episode 3:3
ニニギはボクを見据えたまま黙って煙草をくわえていた。赤い光がじりじりと煙草を消耗させていて、そのまま放っておいたらフィルターまで侵食しそうだ。灰は劣化したコンクリートの柱のようにひび割れて傾いている。ボクはニニギから視線を逸らし灰皿を見る。そのとき、ふと唇が軽くなったような気がした。と、同時に煙たさに思わず目蓋を閉じる。それからゆっくりと目蓋を開く。アメーバみたいに目の前に白い煙がふわふらと広がっている。そういえばボクも煙草を吸っていたっけ、と再認識。唇からフィルターを剥がして、灰皿に腕を伸ばした。
灰皿は酷い有様だった。灰皿の中身は不発弾みたいにあちらこちらに吸殻が散らばっいて、そこから焦げついた煙りの匂いが立ち込めていた。アルミニウムの縁は灰で汚されていて、テーブルまで灰色に染められている。思わず煙草を灰皿に落とすのを躊躇ってしまう。爆弾を抱えた戦闘機のパイロットにでもなった気分だった。これが仕事じゃなきゃ、とてもやってられない感じ。
音楽はブルースに変わっていた。
「前に聴いた気がするよ」
「なんだって?」ニニギは目を丸くする。
「このブルース」ジュークボックスを一瞥してから、ボクはニニギを見る。煙草は指に挟めたまま。なにが始末に終えないかって、吸うのを諦めた煙草ほど始末に終えないものはない。「うん、でも、まあ気のせいだとは思うんだけれど」
ニニギは唇を少しだけ上げて、それから口にくわえていた煙草を灰皿に落とした。グラスを手に取り灰皿へと傾ける。灰皿にビールが注がれて、たちまち煙りは消え去ってしまった。
「取り換えてくる」そう言って、ニニギはカウンターへと歩いていく。「まあ、単なる噂だ。忘れてくれ」
以前のボクだったなら、そんな心配いらないよ。そう心の中でニニギの背中に囁いて、ボクはもう一度ジュークボックスの方角へ首を向ける。ニニギの言葉を聞いたとき、一瞬だけ音が止まった気がする。ロックからブルースに変わったのに気づかなかったからだ。深海ピラニア。まったく聞き覚えのない単語だ。もっとも今のボクにとってはどんな単語も、オードブルみたいに新鮮でその後の興味をそそらせるものになってしまうのだけれど。それにしたって、この後味の悪さはなんだろう。もしかしたら、今のボクより前のボクが知っている単語なのかもしれない。それがどういうわけか、ボクの思考か細胞に残留したままで反応し作用しているのだ。そうじゃないとこの気持ち悪さは理解できない。
新しい灰皿を手にして、ニニギがテーブルに近づいてくる。
テーブルを拭いてから、そこに灰皿を載せた。
ボクは吸殻を灰皿に落としてから、煙草を取り出して火を点ける。煙りと一緒に思考に停滞するニニギの言葉を吐き出す。これ以上関わらない方が良い。熱を帯びた胸の痣がそんなことを教えてくれているような気がする。勿論、どうしてそんな気がしたのかは、ボクにはわからない。
「ビールは?」ボクのグラスを顎で示して、ニニギは言った。
「胸が熱い」ボクは首を横に振ってニニギに応えた。
「酔ったのか?」
「酔っていないよ。酔うほど飲んではいないつもり」
「良く聞く台詞だ」唇を斜めにしてニニギは首を竦める。「良く聞く台詞ほど、信じられないものはない」
「このブルースよりも?」
「そう。このブルースよりも」ニニギは両腕を広げて天井を仰いだ。大げさなジェスチャーだ。もしかしたら神様に対するセレモニーなのかもしれない。「水、飲むか?」
ボクはニニギの提案に首肯した。
きっと、笑っていなかったと思う。