episode 1:2
とても粘性が高くて、密度の濃い夜。そんな作りたての水飴みたいな時間を、ボクとウズメは共有した。さっきまで、ボクの上に乗っていたウズメの重さはもう感じられない。ウズメのベッドで横になって、ときどき彼女がシーツを擦る音に、ボクは静かに呼吸を合わせている。
闇と同化しているウズメの髪が、スタンドの光を反射している。まるで月に照らされる水面のような輝きだ。手を差し入れれば、もしかしたら眠っている魚を掬い上げれるかもしれない。彼女の髪にそっと触れる。女の皮膚みたいに柔らかい。魚はいなかった。多分、ボクの気配に気づいて逃げてしまったんだと思う。
ベッドから降りて、窓に向かって歩いた。
オレンジ色の月を視認。それから、地上には斜めに伸びている二つの影。男と女がよたよたと歩きながら縺れ合っていた。恐らく、バーから駐車場に向かっている客なのだろう。ボクは、心の中でピストルを取り出してから二人を撃つ。男は地面に倒れこんだ。女の方は、そんな男を指をさして笑っている。壊れた冷蔵庫のような奇妙な周波数だった。可愛そうに、きっとボクが撃ったからだ。
黒ずんだ雲を眺めている内に、煙草に火をつけたくなった。ウズメの部屋に来てから、ボクは煙草を一度も吸っていない。それは、彼女の部屋に灰皿が見当たらなかったからだ。きっと彼女は、煙草を必要としない人間なのだろう。昼間の彼女のことを考えてみると、それも頷ける。つまり、彼女は火を恐れているわけではなかったのだ。
ボクは窓から離れて、フローリングに落ちているシャツに手を伸ばした。まるで死んだ海月のように皺くちゃになって広がっている。
「どこへ行くの?」シャツを手にしたとき、背中からウズメの声。
「外、煙草が吸いたくなった」振り返ってからボクは応える。ウズメはベッドに腰掛けていた。裸のままで。
「そう……。じゃあ、私も外へ出ようっと」
「ボクだけで良いよ」
「どうして?」
「さっき人を撃ったんだ。男と女。男はまだ倒れているかもしれない。女の方は知らないけれど……」
「どういう意味?」
「危険かもしれない、って意味」
「なぁに、それ? 女がセトに復讐しに来るとか?」
「男がゾンビになって、ボクに復讐するかもしれない」
猫みたいな目でウズメはボクを見据える。
それから、しばらくして彼女は首をすくめてから薄い微笑を浮かばせた。
「気をつかわなくても良いよ」身体を弾ませ、ウズメはくすりと笑った。「別に、煙草嫌いじゃないから」
「でも、吸わない」僕は微笑んだ。
「吸わないけど、嫌いじゃないの」ウズメは言った。熱帯魚みたいに唇を尖らせてボクを睨んでいる。
「オーケー。わかった。じゃあ、一緒に外へ出よう」
ウズメは頷いて、ベッドから腰を浮かせた。彼女の長い髪が皮膚に重なる。
「先に出てようか?」ウズメの背中を見ながらボクは訊ねた。
「どうして?」ウズメは訊き返す。ボクは応えなかった。
「気をつかわなくても良いよ」ウズメは振り返って、またそんなことを言う。ボクが首を竦めると、彼女は自分の身体を一瞥したあと、目を細めてボクを見つめる。「それとも、私の裸が嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ待ってて」
ウズメの言う通りにボクは待った。緩慢な動作で着がえながら、ときどき彼女はボクを見ていた。ボクはただ彼女を眺めているだけで、やっていることといえば、シャツのポケットに手を当てて、銀色の星をもらった兵士みたいに胸に膨らむ四角い感触を確かめているくらいだ。
「明日、買ってくるよ」
「なにを?」
「灰皿だよ。ねぇ、どんなのが良い?」
ボクは逡巡する。
ウズメが明日どんな灰皿を買ってこようが、それはボクにとって意味のないこと。ボクの思考に堆積する彼女の言葉みたいに、曖昧になって、ぼやけて、しだいにその輪郭を失うことになるだろう。
まるで煙草の煙りのように。
ボクみたいに。
ボクと一緒に消えてしまう。
だけど……、ウズメは消えない。ボクの言葉が彼女の耳に残るように、ボクの姿が彼女の瞼の裏に焼きついているように、灰皿もまたその形を保ち続けているに違いなかった。
「アルミニウムのやつ」
「アルミニウム?」
「レストランにあったやつだよ」
「あぁ……、あれ? なんだ普通じゃない」
「いや、冷たいところがセクシーだし、丸っこいのがグラマーだ」
ウズメは手を叩いて笑った。「わかったよ。じゃあ、それにするね」
ボクは無言で頷く。
どうしてアルミニウムの灰皿を選んだのかはわからなかったけれど、でも悪くはない。ウズメの手も触ったら冷たかったし、きっと彼女と同じくらい正直なんじゃないかな。それにどこにでもありそうだから、明日のボクも違和感なくそれを受け入れるかもしれない。これはボクの希望的な観測なのかもしれないけれど。