっているというわけだ。だけど、気になったところでどうにもならない。ラジオじゃないんだから、そう簡単に周波数を変えたり電源を切るわけにはいかないのだ。そんなことをしたって流れを止めることできない。いつだって時間は人間の意志を顧みずに進み続けるのだから。

 スリッパとフローリングが擦り合う音。ラジオが止まって、そしてベッドが軽く軋んだ。ボクは横になってウズメを見上げる。黄色いタオルは取られていた。黒い髪に反射している照明の灯りが不思議なコントラスト。

「もう寝た?」ウズメは訊く。

「いや、まだだよ」ボクは応えた。

「そう、良かった」それからウズメはくすりと笑う。「約束、忘れていたよ」

「ボクはいつも忘れているよ」

「そうだね。いつも、全部、いつだってそう。どうしてこんな人好きになっちゃったんだろう」

「ごめん」

 ボクは時計を見た。

「ねぇ、セト。私のこと、好き?」

 ボクは黙っていた。

 ウズメは振り返ってにっこり微笑む。「セトは優しいね」

 もうすぐ消えてしまうのに、うん好きだよ、だなんて言えるわけがない。

それが優しいって彼女は言うけれど、どうだろう、ボクには良くわからなかった。

 しばらくボク達はなにも喋らなかった。時間を進めている秒針の音だけが静かに寝室に響いていた。時針は既に天国を通り過ぎている。こうして古い生命は新しく生まれ変わったってわけだ。もうすぐボクもそうなる。

 おどおどと緩慢に進む分針が、その予感。

 おどおどと緩慢に進む分針が、ボクの具現。

 なるほど、怖いと思う感情……、これが死か。

 確かに、ボクは死ぬのが怖い。

 記憶を失ってしまうのが怖かった。

 キッチンで転がっていた空き缶を思い浮かべる。

 ふと、耳元で微かな息遣い。

 ウズメがボクを見つめていた。

 いつの間にかボクと一緒にベッドで横になって、唇を結んで、そこから声を漏らしている。しだいにそれが鮮明になってきて、ようやくボクは声が音だと、音が唄だと認識する。

 瞼を閉じた。

「忘れたくない」

 自然とそんな言葉が漏れる。

 ウズメの手のひらがボクの頬に触れた。

 相変わらず、彼女の手のひらは冷たい。

 頬に伝う体液は相対的に温かい。

 だけど、

 そんなことを言葉にしても

 そんなことを涙に変換しても、

 それすらもボクは忘れてしまうだろう。

 優しいね。

 多分、それは本当の優しさじゃなくって、ウズメの中に残らないのが本当の優しさだと思う。そう、ボクは忘れてしまうけれどウズメは忘れることはないのだから。

 キッチンで転がる空き缶を思い浮かべる。きっと、今頃はビニール袋の中で潰れたやつと一緒になっているだろう。蹴られないまま、踏みつけられないままで、袋の中で押し潰されているに違いない。

 どうせ死んでしまうのなら、なにも残さずに消えてしまいたい。

 踏みつけられて跡を残すよりは、蹴られて消えてしまった方が良い。

 袋の中で留まっているよりは、

 ウズメは蹴ることはなかったと思うけれど、

 どうか神様、

 ボクを殺すなら、

 どうかボクを、

 蹴り殺して下さい。

 そうすれば、ウズメの中でボクはいなかったことになるだろう?

 ねぇ神様……、

 ボクは間違っているか?

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