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episode 1:1

 その日の夜、ボクはウズメの部屋に招かれた。

 彼女のアパートは煉瓦を敷き詰めた古い建物で、ひび割れているコンクリートが剥き出しになっている部分が数ヶ所あった。きっと、酔っ払いがチョコレートだと勘違いして持ち帰ったに違いない。一階はテナントになっていて、そこはバーになっていた。揮発したアルコールの薫りをアパート一帯に充満させている。そんな時間の経過を感じさせる、古めかしいバーだ。

 そのバーの裏側にある駐車場に車を止めて、ボクはウズメに手を引かれて非常階段を昇った。どうしてエレベーターを使わないのか、と彼女に訊くと、エレベーターを使うと早く着いてしまうから、と彼女は言う。

 要するに、できるだけ彼女は、ボクと長く手を繋いでいたいのだ。それが間違った解釈ではないことを、手のひらに伝播する体温が教えてくれる。ボクの手を握る彼女の手のひらは冷たい。きっと、彼女は正直な人間なのだと思う。

「セトの手、温かいね」

「嘘つきの手は皆、温かいんだ」

「なぁに、それ? 可笑しい……」

 五階の踊り場で立ち止まって、そこから通路へ這入った。彼女の部屋は通路の端っこだ。ドアに取りつけられているパネルに彼女は触れ、ナンバーを入力する。パスワードを認識した電子音が発せられたあと、ロックが外される音がかちっと鳴った。

 部屋の中は、ホイップしたクリームの薫りに包まれていた。攻撃的な香水の薫りではないのは確か。多分、それは彼女自身の薫りだったのかもしれない。

 その残留する薫りに当てられたのか、彼女はリビングに這入るなりバッグを床へ放り投げて、ボクに抱きついてきた。

 ウズメの唇が、ボクに漸近する。

 彼女の呼吸が皮膚に触れた。

 それから接触。

 そして停滞。

 彼女の唇は、少しだけ、ボクの唇から逸れて当てられていた。

 しばらく逡巡。

 背中に張りついていた指が食い込む。

 呼吸を止めて、首をスライドする。

 彼女の感触を認識してから、目を瞑った。

「大好きだよ」唇を離してから、ウズメが言った。

 ボクは黙っていた。

 ウズメは苦笑を浮かべる

「セトは嘘つきなんかじゃない」。ボクの頬に、ウズメの冷たい手のひらが触れた。「それでも、私、君のことが好きなの」

「ウズメが好きになったボクは、もうここにはいないよ」

「どこにいったの?」

「多分、天国」

「嘘。だってセトは……、ここにいるじゃない」

「記憶を失うことは、死んでしまうのと同義だよ。だから、今のボクは、まったく別の、人格なんだ」

 ウズメは俯いて、それからゆっくりと顔を上げる。表情は読み取れなかったけれど、彼女の沈黙がボクのことを理解して、しかもそれを受け入れていたのは明らかだった。

 それでも、ウズメの気持ちは変わらないのだろう。いつからかはわからないけれど、きっと彼女はその気持ちをオイルみたいにボクへ流し込んできたのだ。だけど、ボクは壊れていて、そんなことをしても元には戻らない。戻らないのに、彼女はそれをずっと続けてきたのだと思う。

 一体、なにがウズメをそうさせているのか、ボクには理解できない。もし逆の立場だったら、ボクなんかすぐに諦めてしまう。何故だろう。きっと彼女の中である種の意地のようものがライオンみたいな誇りで蠕動しているのかもしれない。だから、彼女は諦めきれずにこんなことをしてるんじゃないかな。そう考えると、少しだけ理解はできる。淋しい気はするけれど。

 ボクは心の中で苦笑する。

 そんな感情がボクにあったのが可笑しかったからだ。

 淋しい、だなんて、すぐに消えてしまうボクには必要のない感情。

 そんなことを思ってしまうなんて、まったくどうかしている。香水の人工的な薫りみたいに、ウズメのセンチメンタルがボクを攻撃しているせいなのかもしれない。だからあんなくだらない思考を浮かべてしまったのだ。

 勿論、意地なんかでボクと関わっているのではないことは、わかっている。ウズメは、そんなに複雑な人間じゃない。潔いくらいに実直でシンプルな人間だ。そう、故障しているボクなんかとは違って。

 ボクは、見つめているウズメの瞼に手を当て、それをそっと閉じた。彼女の唇の位置を記憶してから、ボクも目を閉じる。

 呼吸を止めて、ウズメの唇にボクの唇を重ねる。

 長いキス、そのあと短いキスを一回した。

「好きでいて、良いでしょ?」目を三日月にしてウズメは言った。

「構わないよ」ボクは応える。

 それ以上の言葉は、喉の奥に隠しておいた。だって、ウズメはその言葉を予測してたと思うし、それを知った上で、さっきボクに見せた笑顔を保持し続けているのだ。

 だから、言葉を続けてもしかたがない。

 ウズメの哀しむ姿は見れないけれど、妄想するくらいならボクだってできる。それでも彼女は、ボクを望んでいる。お互いにとって良くない未来を、彼女は受け入れようとしている。

 そんな彼女に、もう言葉はいらない。

 違うか?

 いや、多分これもボクの妄想なのかもしれない。

 でも……、

 明日になって、ウズメがキスを求めてきても、違う場所にボクがキスをするのは、きっと妄想なんかじゃない。

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