episode 2:4
「ある日、自分が魔法を使えることに気づいて、その魔法が人を幸せにできるものだったとしたら……、君ならどうする?」
唐突に、なんの前触れもなく、ウズメはボクに訊いてきた。あまりに突然だったものだから彼女の言葉を理解するのに少しだけ時間が掛かった。思考にはワインの澱みたいにさっきの話題が底に残っている。さっきまでボク達は昨夜の蛾のことについて話していたはずだった。コノハナ・サクヤという少女がアパートの中に消えたあと、ボクはもう一度、殺虫灯の真下のコンクリートを見た。死んでいた蛾は一匹だけだった。ボクが振り落としたやつだ。本当なら死体はもっとあるはず。帯電した灯りに寄ってきたのはなにも一匹だけじゃない。そのことを彼女に話したら、誰かが片付けたんだよきっと、と彼女は言った。ボクは蟻が巣へ運んだものだと思っていたけれど。だけど、ボクにしろ彼女にしろ現実的な答えであることには違いがない。そこに魔法だなんて幻想じみた言葉を想起するキーワードは、皆無だ。
ボクをやんわりと見据えているウズメを眺めている内に、そういえば食事中だったな、と思い当たる。さっきまで、小鳥みたいにサラダを突いていた彼女のフォークは空中で停滞していた。今朝はステンレス製のものを使っていた。キッチンの照明と窓から漏れている明かりがフォークをきらきらと輝かせていて、ボクの淀んだ思考を洗い流しているような気がする。つまり、フォークが宗教的なまでにセクシーだってことをボクは言いたいわけ。
「ごめん」ボクはフォークを小皿に載せて、手のひらをウズメに見せる。「食事中にするような話じゃなかったね」
「え? なんのこと?」ウズメは眉を顰めてから首を傾げる。
「なんでもないよ」ボクは微笑んでからコーヒーカップに手を伸ばした。「それで、なんだっけ?」
「もう」唇を尖らせて、ウズメはボクを睨んだ。
コーヒーを飲みながら、ボクは再びウズメの話を聞く。コーヒーは相変わらず苦かった。だけど、悪くはない。そのおかげで思考はしだいにクリアになっているし、ウズメのファンタジーにつき合う余裕もできてきた。
「多分、使わないと思う」カップをテーブルに置いてから、ボクは言った。
「どうして?」
「自分が認識している幸せが他人に適用するとは限らない。自分がそれを幸せなものだと思い込んでいるだけなのかもしれない」
「あぁ……」短く息を漏らして、ウズメはフォークを小皿に載せる。それからテーブルに身を乗り出して、片肘をついてからそこに顎を載せた。「他人にとってその魔法は、幸せを与える魔法じゃないかもしれないってこと?」
「そう。例えば……、ウズメはチョコレートが好きで好きでしかたがない」
「そうでもないよ」
「例えばの話だよ」ボクは微笑む。「その気持ちを君は他人と共有したくなるんだ。それで、ウズメの目の前にボクがいる。だけど、ボクはチョコレートが嫌いで嫌いでしかたがない」
「そんなに嫌いなの?」ウズメは微笑んだ。
「そうでもないよ」ボクは笑って応えた。「それで……、ウズメはボクがチョコレートが嫌いなのを知らないんだ。そうだとして、君ならボクにチョコレートをあげるか?」
「あげると思うよ。だって、私が好きなものなら他の人も好きなんじゃないかな、って思うもの」
「じゃあ、ボクがチョコレートが嫌いなのを君が知っていたら?」
ウズメは応えなかった。頬杖をついたまま、黙ってフォークでサラダを弄っている。
「幸せってのは不定なんだよ」ボクは言った。「それが不定である以上、ボクはその魔法は使えない。ボクは臆病なんだ。仮に、もしそれが普遍的なものだとしたら、ボクなんかじゃなくて。とっくに神様が広めていると思うよ」
ボクは肩を竦めてから、トーストに手を伸ばした。ナイフでバターを掬う。
「セトは迷惑なのかな?」頬杖をついて、俯いたまま、ウズメは言った。
「なにが迷惑なの?」ボクは訊き返した。だけど、ウズメは応えない。
ナイフをトーストに当てる。
「私と一緒にいて、君は、幸せじゃない?」
「まだわからない」正直な感想だった。「でも、魔法を掛けられるのはまんざらでもない」
「どういうこと?」ウズメはボクを見据えて首を傾げる。
「幸せな人間を見るのはまんざらでもないってこと。ボクがチョコレートが嫌いでも、君がそれで幸せになるのなら、ボクはあえてそのチョコレートを貰うよ」手に持っているトーストを眺める。バターがアメーバみたいに広がってトーストへ溶け込んでいた。「それに、幸いにもボクはチョコレートがそんなに嫌いじゃないんだ」
ウズメはそこでようやく顔を上げた。
泣いているような、笑っているような、そんな複雑な表情を見せて、ボクを見ていた。
要するに、既にボクはウズメに魔法を掛けられていたってわけだ。
だからこそ、こうしてボクはウズメの前にいる。
それは、今日のボクではなく昨日のままのボクだ
それが幸せかどうかなんて、ボクにはわからない。
きっと、神様だってわからないはず。
でも、ウズメが幸せならそれで良いと思う。
つまり、彼女を幸せにする番がボクに回ってきたということ。
「だから、ウズメはボクに魔法を掛け続ければいい」そう言ってから、ボクはトーストを齧った。
ウズメの頬を横断しているやつもこんな味なのかもしれない。