prologue
「初めまして、かな?」
視線だけを動かして声がしたほうを見る。
薄い微笑みを浮かべたウェイトレスが、ボクを見ていた。
彼女が、どうしてボクにそんな表情を向けているのか、良くわからなかった。
少なくとも、この場所においては相応しくない素振りだと思えた。相応しいのは、そう彼女が着ている制服くらいだ。
もしかしたら新しいサービスなのかもしれない。だけど、さっきのあの探るような台詞はいささか違和感を覚えたし、今も保持されている彼女の微笑はやけに親密的だ。いずれにせよ普遍的なサービスではないだろう。
ボクは黙って彼女の次の言葉を待っていた。そうすることで、この不思議な状況を理解できるだろう、と思ったからだ。
「私のこと、覚えているかな?」首を少しだけ横に傾けて、彼女は訊ねる。
「あぁ……」ボクは首肯する。つまり、彼女と会うのはこれが初めてではないということだ。「悪いけれど、覚えていないよ」
「本当に?」生まれたての仔猫みたいに、彼女は目を細めてボクを見据える。
「勿論。だって、君に嘘をつく理由がボクにはない」
「本当に、なにも覚えていないんだ?」
ボクは黙って首を縦に振る。正直、彼女が信じようと信じまいと、どちらでも良かった。それでも彼女は、前屈みになって、猫みたいな目を見開いて、ボクを見据える。
「そんなことより、注文しても良いかな」手にしているメニューを一瞥してから、ボクは言った。
彼女は瞬きを数回繰り返したあと、短く息を吐いて姿勢を正す。それから、おもむろに端末を手にして、勿論、お聞きしますよ、と微笑んだ。
クラブハウスサンドとコーヒーを彼女に依頼する。メニューを反芻している彼女の声をぼんやりと聞きながら、テーブルに載せていた煙草へ手を伸ばす。
「この前とは、銘柄が違うね」目敏く彼女が指摘する。
「そうかな」ボクは首を竦めた。「君がそう言うんなら、きっとそうだろうね」
片目を細めて彼女は腕を組んだ。ボクという人間を量りかねている、そんなふうなジェスチャーだった。煙草を口にくわえるまで彼女はそうしていた。ボクが煙草に火をつけると、彼女は両目を丸くして少しだけ後退する。まるで炎を怖がっている狼みたいだ。このままカウンターの奥まで誘導しようか、と思ったけれど、苦笑を浮かべるだけに止めておいた。
「美味しいの作ってもらうから、待っててね」
唇を僅かに持ち上げたあと、彼女は身体を翻す。尾長鳥の尻尾みたいに結わえられている長い髪が、その動きに合わせて静かに揺れていた。
彼女がカウンターの奥に消えるまで見送る。それから、椅子の背もたれに背中を?ずけて、吐き出される煙りをボクは眺める。煙りは上昇しながら世界を包んでいた。世界を少しずつ切り取りながら煙りは拡散していく。その現象にシンパシーを覚えるのは、他でもない、ボクという人間がそれと似たシステムを備えているからだ。
つまり、ボクは煙りと同義なのだ。
煙りのように生まれて。
煙りのように消えていく。
その限られた時間の中で情報を蓄積させて、死の瞬間に放出する。情報とは即ち思い出のことだ。つまり、ボクにはそれがない。今日のことは覚えていても、昨日のことは覚えていない。そして、明日になれば今日のこともボクは忘れてしまうだろう。
だから、ボクという人間は、毎日死んでいるようなもの。
彼女を世界から切り取ってペーストしたボクも、きっと今頃は天国のドアを叩いているんじゃないかな。明日になればボクもその仲間に這入る。そして、新しく生まれたボクも、次の日には同じ運命を辿ることになるんだ。
「唇、火事になるよ」
ウェイトレスの声で、ボクは思考を中断した。唇に挟まっている煙草を取り出す。ビーバーに齧られたみたいに、煙草はフィルターの近くまで消耗していた。アルミニウムの灰皿にそれを投げ入れる。それから、椅子に座りなおしたあとで、対面している彼女をボクは見つめた。
「お待たせしました」彼女はそういってから、まるで平泳ぎの練習をしているかのように両手を水平に広げる。
「どうして座っている?」テーブルに載せられた料理を一瞥して、再びボクは彼女を見つめる。「仕事は、続けないの?」
「続けてるよ。君の傍にいるのが、私の仕事。私が座っている理由がそれ」
「ボク以外のお客は?」
そう訊ねるボクに、彼女は瞬きをしてみせる。そして、おもむに辺りを見回したあとで、彼女は首を竦めた。
「空気に漂っている、アメーバの注文でも受ければ良いのかな?」彼女は少しだけおどけたふうに、そんなことを言う。「なんてね。冗談だよ。呆れた顔しないでよ。見たとおり、暇なの。そんなことよりも、食べて食べて」
肩を竦めて、クラブハウスサンドを一切れ摘まむ。
口に運んでから咀嚼するまでの一連の動作を、彼女は黙って眺めていた。気のきいたパフォーマンスをしているわけでもないのに、彼女はどこか愉しそうだ。そんな彼女に小首を傾げながら、ボクはコーヒーに手を伸ばす。
「ウズメだよ」
まるで、目の前に置かれたワインの話をするソムリエみたいに、彼女は言った。だけど、ボクが手にしているのはカップでありグラスではない。かといって、コーヒー豆の銘柄でもなさそうだ。
ボクが黙っていると、彼女は唇を尖らせて、同じ言葉を繰り返した。
「あ、そう」苦笑をして、それから彼女に応える。「それって、君の名前?」
「当たり前だよ。こんな可愛い名前、私以外に誰がいるの?」
「今のところ、君しか該当なさそうだね」
「今も昔も私しか該当しないの」
「冗談だよ」
「もう……」ウズメは嘆息する。「やっぱり、私の名前、覚えてない?」
首を縦に振ることでボクは応える。
「そう」ウズメはすこしの間、目を伏せた。「君の名前は、教えてくれないの?」
「セト。アマカセ・セトだよ」
「自分の名前は覚えているんだ?」
「まあね。多分、これは記録だと思う」
「私のは?」
「きっと、記憶」
「だから、覚えてない?」
「そういうこと」
「あぁ……、どうして私、こんな人好きになっちゃったんだろう」
「どういうこと?」
「私、君のことが好きなの、オーケー?」
「いや、だから、どうして?」
「煩いな。溺れている子供を助けるのに、理由が必要? それと同じことだよ」
「全然、違うと思うけれど」
「煩い煩い煩い。お願いだから、セトのこと好きでいさせて」
「きっとそれは、君のためにならないと思う」
「そんなこと、私が決めるよ。だからお願い、ね。それに、約束もあるし……」
「約束?」
「うん、約束」
「どんな?」
訊ねるボクにウズメは苦笑を浮かばせた。そして、彼女は、笑っているような、泣いているような、そんな複雑な表情をボクに見せて、こう言ったのだ。
「君のために唄うこと」
それこそ、唄っているように声を震わせて。