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episode 2:5

「コーヒーのおかわりは?」

「もう充分」

 ウズメは頷いたあと、コーヒーカップをトレイに載せた。ボクは腕を伸ばしてシャツのポケットから煙草の箱を掴んだ。だけど直ぐに思い直してテーブルの下に手を引っ込める。ボクの右手は太ももにそっと触れていた。きっと淋しい右手に違いない。常になにかに触れていないと落ち着かないのだろう。苦笑しながらボクはそんな評価をする。

 トレイを持ってウズメはカウンターへ向かった。僕もトレイに載せきれなかった食器を持ってカウンターへと運ぶ。

 ウズメは薄く微笑んで、ボクから食器を受け取る。シンクに水が落ちる音。かちかちと、音を立てながら食器が擦れ合っている。作業をしている彼女の背中を、ボクはぼんやりと眺めていた。

「リビングでテレビでも見ていると良いよ」ウズメの背中越しに、くすりと笑い声が漏れる。「それよりも外の方が落ち着くのかな?」

「誰が?」

「君の右手が」

 ボクは短く鼻息を漏らした。「ちょっと出てくるよ」

 キッチンから出ようとしたら、ウズメに肩を掴まれた。痛みはない。でも、脚を止めるには充分な圧力。振り返ると彼女の顔がボクに漸近していた。上目遣いにボクを見ている。肩を掴んでいた彼女の右手はボクの頬に当てられていた。誰ものだって、その右手は淋しいのかもしれない。

「もう少しだけ待っててね」瞼を閉じてウズメは唇を押し付ける。

「なにを?」唇を離してからボクは尋ねた。

 ウズメは目を開けて、それからポケットにある煙草の箱を軽く指で叩く。

「忘れたの?」

「いや、忘れてないよ」

「シンクみたいにピカピカのやつを買ってくるから」

 ボクは思わず吹き出した。それはステンレスだよ、とは口にせず。

 もう一度ボクにキスをしてから、ウズメは作業に戻った。機嫌が良いのか、彼女はハミングをしながら食器を洗っている。彼女の唄に合わせて踊っている黒い尾長鳥をしばらく見つめたあと、ボクはキッチンを後にした。

 通路を歩いて非常階段の踊り場に出る。さっき出たときよりも外は眩しかった。空は限りなくブルーに近い。付け合わせの野菜みたいな雲が遠慮がちに浮かんでいる程度。太陽は目玉焼きを連想させるのにはうってつけの形。長閑な景色だ。そのまま空を見上げながら煙草を吸うのも悪くはない。そう思って煙草を取り出そうとしたとき、ふと地上で人影を視認した。どうやらステップに座り込んでいるようだった。あとは良くわからない。空を見上げたばかりで、まだ目が地上に慣れていない。ボクは目を瞑ってしばらく待った。

 目が慣れてきたときには、ボクの気配に気づいたようで彼女は立ってボクを見上げていた。コノハナ・サクヤだ。

「アマカセ・セト!」額に手を翳したまま、コノハナはボクの名前を呼ぶ。「蛾がいなくなったの! どうしてだと思う?」

 ボクは煙草を取り出す動作をしながら言葉を探した。

「地面に溶けちゃったのかしら?」ボクの言葉を待たずに、コノハナは首を傾げてそんなことを言う。なるほど。それは考えもしなかった。斬新な発想かもしれない。

 口に煙草をくわえてからボクは階段を下りた。コノハナは眩しそうに目を細めてボクを眺めていた。

「私が言った通りね」コノハナはにっこりと微笑んで白い歯を見せた。「また会えたでしょ?」

「そうだね。ところで、君はこのアパートの住人?」

 コノハナは首肯した。それから彼女は片手をステップの方へ差し出して微かに微笑む。座りなさい、というジェスチャーらしい。彼女の指示に従ってステップに腰を下ろす。ボクに続いて彼女もスカートを押さえながらステップに座った。ボクよりも一段高い位置だ。

 煙草に火を点けるかどうかしばらく逡巡する。だけど、結局ボクは吸わないことに決めて、口にくわえていた煙草を箱に戻そうとした。

「吸っても平気よ」と、そのとき後ろから声が掛かった。

 ボクは振り返る。

「汚いものはどれも地面に溶けるの。だから、煙草の煙りも私のところまで昇ってこれないと思うの。きっと神様は綺麗なもの以外嫌いなんだわ」

「死んでいた蛾は汚い?」ボクは訊ねた。

「汚いっていうより怖いわね」顔を顰めてコノハナは言った。「自分の死体を連想してしまいそうで厭だわ」

「そう」ボクは頷く。「話は変わるけど、神様は人間のことを愛しているらしいよ」

「そうみたいね。でも、言葉は全部嘘だってパパは言ってた」

「どうしてそんなことを?」ボクは訊ねた。

「人間が地上にいることに原因があるんじゃないかしら?」コノハナは目を細めてボクを見据える。それから彼女は一瞬だけ空を見上げて、またボクに視線を戻した。今から秘密を打ち明ける、そんな悪戯っぽい笑顔を彼女はボクに見せていた。「だって、ほら、言葉って人間が作ったものでしょう?」

「なるほど」ボクは煙草に火を点ける。「それに言葉は見えない。形になるまえに直ぐ空気に溶けてしまうから」

「それは斬新な発想だわ」

「ありがとう」そうコノハナに言って、ボクは煙りを少しだけ吐き出した。

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