episode 3:4
時刻は十九時を過ぎていた。その間に灰皿は二回ほど新しいものに取り替えられて、空っぽになったビールは三本に増えた。
吸っていた煙草の銘柄も変わった。ボクの煙草がもう残り僅かだということに気づいて、ニニギが用意してくれたものの一つだ。彼が持ってきた小さな籠には、ハロウィンのために取っておいたお菓子みたいに色とりどりの煙草でいっぱいになっていた。その中にはボクが吸っていた銘柄は見当たらなかった。でも、その煙草が特別好きってわけじゃない。気がついたらシャツのポケットにそいつはあったんだ。しかも、ジーンズのポケットにはオイルライターまで入っている。これで煙草に火を点けないなんて、お化けを歓迎しない老人みたいに気が利かない。だからボクはそいつを黙って口に迎え入れたというわけ。そういうことだから、知らない銘柄に腕を伸ばすのはまったく抵抗がなかった。ボクが選んだ煙草は籠の中にあるやつで一番彩りの良いものだ。味は前に吸っていたやつよりも幾らか辛くなっている。タールとニコチンも多い。でも、こちらの混合比の方がボクの好みだ。
ジュークボックスは夜に溶けた猫みたいにすっかり大人しくなっている。ときどき光る赤いネオンがバーの静けさを密かに呪っているようで、それが少しだけ可笑しかった。
天井にぶら下がっているファンは相変わらずのろのろと回転していた。ずっとこうしていればいつかは天国へ行けると信じているのかもしれない。そんなことをぼんやりと考える。空気に震える低周波の波が心地よかった。
「ラジオでも聴くか?」カウンターの奥でニニギが訊く。
「いや」プラネタリウムにいるみたいに、天井に顎を向けたままでボクは応える。
「そうか。まあ、点けても剣呑な話題しか流れないからな最近は」
勿論、ラジオのことだろう。
「昨日の夜、聴いたよ。殺人事件が起こったんだって?」
「連続殺人」ニニギは低く呟く。「まったく迷惑な話しだ。シリアルキラーだか快楽殺人だか知らんが、好き勝手にやってくれる」
「随分、詳しいね」
「ここはバーだ。厭でも知識や噂は流れてくる。しかし、正直たまらんよ。こちらが厭でもラジオみたいに周波数を弄るわけにはいかないからな、黙って聞くしかない。ままならないもんだ。人間って生き物はな……」
「確かに」ボクは微笑んだ。
「お前、この街の住人じゃないだろ?」
「どうしてそんなことを訊く?」ボクは訊き返す。もしかしたらこの街に住んでいた記憶がないのかもしれないよ、と否定の言葉は口にせず。
「ここに来る連中とは違って、お前には違和感を覚えない。他人事だとしてもこの街で起こったことだからな、そ知らぬ振りをして存外内心でぴりぴりしているもんだ。視線とか仕草とかでそれがわかる。微妙なものだけどな」
胸に停滞する熱までは感知できないみたいだ。だけど、ボクがこの街の住人にしろそうではないにしろ、どちらにせよなんら変わりはない。だってボクは昨日生まれてきたばかりなんだ。情報を蓄積させるだけで精一杯。それをどう処理すればいいのか、ボクにはわからない。つまり、感情が未発達な状態であるか、あるいは情報を信号に変換できない故障した状態だといえる。だからこの街に人死にがあっても、ボクにはあまり影響がない。まるで壁にペイントされた落書きを眺めているみたいに、それは混沌としていて、掴み所のないものなんだ。
「ドライなだけじゃないかな」ボクはそう嘯いた。
ニニギは短い鼻息を漏らして。それからあとはなにも喋らなかった。
ボクは天井を眺めるのを止めて、グラスを手に取る。
胸に停滞している熱は、まだ冷めない。
ボクの胸の痣は一体誰のものだろうかと考える。
勿論、フィジカルにはボク。
でも、メンタルでは、ボクのものではないのは確か。
そいつはあるキーワードに反応しているのだ。
それはボクには評価できないもの。
混沌として、掴み所のないもの。
それが、つまり……、死か。
まだ生きているの?
そんな女の言葉を、ボクは思い出す。
それから、残っているビールを飲み干した。
店内に鈴の音。
グラスに反射する影が二つ。
ボクは黙ってその影を眺める。
髪の長い少女と、後ろで髪を結んでいる女だった。