episode 2:8
気がつくとボクはひとり。
どこか知らない場所で煙草を吸っている。
辺りは真っ暗で、まるで深海に潜んでいるみたいだった。
唯一の光といえば、口にくわえている煙草の光くらい。他にはなにもない。煙草はアンコウみたいにぼんやりと淡い光を放っていたけれど、それに惹かれて近づいてくる生物の気配はなかった。
どうしてだろう?
ここにはボク以外に生物がいないから?
それとも、ボクが危険であることを既に知っている?
他にも色々な考えが浮かんだけれど、結局答えは見つからない。ボクは考えるのを止めて、煙草を地面に擦りつけて、新しい煙草を箱から一本取り出す。オイルライターの蓋を開く。フリントとフリントホイールが擦れ合う摩擦音。煙草に火を点ける。だけど、オイルライターの炎は空中に停滞させたまま、闇の中で蠢く炎をぼんやりと眺める。揮発したオイルの匂いがしないのが不思議だと思った。
しばらくボクはオイルライターの蓋を開いていたけれど、やがてそれに飽きて蓋を閉めて炎を消した。
煙草の先端で淡い光が明滅を繰り返している。近づいてくる生物はいない。煙ですらボクから離れたがっているみたい。ときどき煙草の光に反射する煙りは、海月みたいにゆらゆらと上昇していた。
「ひとりでいると淋しい?」ふと、そんな女の声。どこかで聞いたことのある声だった。
「わからないよ」ボクは応える。煙草の先端をぼんやり眺めたままで。辺りには誰もいないからだ。気配すら感じられない。
「そう」女はそう言ったきり、あとはなにも言わなかった。
「まだ、生きているの?」しばらくして、別の女の声。
「ああ、生きているよ。まだ、ボクは生きている」ボクは応えた。「でも、明日になるとわからないな」
女からは返事がなかった。
「どうしてわからないの?」また別の女の声。彼女の質問を理解するのに数秒掛かった。
「明日になるとボクは死んでいるかもしれない。本当は、それが自然なんだ。いつだってボクはそうやってやり過ごしてきた」
「不自然だよ」女は言った。「普通じゃない」
「そうだよ」ボクはくすりと笑ってから女に応える。「ボクは、壊れているんだ」
「いつから、いつから壊れているの?」
いつから?
いつからだろうか……、そんなこと考えたこともない。
ボクが応えあぐねていると、ふと気配を感じた。
ボクの返事をせかす女の声はしない。
彼女も、他の女と同じように消えてしまったのだろう。
ボクはおもむろに気配がする方へ視線を動かす。
そこには誰もいない。
きらきらと光るなにかがそこにあるだけ。
魚みたいなシルエットだった。
だけど、動いている気配はまったくない。
金属みたいにじっと固まっている。
辺りは真っ暗でそれを視認できないはずなのに、確かな形でそれは存在していた。
鋭く光る銀色が、ボクに殺意があることを主張している。
だけど、身動きはとれない。
不思議と恐怖は覚えなかった。
ボクがそれを思いだそうとしていたからだ。
ボクは確かにそれを知っていた。
ああ……、
そうだ思い出した。
そいつはピラニアだ。
深海に漂う人喰い魚。
確かにボクはそいつを見たんだ。
そうして、ボクはその夢から醒めた。
ベッドの上で煙草に火を点けようとした。だけど、ここがウズメの部屋であることをボクは認識する。軽く舌打ち。煙草を口にくわえたままでベッドから降りる。時間は正午を少し過ぎたくらい。ウズメはいなかった。
寝室から出て廊下を歩いているときに電話が鳴った。
リビングに這入って受話器を取る。
「はい」
「あれ? ウズメの声じゃない……」電話の相手はコノハナだった。「もしかして、アマカセ・セトなの?」
「そうだよ。ボクだよ」
「ウズメは?」
「仕事に出ている」
「仕事?」
「そう、仕事」
「相変わらず気まぐれにやっているのね彼女、まるで猫みたいだわ」
「彼女に用事があるなら、あとで伝えておくけれど」
「彼女だって」コノハナのクスリと笑う声。「ねぇ、どこの旦那さまなの?」
「用事がないのなら切るけれど」
「気を悪くしたなら謝るわ。ウズメに伝えておいて、今夜お願いしたいって」
「お願い? なにを?」
「セト、知らないの?」コノハナはなにかを逡巡している様子だった。電話の向こうでぼそぼそとなにかを囁いている。「ねえ、セト。今夜、あなたもお店に来ない?」
「それは構わないけれど……、どうして?」
「ウズメに訊けばわかるわ。それじゃあ、セト。今夜、楽しみにしているわね」
そう言って、コノハナは電話を切った。
受話器を置いてからソファに座る。
右手をジーンズのポケットに仕舞い込んだ。
ウズメが帰ってくるまでは、まだ時間がある。
コノハナの言葉の意味についてか、ボクが見た夢の意味について考えようか、どちらにしようかとボクは迷った。だけど、いずれにしろ明確な答えは出そうにないだろう。
しばらくソファの上でぼんやりと過ごした。
このままなにも考えずに退屈を凌ぐのも悪くないと思う。
ボクの右手は大人しい。
だったら、ボクも同じようにするのも悪くはない。