episode 2:7
「これで満足?」
コノハナはさらにボクに近づいて、くすりと笑った。ジョークのつもりだったのだろうか? 笑ったあとの彼女からはなにも読み取ることはできなかった。人形みたいに澄ました表情で、真っ直ぐ前を見据えている。
「右手が踊ってるわ」ボクを一瞥してコノハナは言った。「ストレスを覚えているみたいだけれど……、それって、私のせい?」
「いや、違うよ。いつもこんな感じ。きっと淋しい奴なんだと思う」
「セトが?」
「いや、ボクの右手が」
お腹に両手を当てて、コノハナは小さく笑いだした。ボクは彼女に首を竦めてみせる。少しだけ、親しみを込めた表情を作れたと思う。それからしばらくしてコノハナは、「吸っても良いわよ」と言ってボクを一瞥した。正確にはボクの胸の辺り。コノハナの提案に対して、ボクは首を横に振るだけで彼女に応える。
唇を尖らせてコノハナはボクを睨む。だけど、怒っているふうには感じられない。少なくともなにかを取り繕うとしている表情だとわかる。多分、彼女に気をつかわせてしまったのだろう。ボクは睨んでいる彼女に微笑み返してから、意識して右手を大人しくさせることに集中した。意識するだなんて、まるで自分の身体じゃないみたいじゃないか。
ボクが、どうやったら右手を大人しくさせることができるか、と考えているとき、コノハナは首だけをボクに近づけてきた。当たり前だけれど、彼女からは煙草の匂いはしなかった。
「セト自身は淋しくないの?」首を横に傾けてから、コノハナはボクに訊ねる。
小首を傾げて見つめているコノハナをボクは黙って見る。そんなことを考えたことがなかったので、イエスともノーとも言えない。ボクが黙っていると彼女は突然微笑みを浮かべて小さく頷いた。彼女の中でなんらかの処理が施されたらしい。それが間違った評価であることが直ぐにわかる。だけどボクにはそれを、否定することも肯定することもできない。データがないのだからそれは当然だ。
「淋しくない人間が、胸に傷痕を残さないものね」
コノハナの人差し指がボクのシャツに進入した。
親指を絡めて器用にボタンを外す。
皮膚にマーキングされた痣が露になった。
コノハナはそこに人差し指を当ててから、それをしばらく停滞させる。
コノハナの指も冷たかった。
もしかしたら、女の指は全てそうなのかもしれない。ふと、ボクはそんなことを考える。
冷たい指先が痣の上を這う。
まるで蝸牛みたいな鈍重さだった。
なぜかその行動に、ボクは既知感を覚えた。
「痛くはないの?」指を離して、コノハナはボクに訊ねる。既知感は直ぐに消失した。
「痛みはないよ」肩を竦めて、ボクは彼女に応えた。「引っ掻かれた傷じゃないからね」
コノハナは片眉を顰めただけで、あとはなにも言わなかった。
ボクも痣の件に関してはこれ以上補足する気がなかった。ボクがどう言ったところで、コノハナの中ではなにも変わらないと判断したからだ。
「そろそろ私は戻るけれど……、あなたはどうするの?」そう言って、コノハナはステップから立ち上がる。
「ボクももう戻るよ」
「そう。また会えると良いわね」
「きっと会えるよ」
「それは、予言?」
ボクはコノハナに微笑んだ。
コノハナもボクに微笑み返す。
ボクがステップから立ち上がろうとしたとき、上空から物音が聴こえた。
金属を叩く音だ。
きっと誰かが天国の扉を叩いてるのかもしれない。
上空を見上げる。
ウズメが地上を見下ろしていた。
でも、天国よりは遥かに近い。
ここが地上であることを、ボクは思い出す。
「アマノ・ウズメ!」コノハナがウズメの名前を呼ぶ。「あなたも外の空気を吸いにきたの?」
「違うよ! そっちの彼に用事があるから出てきたの!」ウズメはにっこりと微笑んだ。「サクヤは休憩しているの?」
「そうよ。相変わらずあそこは空気が悪いから!」コノハナはボクを一瞥して、それからまたウズメを見上げる。「あなたが起因していたのね!」
「え、なんのこと?」
「なんでもない!」
「そう……、まあ、良いか。それよりもサクヤ! あたなたも一緒にしない? 朝ごはんまだ食べていないんでしょう?」
「遠慮しとくわ!」コノハナは肩を竦めて、ボクに呟く。「そこまで野暮じゃないわよ、私」
ボクにさよならの言葉を言ってから、コノハナは走り去った。入れ替わりにウズメが階段から降りてくる。
「バーの娘よ」ウズメが言った。「お店の手伝いをしているの。良い娘でしょ?」
「まだ二回しか会ってないから」
「相変わらず正直なんだ、セトは」ウズメがくすりと笑う。「コーヒー冷めちゃった。新しいの淹れるけれど、まだここにいる?」
「いや、一緒に戻るよ」
ボクは右手を気にした。
ボクの右手は、ジーンズのポケットの中にいる。
だから、ボクの右手は大人しい。
だけど今の右手が、淋しいのか淋しくないのかは、ボクにはわからない。