episode 3:2
カウンター越しに店内を見渡した。勿論、客はひとりもいない。壁はマーマレードを塗った食パンみたいに黄色く変色していて、ここが随分昔からある場所だということがわかった。壁だけじゃないここには揮発したアルコールの匂いと煙草の匂いが染みついている。天井にあるファンが戦闘機のような獰猛さで空気を攪拌していたけれど、その程度では隠し切れない魔力がここにはあった。ちょっとした圧力をボクは覚えた。
「好きなところに座れよ」ニニギは首でカウンターの向こう側を示す。まるで、ここはお前の場所じゃない、というふうに。「それとも、お前がホストをやるか?」
ボクは無言で首を振ってから、ニニギのいる作業場から出る。そのとき、右手の奥にジュークボックスが置かれているのが見えた。
「なかなか、グラマーだろ?」ニニギは目を細めて、口を斜めにする。「それに、良い声で鳴く。試してみるか?」
ボクが首肯すると、ニニギは鼻息を漏らしてコインを投げる。そのコインを受け取りジュークボックスへと歩いていく。ときどき、フローリングからぎしぎしという悲鳴。
ジュークボックスは棺桶みたいな黒色でコーティングされていた。表面は金色で縁取られている。相当使い込まれたものらしい。良く見ると黒色の部分には細かな傷があった。コインを投入する場所はすっかりメッキが剥がれていて、鉛色の金属が剥き出しになっている。
コインを投入してジュークボックスを操作する。しばらくすると、ロックが流れてきた。聞いたことのない曲だ。もっとも、ボクにとっては一度聴いたことのある曲も、結局はそこに行き着くのだけれど。
ジュークボックスから離れてカウンターの席へ向かった。ニニギは煙草を吸いながらボクを待っていた。ボクが椅子に腰掛けるのを確認してから彼は冷蔵庫に屈み込む。そこからビールを一本取り出し、棚にあるグラスを手に取る。彼が持っているグラスは二つだ。勿論、ボクと彼以外には誰もいない。
「少しくらいなら大目に見てくれるさ」ニニギはグラスにビールを注いだ。
「誰に?」ボクは訊ねる。
ニニギは両腕を広げて天井を仰いだ。ニニギが言ったのは神様だろうか? もしそうだとしたら、どんなことでも彼なら大目に見てくれるから大丈夫。例えワインを飲んだって、彼ならばきっとなにも咎めはしない。
ビールは良く冷えていた。咽が渇いていたので、ボクはそれを一気にあおった。本当は水のほうが良かったけれどここはバーだ。バーでしかもホストに出された酒を飲まないゲストだなんて、鈴をつけた猫みたいに気が利かない。ニニギから二杯目のビールを注いでもらい、ボクは煙草に火を点けた。ニニギも黙って煙草を口にくわえる。
煙りはファンに届く前に消えてしまった。プロペラからは低周波の唸り声が聞こえてくる。灰皿はアルミニウムの簡素な製品だ。
「ウズメは?」
ニニギの声に、ボクは顔を上げる。ちょうどウズメのことを考えていたからだ。
「時間まで部屋でゆっくりしているって。そのときにサクヤも一緒に来るはずだよ」
「ウズメと一緒なのか? 喋りつかれてそのまま寝ちまえば良いんだがな」
「彼女がここの仕事を手伝うのは、なにか不都合でも?」
「ここはバーで、あいつは子供だ」ニニギは煙草を灰皿に押しつける。
「確かに」ボクは首肯する。「だったら、どうして彼女にここの手伝いを?」
「あいつがそれを望んでいるからさ」
「煙草が嫌いなのに?」
「そうだ。酒はどうだか知らないがな……、まあ、いずれにしろあいつにとってここは最適な場所じゃない」
「それでもサクヤは望んでいる?」
「そうだ」
「どうして?」
ニニギは眉間に皺を寄せて難しい表情を作る。わからない、というより、応えあぐねているといったそんな表情だった。ボクは黙って彼の言葉を待った。どうしてサクヤがここの手伝いをする理由を知りたかったのかは、ボクには良くわからない。
しばらく店内にはジュークボックスから流れるロックだけが響いていた。ときどき、音が飛んでいるのはファンのプロペラに捲き込まれているせいだろうか。
「お前、聞いたことがあるか?」ニニギはボクに訊ねる。突然だったので反応が遅れた。
「深海ピラニア」黙っていたボクを見据えながらニニギは口を開く。「それを探しているんだ……、あいつは。銀色の人喰い魚をな……」
ファンから漏れる低い周波数が鼓膜に残留している。
バーに流れていたロックは停止していた。