episode 1:3
外は寒かった。
非常階段の手すりに凭れながらオレンジ色の月を眺めていた。
さっきまで近かった空は、今は遠くにある。
ボクは、ときどき口にくわえている煙草の光を確認し、それから地上を見下ろして、蛾の鱗粉のように灰が地面に落ちていく様子を眺める。それは膝の辺りまで視認できたけれど、それから下は闇と同化して見えなくなった。空に昇る煙りも同じだ。拡散して。粒子になって。闇に同化して。空気に蕩ける。汚いものは空へは行けない。灰みたいに地上に落下するか、煙りみたいに途中で消えてしまう。そう、あとに残こるのは燃え尽きようとする身体だけだ。
呼吸を止める。
じりじり、と煙草が殺虫灯みたいな音を立てた。
その流れを止めても、先端の光は緩やかに進んでいる。
苦笑。そして、思いっきり息を吸って光を加速させた。
煙りを吐く。
煙草を指で叩いた。
それから煙草を足元に落とす。
フィルターの近くまで光は浸食していた。
ボクの足元に、ゾンビみたいに燻ぶっている。
「良いの? そんなところに捨てて……」
「駄目だよ」そう言ってからボクは振り返る。非常階段のステップにウズメは座っていた。ボクが見下ろせる位置だ。勿論、煙りは彼女には届かない。「消したらすぐに拾うよ」
「拾ったらどこに捨てるの?」
ボクは黙ってウズメの横にある缶ビールを見る。
「これ?」缶ビールを手にしてウズメは首を横に傾ける。「まだ空いてないじゃない」
「これから空けるよ」煙草を足で揉み消す。
「やっぱり灰皿は必要だね」缶ビールを差し出してウズメは言った。「なんなら二つ買っとく?」
「二つ?」缶ビールを受け取りながらボクは訊いた。
「そう、二つ。部屋用と外出用」
「必要ないよ」
「どうして?」
「部屋に一つあれば充分だよ。それがあれば外で煙草を吸おうとは思わない」
「あ、そうか」ウズメは舌を出してから、目を三日月にする。「そうだよね。一つあれば充分だよね。そうそう、私の部屋に一つあれば充分なんだ」
病気になった鸚鵡みたいに、同じ言葉を繰り返すウズメをボクはじっと見ていた。彼女は愉しそうだ。きっとボクとの夢を描いているに違いない。夢と言うほどにはそんなに遠くて不定ではないけれど。いずれにしろそれは、ボクにもウズメにも掴むことができないのは明らか。
それでも、彼女はなにごともなく明日を迎えることができるだろう。
それに、ボクだって明日を迎えることだけはできる。
だけど、彼女の傍にいるのはボクじゃない。
地面に落ちている吸殻みたいに、今日と一緒にボクは忘れさられてしまう。
缶ビールの底の沈殿した暗闇に、ボクの死んだ細胞は閉じ込められるのだ。
そしてボクという人格は空に昇っている途中で拡散しているか、地上に落ちて地面に溶けてしまっているだろう。
新しく生まれてくるボクは、ウズメの夢を知らない。
だから結局、二人は夢を掴むことはないのだ。
なにかが弾ける音が聞こえた。
ボクは振り返って音がしたほうを眺めた。
ばちばちと攻撃的な音を響かせている殺虫灯の近くで、一匹の蛾が踊っていた。鱗粉に光を反射させながら。羽を開閉しながら空中に停滞している。
ボクは視線だけを地面に向ける。それはコンクリートの上で蛍光灯に照らされていた。動く様子は窺えなかった。きっと殺虫灯の衝撃に殺されたのかもしれない。
「なにを見ているの?」
「殺虫灯……、蛾が飛んでいる」
しばらくボクとウズメは殺虫灯を眺めていた。二人で缶ビールに口をつけながら、飛んでいる蛾を見ていた。ボクがまた煙草を吸いたくなった頃、そこにもう一匹の蛾が割り込んできた。これでまた二匹だ。ボクがそう思っていると、新しいそいつは、先にいた奴と少しだけじゃれあったあと殺虫灯に飛び込んだ。
スパーク。
ばちばち、と弾ける音。
きらきら、と輝く鱗粉。
ゆらゆら、と落ちる。
ゆらゆら、と地上に堕ちていく……。
「可愛そうに」ウズメは言った。「先に飛んでいたのも教えてくれれば良いのに……」
「教えてくれたら死なずにすんだ?」
ウズメはなにも言わなかった。唇を噛んでボクを上目遣いで見ていた。
そうだ。そんなことは誰にもわからない。
きっと神様だってわからないだろう。
わかっていても止められない。
きっと神様だって……。