episode 1:5
「飲み物のおかわりは?」声がしたので、振り返ってみると、リビングの入り口にウズメは立っていた。黄色いバスタオルをターバンみたいにくるくると頭に巻いている。「なにが良いかな? ビール? それともワインにしとく?」
「ビールで良いよ」空き缶をテーブルに置いて、ボクは言った。
ウズメは微笑んだあとに首肯した。彼女の頬にくっついている粘性を持った液体が、のろのろと移動している。アメーバみたいに。
「じゃあ、私もビールにしようっと」
「それが良い」
「なんのこと?」
ボクは首を竦めるだけで、ウズメに反応する。
「もう。セトは、肝心なときにはなにも言わないから」
「その必要がないからだと思うけれど」
「セトには必要なくてもね、私には言葉にしてほしいことがあるんだよ」片目を細めて、ウズメは唇を尖らせる。不思議な表情だな、とそれを見てボクは思った。
「ウズメには、わかっていても?」
ウズメは無言で頷く。
「考えておくよ」ボクは言った。
「本当に?」
ボクは無言で頷いた。それでウズメは機嫌を直したみたいで、ボクに見せていたあの不思議な表情を笑顔に変換した。そのことに罪悪感を覚えていたのは、他でもない、ボクが彼女に嘘をついたからだ。ボクに残されている時間は僅かだ。その間に、彼女の希望に添える機会はないと思う。
「なにか食べものは?」ぼうっとしているとき、上からウズメの声がした。「簡単なものならすぐに出せるけど」
「今から作るの?」ウズメを見上げて、ボクは尋ねる。
「レンジに入れて待ってるだけ」ウズメは前屈みになって、ボクの鼻先を白い指で軽く押した。彼女なりのジョークらしかった。ボクは短く鼻息を漏らしたあと、苦笑を返す。
「なぁに? インスタントじゃ不満?」
「いや、そうじゃないよ」ボクは首を振った。わかっているくせに、とは口にせず。「手伝うよ」
「え、別に良いよ。レンジに入れるだけだから」
「じゃあ、一緒に待ってるよ」
ウズメは何度か瞬いて、それから唇を噛んで微笑んだ。「じゃあ、二人でビールを飲みながら一緒に待ってよう」
ソファから腰を浮かせた。
ラジオは、パーソナリティからディスクジョッキーに入れ替わっている。アグレッシヴなロックがリビングを包んでいた。それと、コーヒーの中に潜んでいるようなディスクジョッキーの濁った声が、ときどき。
「こういうのが好みなの?」
「さあ、どうだろう」ボクは肩を竦めた。「気がついていたらそれが流れていたよ。さっきまでニュースを聴いていたんだけどな」
ウズメは短く相槌を打っただけで、あとはなにも言わなかった。ボクも黙って彼女のあとに続いてリビングを出る。
「怖いよね」リビングを出て、突然ウズメは言った。思わずボクは立ち止まり、なにが? と尋ねる。「ニュースで思い出したんだけど、最近この街でおかしな事件が起こってるって」
「事件?」
「うん。セトもニュースを聴いていたなら知ってると思うけれど、殺人事件。今日も殺されたらしいよ」
今日も殺されたらしいよ。そのウズメのフレーズで、ボクは理解する。つまり、さっき聴いたあのニュースはこの街で起こった事件らしかった。三人目の被害者。連続殺人。確かに、怖いと形容できるものだけれど、おかしいとまではボクは思わなかった。
「ネットの掲示板でも凄い騒ぎようでね」そのボクの疑問に応えるように、ウズメは言葉を続ける。「騒ぐのは別に良いんだけど、って良くないか。まぁ、とにかく、そこで、うん……、変な噂が流れているの」
つまり、その噂が起因した上での、おかしな事件ということか。どんな噂なのだろう、とボクは思考を巡らす。それと同時に、事件のことを考えているボクに、多少なりとも驚きを覚えた。ラジオで聴いていたときには大して関心はなかったけれど、ウズメの声に乗せられた途端、靴底に貼りついたガムみたいに気になりだしたからだ。
ウズメに噂のことを尋ねようか否かと、ボクは逡巡する。だけど、結局、彼女に尋ねることはしなかった。どちらにせよ、その事件を考察する時間はボクにはない。
それっきりその話はそこで途切れて、ボクとウズメはキッチンへと這入る。湿った温度が空気を泳いでいた。くすんだクリーム色の冷蔵庫が押し殺したような声で唸っている。カウンターは綺麗に掃除されていた。その上で洗いざらしの食器がモデルみたいに整列している。テーブルは正方形で、白いクロスが寝ている熊みたいに広がっていた。あとは、花が飾れていない花瓶が一つ。
「座ってなよ」
ウズメの指示に従って、ボクは椅子に腰掛けた。