episode 1:4
煙草を三本ほど消耗したあと、ボク達は非常階段を使って部屋に戻った。それからボクはシャワーを浴びて、ソファの背凭れに身体を倒した。ビールを片手に、ノイズ交じりの音楽を聴いていた。最初は気にならなかったけれど、大人しく聴いているうちに、しだいにそれが壁で爪を研ぐ猫みたいに煩わしく思えてきた。
腰を上げて、リビングの隅にあるキャビネットへ歩み寄る。まるで生まれたときからそこにいるかのように、そいつは酷く澄ましているんだ。ボクは撫でるようにそっとラジオを弄って周波数を替える。ときどき、怒っているような声を漏らしていたけれど、構わずにボクは続けた。やがてそいつは大人しくなって、それから鈴のような声を上げる。女の声だ。
ラジオはニュースを流していた。殺人事件に関するニュースだった。
殺されたのはこれで三人目。どれも同じ手口で殺されているので、警察側は同一の犯行として捜査しているらしい。要するに、連続殺人事件らしかった。身体にシリアルでも刻んであるのだろうか? それとも欠落した部位があるとか、あるいは凶器が同じもの? いろいろと考えは浮かんだけれど、ボクはすぐに思考を中断して、再びソファの背凭れに身体を倒した。
まともに聴けるのはこれくらいしかなかった。内容がまともじゃないのが笑えるところだけれど。でも、パーソナリティの声が透明な分だけ、他の番組よりは幾らかマシだと思う。彼女の透明な声が空気に震えて、電子と擦れ合って、辺りに充填したとげとげしいものを洗い流しているような気がするからだ。だからボクはこうして、剣呑なニュースを聴きながらものんきにビールを飲んでいられる。
髪の毛はすっかり乾ききっていて、そこから人工的な甘い薫りが立ち込めていた。最初に、この部屋へ入ったときに感じたのと同じものだ。なるほど、これがウズメのデフォルトってわけだ。
ふと、急になんだかおかしくなる。
まったく噛み合っていないな、と思った。
ラジオから漏れているパーソナリティの声はやけに透明なのに、どろどろとした殺人事件のことを話していたり。ボクはというと、事件のことを考えていたかと思えば、ウズメが使っているシャンプーの秘密のことを考えていたりしている。リビングに薫っているのはホイップしたクーリムみたいな甘いやつだし、それからそこに漂っているのは、とげとげしさをすっかり失っているけれど、危険なことには変わりのないニュースだったり。とにかく、なにもかもがちぐはぐでバラバラの状態、子供がおもちゃ箱をひっくり返したようなそんな混沌とした状況と言える。本当に、まったく噛み合っていない。まるでライオンのたてがみみたいに誇らしげに飾られている、教会のステンドグラスの中にでもいるような気分だ。
そう思うと、なんだか本当に笑えてきた。
その世界の中に、ボクが存在している不思議。
その世界の中に、ボクが生きている奇跡。
本当に、まったくどうかしている。
神様ってのは、こんなにチャレンジブルな奴だったっけ?
昔のことは覚えていない。明日のことは知らない。そんな今日しか生きられないボクに、この世界に留っている理由がどこにある?
ボクが、この世界に留まっている理由を教えてくれないか?
ボクに、枷をしている奴は一体誰だ?
ボクは、煙りじゃなかったのか?
ボクは、煙りじゃないのか?
だったら煙りのように消えてしまおうか……、とボクは思った。そう、ウズメがシャワーを浴びている間に。
しかし、その思考が身体を制御できていないのも事実。
壁にかけてある時計を見る。十一時。ボクに残されている時間はあと一時間。あと一時間経てば、今日という記憶がリセットされる。つまりそれは、ボクという人格が消失してしまうってこと。だけど、今までのウズメの素振りを思い出してみると、それが実はボクだけの妄想じゃないかと思ってしまう。
その中途半端な思考が、ボクをこの場所に留めているのかもしれなかった。背徳者が押しつけた吸殻のように、くしゃくしゃになってステンドグラスにぶら下がっている煙草みたいに、ボクはまだこの世界にだらしなく執着しているのだろう。
一体、ボクはなにに執着しているのだろうか、と考える。
すぐに答えは出てきた。
なるほど、ボクはなにかを待っているらしい。
でも、なにを待っているかまでは、わからない。
ビールを飲む。ビールは少しだけ弱っていた。何故だろう。殺虫灯に触れて、地上に墜落していく蛾を、ボクは連想した。
蛾は堕ちていったけれど、ボクは堕ちていない。
きっと……、
まだ……、
ボクは殺虫灯に焼かれているのだろう。