私を呼ぶ人
エミリアは気が付くと、真っ白な部屋の中にいた。誰もいないし、何もない無機質な部屋だった。ただ、扉が並んで二つ付いているだけだった。しばらく待ってみたが何も起こらない。ひどく退屈になり左側の扉を開けてみる。すると柔らかい光に照らされた階段が何千段と続いていた。
気付けば、その光に吸い寄せられるようにエミリアはぼんやりと階段を登り始めていた。しばらく登って、エミリアは自分が杖なしで歩いていることにふと気が付いた。
―これは夢かしら?まぁいいわ。どうせ夢なら走りたいわ!走ることはできるかしら?わぁぁ!!出来る・・・!何年ぶりだろう・・・。―
エミリアは、階段を二段飛ばしで駆け上がり始めた。ちっとも息は切れないし、汗もかかない。体がふわふわと浮くように軽く、気が付けば階段の終わりが見えてきていた。
―あれ?もう、終わりが見えてきた。そんなに登ってきたかしら?―
そう思いエミリアが振り返ると、入ってきた扉が遠くに微かに見えた。ふと随分遠いところまで来てしまったと思い、エミリアは途方に暮れた気持ちになった。戻るにも戻れないところまで来てしまったと思い、エミリアがまた階段をゆっくり登り始めると頂上にひどく懐かしい人達が立っているのを見つけた。
「お母様!!!お父様!!デュークお兄様!!あぁ・・・。クロ!!!クロ!!!」
三段飛ばしで駆け上がると、エミリアはクロに抱きついた。
「会いたかった。やっと会えた・・・。」
ただ、号泣するエミリアを母は優しい手つきで背中を撫でてくれる。クロは尻尾を振り鼻を鳴らしながら必死にエミリアの頬を舐めてくる。
「エミリア。ここに来てはいけないよ。」と、優しい声でデュークが言った。
「どうして?」
「この扉を開けると、二度と戻れないんだ。」そう言い、デュークは後ろにある頑丈な扉を指さした。
「戻るって?どこに?」
「この世に。」
「いいの。私も連れて行って・・・。お願い。ディアンお兄様にはちゃんとお別れ言ってきたもの。」
「エミリア。」父の優しい声に、エミリアはクロを抱きしめたまま父を見上げた。
―お父様はこんな顔をしていたのね。記憶と少し違ったわ。ディアンお兄様とデュークお兄様はイケメンなのに、お父様はどちらかと言うと優しい顔立ちなのね。でも眉毛の形と瞳の色、私とそっくりだわ。―
「ずっと見守っていたよ。素敵な女性になったね。君は私の自慢の娘だ。」
「お父様・・・。」
「身を削って勉強をし、足のリハビリも必死にしてよくここまで頑張ったね。」
「はい・・・。」父の優しい言葉に、エミリアの両目から大粒の涙が溢れだす。
「おいで。」
そう言うと、父はエミリアを抱き上げ抱きしめた。
「随分と早く先に逝って、君たちには本当に大変な目に合わせてしまったね。教えなければならないことが沢山あったのに、こんな不甲斐ない父ですまなかった。」
「ううん。私があの日見送りもしないで・・・。お父様ごめんなさい。」
「エミリアも色々悩んでいたのに、頭ごなしに叱ってばかりいて申し訳なかった。どうかこんな父を許してくれないか?」
「お父様。私が悪かったの・・・。お父様が厳しく教えてくださったことは、何も間違いがなかったわ・・・。成長するにつれてお父様にどれだけ感謝したか・・・。」
「それを聞いて少し安心したよ。」父がほっと息を吐くと、母がエミリアに話しかけ始めた。
「エミリア。どうか近くで顔を見せて。」父の胸に顔をうずめていたエミリアが、母の方を向くと母がエミリアを父から引き寄せた。
「本当に美人になったわ。生まれた時、あなたにそっくりで心配したのを覚えていますか?」
そう母が父に笑いかけると、父も笑いながら答えた。
「私の母上と君の良いところを取ったようだ。」
「お祖母様?」エミリアが尋ねると、母が頷きながら答える。
「美しい人だったのよ。どこかに絵姿があるはずなのだけど・・・。あなたとディアンは、私たちの死後全部そのままにしているから・・・。もう少し、私たちの遺品を整理してちょうだい。ちっとも整理する気配がないじゃないの。」
「・・・。」
「あら、冗談よ。エミリア。そんな顔しないの!でもエミリアが戻ったら、遺品整理をしてほしいの。使っていないアクセサリー等をあなたとナタリーに引き継いでほしいし、ね?」
「お母さま。私も連れていって。もう離れたくないわ。」
そう言ってエミリアがしがみ付くと、母は背中を撫でながら答える。
「そうねぇ。私たちと?一緒に来る?エミリアも随分と頑張ったものねぇ・・・。そんなに辛いのなら・・・。」
「母上!駄目ですよ!」そう言うと、デュークが母から引き離し、エミリアの両肩を掴んで小さな子に語り掛けるように優しい声で話し始めた。
「エミリア。君はまだまだここに来るには早すぎる。来た道を戻ったら右側の扉を開けるんだ。そうしたら、元の世界に戻れる。ね?戻らなきゃ。君にはまだやらなければならないことが沢山あるだろう?」
「いやよ。お兄様。お願い。私、もう生きているのが辛いの・・・。側にいさせて・・・。」
「エミリアは、本当にもう思い残すことはないの?」
「うん・・・。」
「本当に?」
「・・・。うん・・・。」
「エミリア。僕はね、生まれた時から体が弱くて、10歳まで生きられないと言われていたんだ。それが24歳まで生きた。大往生したんだよ。でも、エミリアは違うでしょ?元から健康に生まれてきて、まだまだ十分生きることが出来るのに、諦めるなんてもったいないと思わない?」
「お兄様には、私の苦しみが分からないのよ!私がどんな思いで、今まで生きてきたと・・・。」
「そう、僕には分からない。だって、君はその苦しみを理解してもらう努力を何もしないじゃないか。君は一人でその苦しみを全部背負いこんで、その苦しみを和らげる努力を何もしないじゃないか。それを理解しろなんて、君の心を読まない限り不可能だね。」
「だって、どうしたらいいのか分からないんだもの。私のせいじゃない。全部私のせいなのに・・・。誰かに共有してもらおうなんて、そんな厚かましいこと出来ない・・・。」
「でも、僕は愛する妹の悩みや苦しみを教えてほしいよ。ディアンも同じじゃないかな?」
「・・・。」
「君だって、僕やディアンのためならなんだって出来るだろう?悩みがあったら教えてほしいと思うだろう?」
「うん・・・。」
「それは、僕たちも一緒だよ。それに加えて一番最後に生まれた妹だ。僕とディアンはどんなに君が可愛いくてたまらないか。」
「うぅぅ・・・。」エミリアのこらえきれない嗚咽だけが響く。
「エミリア。僕が最期に、『ディアンを助けてあげるんだよ。』なんて言ってごめんね。君がその言葉の意味以上に思い詰めて考えるなんて思わなかったんだ。ただ兄妹で仲良く暮らしてほしいという軽い意味だったんだよ。頑固なディアンと喧嘩したら、エミリアが折れてあげて欲しい、そんな意味だったんだ。」
そう言うと、デュークの目から涙が数滴落ちた。
「ごめんね、エミリア。僕の言葉が君を苦しませた気がする。ディアンを助けるため、睡眠時間を大幅に削ってまで勉強に時間を費やさせてしまったね・・・。でもね僕が本当に言いたかったのは、絶対幸せになるんだよってことだったんだ。」
「お兄様。」
「なんだい?」
「私ね、幸せって何か分からないの・・・。」
「ううん。エミリアは、本当は分かっているはずだよ。殿下のへの気持ちを無理やり押さえつける必要なんてもうないんじゃないかな?ほら、耳を澄ませてごらん。」
微かに、エム!と登ってきた階段の下から誰かが呼んでいる声が聞こえる。
「ほら、君を待っているよ。」
「でも、アルは唯一の王位継承者で、私こんな体になってしまって。「エミリア!」」
「エミリアは、今の自分を恥じることなんて何もないよ。むしろ自分自身を誇りに思うべきだ。王立学園在籍時はずっと主席をキープし、コリン王国の学園も半年で卒業した才女だ。どれほど国と民のために尽くすことが出来る女性か。片足が悪いからなんだと言うんだ。目が悪くなってメガネが必要になるように、足もただ事故で悪くなったから杖を使っている、それだけだよ。何も恥じるべき必要がない。」
「・・・。」
「身内のひいきを抜きにしても、アルフォンス殿下にふさわしいのは君しかいないよ。それに加え、君たちは愛し合っている。何も問題がないじゃないか。」
「・・・。」
「ここに長くいてはいけないよ。そろそろ戻りなさい。」
「お兄様・・・。」
「愛する人たちに、自分が味わった苦しみを与えてはいけないよ。僕たちや母上父上はそういう運命だったんだ。君には、まだ早すぎる。」
エミリアがデュークにしがみ付いて泣くと、デュークの優しい手が頭を撫でる。
「君が寿命を全うするとき、僕たちがまた迎えに行くから。ね?世界は日々目まぐるしいスピードで変わっていく。君がこれから見てくる世界を、その時にじっくり教えてほしい。エミリア、どんなに苦しくても生きなければ。死んだら何もできないよ。輝けるのは生きている人の特権だ。」
エミリアが、胸にうずめたまま微かに頷くと、デュークが優しく言った。
「クロ。連れてってあげて。」
デュークがそう言うと、エミリアの足元で伏せっていたが起き上がった。デュークがエミリアの体を優しく離し、大型犬のクロの背中に乗せる。
「クロ、潰れちゃうよ?」
「ここは重力のない世界だから、大丈夫。」
「デュークに全部言われてしまったけど、エミリア。幸せになりなさい。そしてこれからは、自分のために生きなさい。世界で一番エミリアを大切にできるのはエミリア自身しかいないよ。自分を大切にして、これからは生きやすいように生きなさい。」
優しく父が言う。
「エミリア、ゆっくりこっちにおいで。お母さんは永遠にあなたのお母さんよ。ずっと見守っているから。何があっても、ずっとあなたの味方だから。」
母が微笑みながら言う。
「エミリア。王都にある屋敷の僕の部屋の右側から二番目の机の引き出しに、日記が入っているんだ。それを、君とディアンで読んでほしい。ちょっと恥ずかしいけど、君たちの子供の頃の話が綴ってるよ。エミリア、そして幸せになるんだよ。幸せになる方法は、殿下と一緒にいれば自ずと分かるから。さぁ、もう行きなさい。クロ。」
そうデュークが言うと、クロが駆けだした。
「お父様。お母さま。デュークお兄様。ありがとう・・・。」
エミリアが振り返り泣きながら必死に声を振り絞り言うと、三人がずっと手を振っているのが見えた。行きは何時間も駆けて登ったのが、帰りはあっという間だった。下の扉の前で、クロは足を止めたのでエミリアも降りる。
「クロ。クロ・・・。」
「クゥーン。」
「クロ・・・。」
「ワン。」
「うちに来てくれてありがとう。ずっと私の味方でいてくれてありがとう。」
「ワン!」
「うちに来て幸せだった?」
そうエミリアが聞くと、クロの瞳の中にクロが生まれてから見た光景が映りだした。
王都の貧しい家で黒い犬が五匹子犬を産んだ。一匹は貧しい家でそのまま飼われることになり、三匹は近所で貰い手が見つかった。しかし一匹だけ貰い手が見つからなかった。「ごめんね。」そう言い子犬の母の飼い主が公園の雑木林に子犬を捨てる。子犬は必死に泣くが、誰も助けてくれない。数日間寒さを木の陰で過ごし、雨で土に溜まった泥水を飲む。もう駄目だ。子犬ながらに死を悟った時、男の子と女の子の声が聞こえる。衰弱している子犬の目には白金の髪をした男の子が自分を抱き上げ、白金の髪をした女の子が自分を優しく撫でるのが目に映った。
それから、いつもその二人の兄妹と一緒だった。特に学校にまだ行ってない女の子とは夜以外ずっと一緒だった。本当は一緒に寝たいのに、大きな屋敷で一番偉い兄妹の父親が駄目だという。その人は怖くて少し苦手だが、二人きりの時はおやつをくれたり誰よりも優しくしてくれる。やがて妹が学校に行き始めて退屈していたクロを、兄妹の母が屋敷を抜け出し散歩に連れて行ってくれる。帰ってきたころには真っ青な顔している侍女たちがいるのだが、母は何度も外の景色を見せてくれる。クロはそんな屋敷以外の景色がとても新鮮だった。そんな優しい二人が、ある日を境に帰ってこなくなった。不思議に思うクロに、誰かが亡くなったのよと教えてくれた。亡くなると言う意味がクロには分からなかったけど、兄妹が号泣していたので何か悲しいことがあったということだけクロは理解した。
女の子の一番仲良しな男の子が、葬儀というものが終わったあと、泣きながらクロを洗ってくれた。気持ちよくてクロが喜んでいると、「これからは僕がいないとき、エムをクロが守ってあげてね。クロがいない時は僕が守るから。」と言う。意味が分からなかったけど、洗ってくれてありがとうの意味も込めてクロが吠えると頭を撫でてくれた。それから、領地にある女の子の部屋に連れていかれた。部屋をノックしても返事がないので男の子が扉をあげると、女の子はベッドの中で布団をかぶって泣いていた。クロがベッドに飛び乗ると、女の子はクロを抱きしめて泣いた。その様子を見て、一番仲良しな男の子はそっと扉を閉めたのだった。
それから、たくさんのことがあった。こっそりと赤いものをよく吐いていた優しかった兄妹の兄も、いつの間にかクロの前からいなくなった。毎日欠かさず成長した兄妹がクロの散歩をしてくれたが、気付けば日中クロは寝てばかりいるくらいまで体力が落ちていた。とにかく眠い。クロは、いつのまにか兄妹の年をとっくに追い越していた。
そんなある日。朝兄妹と散歩した後、クロは体が突然重くなり動けなくなった。妹が帰宅した足音がするのに動けない。そんなクロを見て、妹が泣きながら何か言っている。悲しませたくないのに、クロは体が動かない。気を抜くと意識がなくなりそうで、早く兄が帰ってきたらいいのになと思っていると、兄の足音がした。迎えに行かなきゃ、そう思い歩き始めると一瞬で動けなくなる。兄が自分の名前を呼んでいるのが聞こえる。聞こえているよ、そんな思いで唯一動く尻尾を必死に動かす。ここまでだと悟ったクロは、二人にありがとうと心の中で呟くと最後に意識を失ったのだった。
「ワン!」
「クロ・・・。ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。」
エミリアが泣きながら抱きしめると、クロは頭で扉の方にエミリアを誘導する。
「クロ・・・。」
「ワン!」
まるで早く行けと言うように、クロが吠える。
「クロ・・・。」
「ワン!」
「クロ・・・。」
「ワンワン!」
分かったから早く行け、とクロがどや顔をする。エミリアがゆっくり扉を開き、振り返るとクロがじっと見つめていた。クロも幸せになれよと言っているようで、エミリアはありがとうと泣きながら言うとクロを見つめながら扉を閉めた。
「エム!」
右側の扉からずっとアルフォンスの声がしていた。早く会いたい、そんな思いでエミリアが扉に手をかけると強風が吹いた。何かに引き込まれるように、エミリアはじっとただ身を任せたのだった。




