6.旅立ちの裏側で
王宮ではヴィクトルがもう一人の聖女――青葉についての報告を待っていた。
しばらく待つとオリガが昨晩の衛兵を連れてきた。
「昨晩私が寝所に入ってから神殿から何か報告はあったか」
「はっ、キース殿下より儀式をするので聖女様お二人をお連れするよう伝言がありましたが、殿下の言いつけの通り誰もこの部屋には通しておりません」
「それだけか?」
「キース殿下は昼前に三人目の聖女様と水の神殿へ旅立たれました」
「二人でか?!」
「そのようです。侍女が付き添うはずだったようですが、糧食の問題でお二人での出立になったと伺っております」
「……キース…… 分かった。もういい。非番に悪かった」
「いいえ!」
一礼して衛兵が退室する。
ドカッと大きなソファに座る。
どこで失敗したのか、ヴィクトル自身には分からなかった。
「いや、三人とも聖女だと言う可能性もあるのか…… オリガ、巫女を呼べ」
「はい」
忠実なオリガは水愛と湧水の身支度を中断して、神殿の巫女を呼ぶよう衛兵に伝える。
「ヴィクトル殿下、食事はどうされますか?」
「ああ、聖女の分と三人分、頼む」
「かしこまりました」
再度オリガは聖女の側を離れ、他の侍女にそれを伝える。ヴィクトルはその後ろ姿を見ながら、その所作が聖女とは比べ物にならない程美しいことに初めて気づいた。
そして再度ため息をついた。
自分は間違ったのだ。
せめて、昨日の段階で三人とも保護しておけば。
そう考え、そこが間違っていることに思い当たる。
「キースが…… 共に行ったか」
おそらくそれが一番正しい選択だろう。ヴィクトルは自嘲と共にそう思う。
常に、ヴィクトルより秀でた弟。剣も、政も。唯一キースにない物は精霊の加護だけだった。
それでも、加護など比べ物にならない物を持って生まれた。
キースの母である側室が暗殺を恐れ神殿に移したのもうなずける。
昨日の段階で、アレを預かっておいて良かったと、それだけは安堵する。
どの聖女に使用させるにしても、キースにやらせる訳にはいかない。
あの優しい異母弟は、きっと一生悔むのだろうから。
「ヴィクトル殿下、お食事の準備が整いました」
随分と考え込んでいたらしく、オリガの声に驚いた様に顔を上げる。聖女二人も昨日の異世界の服装でなく、貴族の令嬢が着るようなドレスを着ていた。
「すっごいヒラヒラ、お姫様ってか?」
と、アクアと名乗る聖女候補はドレスの裾をひらめかせてうれしそうに話す。この国の状況は昨日話したと言うのに。
当然ながら、この国の貴族令嬢からは見たことがない仕草だ。
「あたしたちにこんな格好させてどうするんですか?」
ユウミと名乗った聖女候補は、どうやらこの状況は気にくわないらしい。
・・・・・・いきなり知らない世界を救えと言われて、はい分かりましたと言える方が珍しいか。
ヴィクトルは水の神殿に旅立ったという、もう顔も覚えていない聖女を思う。
とにかくこの二人を連れて神殿に行ってみなければならない。
その前に食事だ。
二人を連れて食事に行くと、まず水愛の方が文句を言い出した。
「え―これって昨日と全然違くない? こんなの無理無理―」
「ホント― 釘打てそう」
給仕の者が顔をしかめる。
「二人とも、食べたくなければ食べずともよい。今この国には小麦のパンなどほとんど無いぞ」
「昨日はあったし―」
「だよね」
意識的に二人を無視して簡単に食事を済ませる。結局二人は食べなかったが、ヴィクトルはもうどちらでもよかった。早くこの二人を神殿に預けることで頭がいっぱいだ。
食事が終わるころ、呼んでいた巫女が着いたとオリガから報告された。
食事に手をつけない二人を呼んで、巫女に儀式をさせるよう言いつける。この二人が素直に儀式に応じるかはヴィクトルにも分からなかった。
ヴィクトルに分かることは、キースが同行した聖女は本物で、一刻も早くキースと聖女が水の神殿に着くことこそが国を救う唯一の方法だと言うことだった。
二人を巫女に預けた後、彼は父王の執務室に向かう。
とにかく事の顛末を報告して、せめてキースが無事に水の神殿に着くよう、自分に出来ることは無いか考える。
その途中で母である正妃が国王の執務室から出てくるのが見えた。
「母上? 何かあったのですか?」
「ヴィクトル。何でもありませんよ。貴方は何も心配せずともよいのです。此度の聖女召喚、見事でした。陛下に置かれても大層御喜びです」
「それは光栄です。その件も含め陛下に報告をと思いここに来たのです」
「その必要はありません。既に神殿が報告に来ておりました」
ヴィクトルの母は、ヴィクトルが政に関わろうとすると、殊更に心配する。
それ程に信用がないか。
自嘲と共に笑いたくなる。
それで優秀な弟を暗殺しようとして。
この国のこの先をどう考えているのか。
「貴方には他にしなければならないことがあるはずです。二人の聖女様はどうされました?」
「神殿の巫女に預けてきました。これから儀式を行ってもらうつもりです」
「それは良いですね。この霧雨のような雨では民の渇きは癒せないでしょう。貴方の選んだ聖女が本当の恵みの雨をもたらしてくれれば良いのですが」
「母上? 昨晩はまとまった雨が降ったと報告がありましたが?」
そのヴィクトルの言葉に正妃の顔が一瞬凍り付く。
なぜヴィクトルがそれを知っているのかとでも言うように。
ヴィクトルに、小さな疑念が浮かんだのはこの時だった。
「母上、神殿は何と言って来たのですか?」
「あなたが気にする必要はないことです」
母である王妃の顔は強張ったままだ。
「キースの事ですね」
「いいえ。貴方は何も気にせず民の事を考えていればいいのです」
「母上! キースがついている聖女は本物の聖女です。何をお考えなのか分かりませんが、決して邪魔などはしないでいただきたい」
「ヴィクトル。言葉が過ぎますよ。母はあの女の産んだ子など眼中にありませぬ」
「母上……」
「さぁヴィクトル。貴方の聖女様の所へ行ってお世話申し上げなければ」
ヴィクトルにとって母は絶対だった。しかしこの時はどうしても母を信じることは出来なかった。
「……聖女の世話は母上の方が良いでしょう。同じ女性同士、私では至らないことがあるかもしれません。しかも聖女たちは異世界育ち。この国のマナーなどを何一つ知りません」
「まぁ、母に聖女様の御世話を?」
「ええ、巫女だけでは高貴な者の振る舞いなどは心もとない。お願いできましょうか」
「もちろんですとも。貴方は何も心配しないで良いですからね」
そう言って正妃は神殿へ向かう。その後ろ姿を見送ったヴィクトルは今日何度目かのため息をついた。
母がキースを害そうとしていることは、おそらく国中が知っている。それでも自分の母だ。今までは積極的に母を止めたことは無かった。
そのことをこれほど後悔する日が来ようとは。
「さすがに聖女の水の神殿への旅まで邪魔をさせません」
ヴィクトルは小さく呟くと、当初の予定通り国王の執務室へ足を向けた。
父王から事情を聞くのは簡単だった。
父は善良だが、有事の際の王ではあり得なかった。
「神殿からは、キースの連れて行った聖女はたいした力を持たない出来損ないであると聞いたが?」
今頃何を?とでも言うように父王はのんびりと言った。
「そんな出来損ないの聖女が水の神殿へ行っては、日照りがひどくなるかもしれないから、連れ戻すと王妃は息巻いていたな。出来損ないが行ったところで何が起こるわけでもないだろうに」
王はそう言って、それ以上の会話はなかった。
「では陛下。その追っ手を出さずにいてください。その聖女は本物です。きっとこの国に潤いを取り戻してくれます」
真剣な顔でそう訴えるヴィクトルに、王は怪訝な顔をしながらも王妃は止めてくれると約束した。
その約束が、何処まで果たされるか、ヴィクトル自身にも分からなかった。
しかし今、国のために出来ることがあるとすれば、せめて弟を安全に水の神殿に行かせてやることだ。
それだけは、なんとかしなければならなかった。
その日は、ほぼ一時間おきには母からの愚痴がヴィクトルの元に届けられたが、ヴィクトルは無視を決め込んだ。
内容は聖女たちが無礼だ、命令を聞かない、礼義がなっていないなど。あの聖女の相手をしているうちは、母は動けまい、と彼は満足そうにその報告を聞いた。
「オリガ! 宰相の所へ行って各貴族領の義倉がどうなっているか調べられるか聞いてくれ」
私室に戻るとヴィクトルはまず侍女に声をかけた。
しかしオリガからの返事は無い。
「オリガ?」
控室をのぞくと、オリガはちゃんとそこにいた。彼の呼びかけに答えないことなど無かったと言うのに。
「どうしたんだオリガ」
「殿下…… 宰相閣下への伝言は…… その……」
オリガは、ヴィクトルが見たこともないような心許ない、怯えたような表情でそこにいた。
「宰相がどうかしたのか? オリガ?何があった?」
「お許しください。申し訳ありません!」
「オリガ、それでは分からぬ。私はお前に無理を言っているのか?」
「私は…… 殿下付きの侍女です。身の程をわきまえろと。決して殿下と親しく接することはならぬと宰相閣下からはきつく言われております。でないと……」
ほろり。
ひとすじ、その頬を流れたものは、外を潤した水より遙かに美しいとヴィクトルに思わせた。
「でないと、どうすると言ったんだ?宰相が言ったのか?」
「お許しください! 正妃さまからも同じように言われているのです。伝言を持って行くなど……」
震える声で言うオリガは、本当におびえているようだった。現在の宰相は正妃の兄にあたる。
「すまなかったオリガ。そんなことになっているとは知らなかった。宰相の所へは私が行こう」
「申し訳ありません。申し訳ありません!」
なさけなさに両手で顔を隠しているオリガに、自分が今まで立っていた場所はどんな場所だったかと自問するが、答えは出ない。
ここまで自分のために尽くしてくれている侍女にまで何を言っているのか。
表情に怒りを隠しきれないまま、自室を出て宰相の執務室へ行くと、この旱魃時にも関わらず体重の減らない宰相がどっかりと坐していた。
「おお殿下。どうされました。何かあれば私の方から参りましたものを」
「いや、ラザレス卿の手を煩わせるのも心苦しい。少し聞きたいことがあっただけだ」
「いやいや殿下の御心遣い、痛み入ります。今日はどのようなご用件でしょう?」
「母がさし向けた、キースへの追手を排除したい。送ったのはラザレス卿、あなただろう」
宰相の表情はさすがに変わらなかった。
それだけ場数を踏んでいるということか。
「殿下。何をおっしゃいますか。私も母君もそんなことは」
「茶番はいい。これ以上の問答は不要だ。まだ何かいい訳をするようなら私は王位継承権を放棄するからそのつもりでいろ」
「殿下。殿下は何か誤解を……」
にこにこと笑っているように言う宰相から、これ以上聞き出すことは無理だということはヴィクトルには分かってしまう。
これも慣れか。そう思うと情けなさしか沸いてこない。
「もういいと言っている。それと各貴族領にある義倉はどうなっている? まだ開けてはいないのか?」
義倉とは、飢饉や戦時など急に食料が必要となった場合に備えた備蓄倉庫である。こんな飢饉に備えたものである以上、開けていないはずは無かった。しかし、義倉を開けていればキースが食料を理由に聖女の同行の巫女を連れて行けないはずは無かった。
「ぎ、義倉でございますか…… 貴族領の物は、領主の権限になりますので私には何とも……」
ここへ来て、宰相の表情が変わった。
ヴィクトルが義倉のことを言い出すとは思わなかったと言うことか。
「あれは戦時にも使用する物。ラザレス卿の管轄でないはずがなかろう。開けたのか、開けていないのか」
「…………開けておりません。しかし、あれを開けてしまえば最悪、陛下も我々貴族も飢えることになりましょう!」
「陛下の許可は取った。すぐに各領の義倉を開けよ。公平に民に分配するように。聖女の召喚は成功した。もう旱魃が続くことは無い! それとキースに向けた追手を引き返させろ。私は本気だ」
それだけ言うと、振り向きもせずに宰相の執務室を出る。
自室に帰る間、ヴィクトルは各貴族領にある義倉をどうやって開けるか。
それとキースに向けられた追っ手をどうやって排除するか、ヴィクトルがやらなければならないのはその二点だ。
宰相と母の処遇は最終的には何とかしなくてはならないだろうが、それは最終的に、と言うことになるだろう。
まず父王が反論できないくらいの証拠がなければ。
ヴィクトルのため息は深かった。