episode 3:1
アスファルトから一段上のテラスに脚を載せる。
背の高い老人のように木製の扉がボクを見下ろしている。金属の蝶番にはプラスチックのプレートが掛かっていて、そこに並んでいる文字列がこの場所を訪れるのが早いことを教えてくれていた。ボクはウズメの皮膚に触れるように、そっと扉に手のひらを当てる。ざらざらとしていて心地が良かった。それからしばらくしてその扉を軽くノックする。
空は、オレンジを磨り潰したみたいな色。扉の近くにある殺虫機は機能を停止したまま。だけどもう少し経ったら、そいつもいつものように仕事をこなすことになるだろう。
鍵を外す音が聴こえたので、ボクは辺りを観察するのを止めて扉へと視線を戻した。
「悪いが裏へ回ってくれないか?」扉の隙間から男が顔を覗かせる。「見ての通り、今はやっていない」
ボクは片手を上げて男に応えた。
裏の駐車場へ回ると、男が立っている姿を視認した。白髪を短く刈り上げた背の高い男だった。男の隣には備えつけの灰皿が設置されている。男はボクに気づくと、煙草を灰皿に押しつけてから片手を上げる。
ボクも片手を上げて男に近づく。
「ニニギ」口を斜めにしてから男は言った。「サクヤの父親だ」
「アマカセ・セト」
「そうか。セト、お前煙草は?」新しい煙草を口にくわえて、ニニギはボクを一瞥する。
ジーンズのポケットからオイルライターを取り出して彼に見せる。
「化粧が剥がれているな」ニニギは口をますます斜めにしてライターを見る。ボクのライターにコーティングされている金色のメッキは所々剥がれている。彼はそれを見てジョークを言っているのだろう。「しかし、良い伴侶だ」
「それに気も利く」ニニギの煙草にボクは火を点けた。
「稀有なこともあるもんだな」煙りを吐き出して、ニニギはボクを見る。
「どういうこと?」
「あいつ、いや……、サクヤは煙草が嫌いなんだ」
ボクが煙草に火を点けようとすると、ニニギは片手でボクを制止した。「こいつも、案外気が利くほうでね」
ボクは黙ってニニギから火を借りる。深呼吸、それから煙りを肺から逃がす。
「彼女の煙草嫌いとボクに一体なんの関係が?」煙草を灰皿で叩いてからニニギに訊ねる。
ニニギは一瞬目を大きく見開いてから、片目を細めてボクを見据えた。
「面白い男だ」にやりと笑って、ニニギは煙草を灰皿へ押しつける。「まあ、這入れよ」
金属の扉を押し開いて、ニニギはボクを中へ招き入れる。
揮発したアルコールの匂いが鼻をついた。
微かに煙草の匂いもするのもわかる。
吸いかけの煙草を灰皿へと投げ入れた。ジュッという、煙草の火が水に触れる音がした。殺虫機を見上げる。殺虫機の稼動する鈍い周波数が響いていた。そいつはお前の獲物じゃないさ、とボクはそっと心で殺虫機に囁いた。